遺された言葉
母の部屋は、驚くほど整然としていた。
衣類も、化粧品も、本棚に並ぶ本も、すべてが綺麗に整えられている。
まるで、これから誰かがここで新しく暮らし始めるかのように、無駄なものが一切なかった。
けれど、それは違った。
これはきっと、母自身が終わりを悟り、少しずつ整理していたのだ。
——自分がいなくなった後、残される家族が困らないように。
「……なんか、まだお母さんがここにいるみたい。」
あゆみがそう呟くと、隣で整理をしていた姉が、机の引き出しを開けた。
「……あゆみ、これ。」
取り出したのは、古びたノート。
表紙には何の装飾もなく、ありふれた茶色の表紙。
けれど、開かれたページには、母の文字がびっしりと並んでいた。
「お母さんの……日記?」
姉がそっとめくる。
そこには、母がこの世を去るまでの記録が残されていた。
母の病気と治療の記録
「癌だと告知をされた。これから治療が始まる。」
あゆみは息をのんだ。
「想像以上に辛かった。痛み、吐き気、思っていた以上に体がいうことを聞かない。」
「でも、ここを頑張れば大丈夫。」
紙の上に並ぶ文字は、力強く、はっきりとしている。
まるで、その頃の母が、未来を信じようとしていたかのように。
「どうやら進行が早いらしい。若いって証拠だね、笑」
その言葉の軽さに、あゆみは胸が締め付けられる。
どれほどの思いで、この言葉を綴ったのだろう。
「でも、それを聞いたお父さんが大泣きしてね。」
「あんなに泣くお父さんを見るのは初めてだった。病気の衝撃より、その光景のほうが衝撃だった。」
姉がページをめくる手を止めた。
母は、どれほどの思いでこの言葉を残したのだろう。
「……お母さん、こんなに早く終わりが来るなんて、思ってなかったんだね。」
あゆみの震える声が部屋に響く。
「半世紀も生きていないのに、意外と早く終わりが来るんだなって思った。」
そして、その次の言葉。
「終わりが来るよりも先に、孫たちと遊ばなきゃ。」
「……孫?」
「たとえ短くても、私の中では、母として、おばあちゃんとして生きた時間にしたい。」
その文字を見た瞬間、あゆみの目から涙が零れた。
「孫になる予定の子ども達と遊べたことが、本当に嬉しかった。」
「れんくんが『おばあちゃん』と呼んでくれた時、本当に嬉しかった。」
遊園地での母の笑顔が、鮮明に蘇る。
母はあの時、全力で楽しもうとしていた。
それが、自分に残された時間が少ないことを知っていたからだったと、この日記を読んで初めて気づいた。
「……あの時、お母さん、本当は無理してたんじゃないの……?」
あゆみも姉の香己も無言のまま唇を噛みしめる。
だが、母は最後まで弱音を書いていなかった。
「短い人生だったけど、最後に素敵な思い出ができた。」
そんな風に締めくくられたページを、あゆみは泣きながら抱きしめた。
「香己にはプレッシャーをかけすぎたかもしれない。」
姉はページをめくる手を止める。
母は看護師として完璧を求め続けた姉に対し、厳しすぎたことを後悔していた。
「歩己には比べすぎた。」
「取柄がなくても、人並みの道を歩けばそれでいいと思っていた。」
「でも、忘れていた。あの子の取柄は、頑張り屋なことだった。」
あゆみは、胸が詰まった。
母は、最後にようやく自分のことを認めてくれたのだ。
今まではずっと、姉と比べられてばかりだったのに。
「お母さん……。」
「頑張り屋さんのあの子のことだから、きっと合格するだろうけれど、私はもうそれを聞くことはないのね。」
その言葉を見た瞬間、あゆみは堪えきれずに涙を流した。
「お母さん、私、合格したよ……。」
でも、その言葉を伝えることはできない。
もうどれだけ呼びかけても、母は返事をしない。
ただの紙の上にしか報告できない、届かない報告。
「どうして、もう少しだけ、もう少しだけ生きてくれなかったの……?」
姉の香己も、声を上げて泣く。
「きっと香己は看護師だから気づいてしまう。だから帰ってこなくても大丈夫なんて言ってごめんね。」
香己は目を閉じ、震える声で言う。
「やっぱり……。」
あゆみは拳を握りしめる。
「どうして、どうしてお母さんは言ってくれなかったの……?」
あゆみの求める答えは記されていた。
「本当はみんなと一緒に居たかった。でも、子どもたちに迷惑をかけたくなかった。」
「私は母親だから。」
その一文を見て、あゆみは日記を抱きしめ、声を上げて泣いた。
香己とあゆみは、互いに涙を拭いながら向かい合った。
「ねえ、お母さんってさ、ずっと母親だったんだね。」
あゆみの震える声に、香己も涙をこぼしながら微笑む。
「うん……最後までね。」
日記の文字は、次第に掠れ、最後の数ページになると弱々しくなっていた。
まるで、母の命が少しずつ消えていくように——。
そして、最後の一文。
「きっと、私は少しだけ未練を残して去ると思う。」
「そして、子どもたちが泣いてくれたとしたら——」
「私はこの世に少しだけの未練と、家族の涙を残して逝くことができる。」
「これほど幸せなことは、きっとないでしょう。」
静かな部屋に、二人の嗚咽だけが響いていた。




