離れていく影
夕方のリビング。あゆみは教職教養のテキストを開いたまま、手が止まっていた。何度も遥香やゆうきの力を借りてはいるが、法規の条文はどうしても克服できない壁だった。
ページを見つめる瞳が次第に潤んでいく。厳格だった父の声が頭の中で響く。
「努力しないやつに、何かを成し遂げる資格なんてない。」
その言葉が胸を締め付ける。さらに、完璧な姉・香己の姿が浮かぶ。
「ほら、あんたはまだまだなんだから。」
香己の一言一言が、心の中で何度も突き刺さるようだった。
(もっと頑張らないと……私はまだ全然……。)
手にしたペンを強く握りしめ、再び条文と向き合おうとするが、次第に涙が滲み出し、手元が見えなくなった。
その時、隣に座っていた遥香があゆみの異変に気づく。
「どうしたの?」
柔らかな声で問いかけられると、あゆみは堰を切ったように言葉を漏らした。
「遥香さん……私、すばるさんと結婚するって決めたけど、本当はまだまだ子どものことも苦手で……。」
あゆみの声は震えていた。
「でも、それだけじゃないんです……。」
遥香は静かに耳を傾ける。
「教師になりたいから頑張っているし、それがすばるさんとの結婚の条件だから、絶対に合格しなきゃいけないって思ってます。でも、まだ子ども嫌いは完全に克服できていなくて……それでも、教育に興味を持てたのは実習のおかげで……。」
言葉を重ねるごとに、あゆみの声は加速していく。
「それに子ども達と一緒に過ごすうちに、自分も変われるかもしれないって思ったんです。だから小学校教諭に転向したのに。自分で決めたことなのに……でも、そう決めたのは、もう後戻りできないって気持ちもあって……。」
「だって、私たちの恋愛は普通じゃないし、特殊だからこそ、みんなが納得できる形を見せなきゃって思ってて……。」
あゆみは拳を握りしめながら、涙をぽろぽろと流した。
「全部、頑張らなきゃいけないって。私が頑張らないと、全部壊れる気がして……。」
遥香はそんなあゆみをそっと抱きしめた。
「そっか……よくここまで頑張ったね。」
その言葉に、あゆみはさらに涙をこぼす。
「でもね、条文なんて全文を覚える必要はないのよ。」
遥香は優しくあゆみの頭を撫でながら語りかける。
「試験だって、100点を取らなきゃいけないわけじゃない。条文だって穴埋め形式で覚えれば十分。大事なのは、気楽に取り組むこと。」
あゆみは遥香の言葉に耳を傾けながら、少しずつ涙を拭った。
「お父さんやお姉ちゃんは、あなたと同じ道を選んだの?そうじゃないよね?」
遥香の問いかけに、あゆみは驚いたように顔を上げる。
「じゃあ、比べることなんてできないじゃない?あなたは如月家で前例のない立場に立ってるの。前例がないなら、比べる必要なんてないのよ。」
遥香の力強い言葉に、あゆみの心に少しずつ温かさが広がっていった。
ふと背後から物音がした。振り返ると、すばるとゆうきが廊下の影から顔を覗かせていた。
「すばるさん……ゆうきさん……いつからそこに?」
あゆみの声に、二人は少し気まずそうに苦笑した。
「最初から……。」
すばるは申し訳なさそうに答えた。
「そんな風に思ってたなんて……ごめん、僕、全然気づけてなくて……。」
すばるはそっとあゆみの手を握り、深く息をつく。
「無理させてたよね。でも、本当に誇らしいよ、あゆみ。」
ゆうきはその様子を見ながら拍手をして言った。
「いやいや、遥香、君って本当にいい人だな!俺、ちょっと惚れ直したわ。」
「何言ってるのよ。」遥香が軽く突きながら微笑む。あゆみもそれにつられて微笑み、リビングには温かな空気が広がった。




