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遺されるもの

 葬儀を終え、参列者が去った後、遺影と香炉だけが静かに佇んでいた。

 そこに漂うのは、母が確かに存在したという痕跡と、もう決して戻らないという現実。


 あゆみは何度も母の名前を呼びかけそうになった。しかし、もう返事はない。

 その度に喉の奥が詰まり、声にならない息だけが漏れる。


 すばるはそっとあゆみの背中に手を添えたが、彼もまた、何も言えなかった。


 リビングの仏壇の前に座る父の姿は、どこか別人のように見えた。

 背筋はいつも通り伸びているのに、影がやけに薄く見えた。


 ゆっくりと線香を上げた後、父はしばらく黙ったまま、母の遺影を見つめていた。

 そこには、いつもの優しい笑顔があった。


 あゆみは、その表情を見た瞬間、胸が締めつけられるような感覚に襲われた。

 もう二度と会えないのに、写真の中の母は今にも声をかけてきそうなほど穏やかだった。


 父は、ふっと小さく息をついた。そして、静かに口を開く。


「……遺される側の痛みが、どれほどのものか、考えたことはあるか。」


 父の声は、驚くほど静かだった。


「死んだ者よりも、遺された者のほうが辛いってことを。」


 あゆみは息を呑んだ。


「お前たちはこれから先も生き続けるんだ。」

「俺も母さんと、美雪と一緒に生きていくつもりだった。」


「家に帰っても、あいつはいない。話しかけても返事はない。食卓にはもう、あいつの席はない。」


 淡々とした言葉の一つ一つが、胸を締めつけた。

 母がいない——そんな当たり前の事実が、ここまで深く突き刺さるとは思ってもいなかった。


「お前たちは、これから一緒に生きていくつもりなんだろう?」


 父はすばるに視線を向ける。


「ならば、その痛みを覚悟した上で進んでいるのか?」


 すばるは息を詰まらせた。あゆみも驚き、父を見つめる。


「俺と美雪は、五つ違いだがまだまだ若い。それでもこうして、先に逝かれてしまった。」


「……すばる、お前とあゆみは九つも違うんだろう?」


 すばるの手が、わずかに震えた。


「俺がこの結婚をすぐに認められなかったのは、お前のことを信じられなかったからじゃない。」


「あゆみが取り残されるのが、今の俺と同じ思いを、あゆみにさせるのが怖かったんだ。」


「愛する人を見送り、遺される側の苦しみを、お前たちはまだ何も知らない。」


「……だが、いつか必ず知ることになる。」


「その時、お前はどうする?」


 父の問いかけに、すばるもあゆみも、何も言えなかった。


 遺される者の痛み——それがどれほどのものなのかを、考えていなかったわけではない。

 いつか必ず訪れるとわかってはいた。


 だが、それは漠然とした未来の話であり、どこか他人事のような感覚だった。


 こんなにも現実としてのしかかるものだとは、思っていなかった。


 すばるは唇を噛みしめ、あゆみは拳を握りしめた。


 今、何か答えなければならない。


 それなのに、どう答えればいいのかわからなかった。


 父は二人の沈黙を見つめたまま、ふっと小さく息をついた。


 線香の煙がゆっくりと昇っていく中、低く、しかし確かな声で言った。


「……一つだけ言っておく。」


 その言葉に、あゆみは息をのむ。

 すばるも背筋を伸ばし、父の言葉を待った。

 父は仏壇を見つめながら、ゆっくりと続ける。


「遺される者の痛みは、想像よりもずっと重い。」


「そして、それは遺す側の覚悟も同じだ。」


 その言葉が、二人の胸に突き刺さる。


 すばるは、今まで自分がどれほど覚悟を持っていたのかを考えた。

 あゆみは、自分がどれほどの未来を見据えていたのかを考えた。


 しかし、今はまだ答えが出せない。


 ただ、母を失った父の姿が、これ以上ないほどの現実を突きつけていた。


 部屋の中には、静寂だけが残った。


 母が遺したものは、まだ消化しきれない。


 けれど、この痛みを抱えながら、それでも前に進んでいくしかないのだ——。

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