意義
「如月先生って、休日に小さな男の子と一緒にいましたよね?可愛いお子さんですね!」
職員室の雑談の中で、その言葉が耳に飛び込んできた瞬間、心臓が跳ねた。
「えっと……」
何をどう答えればいいのか、一瞬の間に何通りもの言葉が頭をよぎる。
子どもって言っていいの?弟? 親戚の子? それとも――
「えっ、でも如月先生ってまだお若いですよね? なら、親戚の子ですよね」
別の同僚が軽い口調で言い、場が和やかに流れそうになる。あゆみもそれに乗って「そうですね」と曖昧に笑ったが、心の奥に小さな棘が刺さる。痛みは小さいけれど、抜くこともできない。
それで話が終わると思っていた。
けれど、放課後になって、教頭から呼び出しを受けた。
「如月先生、ちょっとよろしいですか」
静かな声に、あゆみの背筋がわずかに強張る。教頭の表情は柔らかいが、どこか探るような目をしていた。
「先ほど、職員室で話題になっていましたね。先生、休日にお子さんと一緒にいたとか……」
「あ……はい」
あゆみは、咄嗟に言葉を選びかねた。
何を言えばいい? ここで「家族です」と言ってしまえば、何か問題になるのだろうか。
教頭は少し言葉を選びながら、淡々とした口調で続けた。
「先生のプライベートに口を出すつもりはありません。ただ、学校というのは、どうしても噂が立ちやすい環境です。特に先生のように若い新任の方は、ちょっとしたことでも注目されがちでしてね」
柔らかい言い回しだったが、その意図は明らかだった。
“目立つ行動は避けたほうがいい”と。
「誤解を招くようなことがあると、保護者の方からも色々と質問が来ることがありますから……。まあ、うまくごまかしていただけると助かります」
その言葉を聞いた瞬間、あゆみの中で何かが冷たく固まった。
学校に迷惑をかけたくない。すばるや子どもたちにも、余計な負担はかけたくない。
でも、自分の存在が「隠すべきもの」になってしまうことに、違和感が募る。
――私のしていることは、そんなに後ろめたいことなの?
「……わかりました」
それだけ返して、あゆみは頭を下げた。
その帰り道、無意識に車を走らせていた。
気づけば、実家の近くまで来ていた。
静かな墓地の一角。あゆみは、母の墓石の前に立った。
線香の煙がゆるやかに空へと昇っていく。手を合わせながら、目を閉じる。
「……お母さん」
語りかけるように、小さく声を出した。
「お母さんは、最後まで『母親』だったよね」
日記に書かれていた言葉が蘇る。
最後まで母であることを貫き、子どもたちを守ろうとした母。病気のことを隠し、娘たちの人生の邪魔にならないようにと願った母。
「私も、家族になりたいって思ってる。蓮や莉桜と、一緒にいたいって」
でも――
「それは、母親になりたいからなのかな……」
問いかけるように呟いたが、答えは返ってこない。
ただ、風が吹き、草がざわめいた。
自分が母になりたいのか、それとも「必要とされる存在」でありたいだけなのか。
その違いが、わからない。
「……私は、何者になりたいんだろう」
墓前に置いた花が、わずかに揺れた。
遠くで鳥の声が聞こえる。
喪失の春が過ぎ、季節は確かに巡っている。それでも、あゆみの心はまだ、答えのない迷いの中にいた。
そして、その迷いが晴れる日は、まだ見えなかった――。




