ヴァイオレット1
「ヴァイオレット、起きて下さい。ヴァイオレット、お願いですから……」
バチッ
「いたっ」
「ヴァイオレット、逃げますよ」
激痛が走って、目を覚ますと、目の前に見たことのある顔が……
「アレクシア・ノーザンブリア!!」
「しーっ。静かに。逃げるのです。ヴァイオレット」
「ヴァイオレットって何だ。私はシオンだ!」
「静かに。人が来てしまいます。わたくしが名付けたのです。いい名前でしょう? 貴方は、これからしばらく南領人になります。お花の名前で、色の名前で、紫色。貴方にぴったりです」
「ちょっ、止めろ!」
いきなり人の寝室に入って来て、パジャマを脱がせようとボタンをはずし始めた痴女を振り払った。
「これを着てください。早く。お願いですから、急いで」
大きな包みから取り出したのは、女性用のドレスだった。
「女物じゃないか?」
「女の子なんだから当然です」
ここは他家の城だぞ?
しかも、惣領の寝所だぞ?
何、勝手に入って来てるんだ?
お前、それでも姫か?
「女の子だった頃のことなんて、忘れた」
「うーん。これ、どうするのかしら?」
全然聞いてない。
ドレスの着せ方が分からないようだ。
「着せ方、知らないのかよ」
「わたくし着付けは習ったのです。でも、着せてもらうことはあっても、着せたことはないのです」
「なんでもっと着るのが簡単な服にしなかったんだ」
「どれが着るのが簡単かなんてわかりません」
ダボダボな上に、ちゃんと締められていないから、ずり落ちてくる。
誰の服を貰ってきたんだ?
「とりあえず、縛れ。ずり落ちなくなるだろ?」
「わかりました!」
本人はグイグイ引っ張っているつもりだろうが、要領が悪くて、まだ緩い。
でもまぁ、マシにはなった。
「まあいい。ローブを着れば、わかんなくなるだろ」
「靴はこれです。履かせ方はわかりません、わたくしのを見て下さい」
靴はハーフの編み上げブーツで、ベッドの隣に座って自分のドレスの裾を持ち上げて私に見せた。
「お前、姫が男に足を見せるな」
「ヴァイオレット、まだ男の子のつもりでいるのですか? 意味が分かりません」
「意味が分からないのはお前だ。アレクシア。人に勝手に名前を付けやがって」
「だって『ミレイユ』は取られてしまいました。『シオン』はもうやめです。新しい名前が必要です」
ミレイユは取られた。
確かだ。
私はかつて『ミレイユ』という名前だった。
東領イースティア家の一の姫、ミレイユだ。
東領イースティア家は男の子が生まれにくい家系だ。
先代イースティア公には男の子が生まれず、母が女領主となった。
父は、いわゆる中身のない種馬だった。
領内の紫色の瞳で男の子の生まれやすい家系だったから、イースティア家に婿に入った。
その成果でイースティア家にも待望の男の子が生まれた。
弟のシオンだ。
奇しくも、女の子が生まれにくい北領ノーザンブリア家に久々の姫が生まれた年でもあり、イースティア家は早々にノーザンブリア家に縁談を打診した。
しかし、何度打診しても「先約がある」と言ってお断りの返事しか返ってこなかった。
先約があると言いながら、姫の婚約が発表されることがなかったため、姫を北領外に出したくないノーザンブリア家のつまらない言い訳だろうと推測した。
それでイースティア家は、北領国境近くの避暑地にノーザンブリア家を招いて両家の交流会を行った。
惣領シオンは、幼いながらも冴えわたるような美しさの公子だったから、姫もシオンを見ればきっと好きになり、縁談を進めやすくなると思った。
「アレクシア姫に優しくして、好きになってもらって、結婚の約束をしてもらうのですよ」
シオンは、母上からそのように言い聞かされていた。
だから、シオンは友好的に接し、姫と打ち解けてきたタイミングで姫に求婚した。
「アレクシア姫、私と結婚してください」
たかが5才、されど5才だ。
シオンには既に政略が理解できていた。
賢く美しいシオンに求婚されて喜ばない姫がいると思っていなかった。
しかし、シオンは姫の好みではなかった。
「わたくしは、兄様と結婚します。貴方も貴方のお好きな方とご結婚なさってください」
アレクシア姫は幼稚だった。
5才にもなって、兄君と結婚できないことを知らなかった。
シオンがそのことを教えると、シオンが大嫌いになった。
「あの姫はダメです。男の子を生むかもしれませんが、頭が悪くてイースティア家を潰すような子しか生まないでしょう」
シオンは辛辣だった。
2日目、決裂したシオンとアレクシア姫は一緒に遊びたがらなかった。
だからシオンはカール卿と、ミレイユ姫だった私がアレクシア姫と遊んだ。
2つ年上の私の目から見たアレクシア姫は、普通の姫だった。
私が2年前に知っていたようなことを知っていたし、私が2年前に出来たようなことが出来た。
私がシオンが大好きだったように、アレクシア姫はカール卿が大好きだった。
でも好きのレベルが違った。
庭で花冠を作っていた私とアレクシア姫がおかしな叫び声を聞いたとき、シオンとカール卿はのたうち回って苦しんでいた。そして人間じゃないみたいに暴れだした。
アレクシア姫はおかしくなったカール卿に必死にしがみついて、「わたくしです。兄様。あなたのダイアモンドです。兄様」と同じ言葉を繰り返した。
冷静に聞けば、妹を宝石に例えて愛でるなんて、気持ちの悪い兄妹だ。
でも、その時は、振り払われても、噛みつかれても、泣きながら何度もカール卿にしがみつくアレクシア姫の兄妹愛に圧倒された。
そして、何度目かに振り払われたとき、打ち所が悪くて昏倒した。
大人たちが異変に気付いて駆け付けてきた時、カール卿は滂沱の涙を流しながら気を失ったアレクシア姫を殴りつけていた。
北領夫妻と北領の近衛たちは、速やかに二人を回収して、挨拶もせずに北領へ馬を走らせた。
以降、ノーザンブリア家とイースティア家の間に領間交流は一切ない。
国境は閉じていない。
でも、国境を閉じていないだけでしかない。
シオンは、どうなったか分からない。
シオンは、奇声をあげながらどこかへ走って行った。
私は恐怖に声を出すことができず、シオンが走って行った先を震えながら指さすことしかできなかった。
近衛達が走って追いかけた姿は見たが、シオンが呼んだ水で洪水が起きて捜索が出来なくなった。
シオンが帰ってくることはなかった。
母上はおかしくなってしまった。
ずっとシオンを探して徘徊するようになった。
そして、私がシオンになった。
父上は私に男の子の格好をさせて、母上に見せた。
「ここは危ないから、シオンは帝都で育てるよ」
最初はその場限りの母上を思いやる嘘だと思った。
まさか6才の私を4才のシオンとして帝立学園の幼稚舎に入園させるとは思っていなかった。
私は嫌でたまらなかったし母上の傍にいたかったが、断ると領地でおかしくなってしまった母上がどうなるかわからない。
従うしかなかった。
そして何処かから新しいミレイユ姫を連れてきて帝立学園の初等部に入学させた。
一連の出来事に狂気を感じ、恐ろしくて仕方がなかった。




