平和という戦争
停滞、後退、格差社会。これら全ての元凶は誰か。
平和は本当に「平和」なのか。
私達の多くは平和と聞き、何を想起するだろうか。多くが「幸福」「安全」など「良いこと」のように考えるだろう。私も元より平和の中に生きてきた。戦争など対岸の火事であり、災難な事だと考え、まるで自分に無関係なことのように話題にも出さない。しかし、戦争が実は人間という生物の必然状態なのではないかと最近考えるようになった。その可能性について論じていきたい。
戦争が齎すのは多大なる犠牲者と資源の損失だ。では平和が齎してきたのは何であろうか。それは技術の大停滞に圧倒的格差社会、後進国の飢餓に帝國主義の台頭だ。
ここで「損失、すなわち死」について自論を挟みたい。
私は人の死と、人生の死は天秤にかけるべき意義だと考えている。人生の死はすなわち時間牢獄の中で嬲り殺されている状態である。人の瞬間的死とは全く違う地獄だ。人生の死を一般用語で置き換えるならば「搾取」であり「洗脳」である。この状態の人間は戦争状態にある人間より過酷であることを私は誰よりも知っているつもりだ。他者と相入れることはなく、孤独の中「帝国」に幽閉され、まるで島流にされた者のように扱われる人生は戦時中の死と隣り合わせにある兵士と精神状態はさほど変わらない。変化を待ち続ける「死んだ人生」はやがて腐り切って、寿命により「死」に変わる。この不変を破る『死』はある意味救いである。しかし、寿命による『死』に何の意味があろうか。人類の発展に寄与せず、他者になすがまま欲に溺れて死んでいく人生に、現代人の人生に何の意味があろうか。私は人生の死、不変の地獄こそが「平和」の本質だと考えている。
比較対象にしたいが、実現していない共産主義下の「平和」と現代の「平和」について論ずるつもりはないが、少なくとも「平和」は「搾取地獄」であり「人生の死」であることはこの七〇年間の歴史が証明してくれた。我々が長きにわたり辛苦を噛み続けた地獄の正体、黒幕は「平和」であった。この停滞期が人類を後進させ、とりわけ格差社会の根本原因であった。
戦争は労働者の犠牲によって成り立つが、戦争の本質は労働者による資本家への下剋上であったはずだ。明治維新から第二次世界大戦まで戦争の口実的プロパガンダを無視し、銃と刀を率先して手に取ったのは労働者であった。元より資本家のプロパガンダなど取るに足らない戯言だと知っていながら「鬼畜米英を斃せ」と前進した将兵の多くは貧困農家の生まれである。資本家と皇族に反旗を翻し、戦争継続を唱えたのも労働者将兵である。これらの事実から私は確信した。貧困な人々は「平和」という「飢餓」を恐れて変化を求める戦争を選んだのだ。
果てなき飢えを乗り越えるには資本家を抹殺できる状態を作らねばならない。それこそ戦争の本懐であり、一兵の動的起源である。
貴族階級や知識階級は常に他者を蹴落とし成り上がり、傲慢に嘲笑う。こいつらこそ人類の敵であり、平和を欲している悪魔である。この悪魔を殺すには悪魔を殺す道具と舞台が必要である。
戦争をしている国は常に技術の向上を考えねばならない。文化の滅亡と隣り合わせである戦時国家が生き残るには死に物狂いで敵国より技術を発展させる必要がある。しかし第一にこの技術発展に寄与するのは労働者であることを忘れてはならない。聡明な知識階級は実践ができず、傲慢な貴族階級は命ずる事しかできない木偶である。人類を飛躍させ、死んだ人生に生命を与えるのは戦争しかない。停滞こそ平和であり、人生の死こそ平和である。人類が平和の悪夢から目を覚ました時、必然的に戦争を選ぶ。