マイクロフト12
目を覚ますと、反対側のソファーに寛いだ様子で予算申請書類に目を通す姉様がいた。
プラチナブロンドの髪が夕焼けに照らされ、綺麗なオレンジ色に輝いている。
姉様は、どんな時も、どんな姿でも、お美しい。
「まぁ、ミッキー。目が覚めたのですね?」
「……い」
姉様は、グラスに水を注いでにこやかに渡してくれた。
「シフォネの診察では、過労気味だそうです。ムリをさせてしまってごめんなさい。貴方を心配した研究員たちが押し寄せました。大人気ですね? キリがないからドアに『ミッキー就寝中』って貼り紙をしたら、ようやく静かになったのです。ふふふ」
もう一杯?
そう言って水差しを持ち上げてくれたので、注いでもらった。
「ミッキー、幽霊って誰ですか? 『お前が幽霊か! ミッキーをこき使いやがって!』と怒っている研究員がいました。お仲間にお口を塞がれて、引き摺られていっちゃったので、詳しい話が聞けなくて……」
「!! 姉様に、なんてことを!」
僕は慌てた。
「良いのです。わたくしは幽霊ではありませんが、ミッキーをこき使ったのは事実ですから」
姉様は滅多に怒らない。
「幽霊というのは、臨時主席研究員のマイケル・シャムジーのことです。僕は子供だから、助手のミッキーだと誤解されていて……」
「もしかして、マイケル・シャムジー卿を見たことがある人がいないから、幽霊?」
姉様の表情が僅かに曇ったのを見て慌てて取り繕った。
「あの、気にしないでください。説明するのが面倒なんで、放っておいているだけで」
「ミッキーはシャムジー卿からこき使われているように見えるのですね? つまり、ミッキーはシャムジー卿の仕事を差し引いても、仕事のし過ぎなのですね? ご、ごめんなさい。そこまでとは……」
姉様が口に手を当てて青ざめている。
「いえ、それほどでもないですから」
「ちょっと待ってくださる? ゴードーン! 明日、トムソン伯爵にお運びただけないかしら~~」
姉様は、小走りでどこかへ行ってしまった。
小走りは「姫」っぽくないですよ。
先ほどまで姉様が目を通していた予算申請書に目を落とすと、「不採用」のスタンプが押された申請書のところどころに大きな朱の〇印が書かれて、そこから吹き出しでデカデカとコメントが書かれている。
「え? 何それ、こわい」
「ここは好き」
「ちがうでしょ?」
「その理屈はおかしい」
「知らなかった!!」
「既存の〇〇とどう違うの?」
「世の中そうはなってない」
「詰めが甘い」
「それ、逆ね!」
え~!?
姉様、このコメントは何ですか?
なんか豪快過ぎてイメージと違う。
「あ、ミッキー、不採用の申請書を不採用ボックスに入れたら、不採用理由が書かれていないと苦情がきました」
「え? 姉様、これ、不採用理由ですか?」
「はい。ミッキーは、いつも不採用理由まで書いて返していたのですね?」
指摘するポイントは僕とよく似ているけれど、コメントが雑で驚いた。
僕はこれまで別紙に不採用ポイントを纏めてから返していたんだけど、ちょっと丁寧すぎたかもしれない。
コメントは姉様よりは詳しくしつつも、返信スタイルはこんな感じでいいのかも。
ここは帝室じゃないんだし、公文書みたいに真面目に書く必要はないのですね?
「姉様が意外とざっくりで驚きました。これ、僕も読んでから返してよいですか?」
「もちろんです。思ったより数が多くて驚きました。いつも凄く丁寧に選んでくれてありがとう」
姉様がマイケル・シャムジーの正体が僕だということを知っていたとは思わなかった。
「はい。できるだけ。でも、姉様は知っていたんですね? 僕がここにいること」
「あなたの北領戸籍を手配したのはわたくしです。陛下から頼まれたときに、平民戸籍はどうかと思いましたが、何かあった時にアレクシア姫と同じ戸籍なら北領内で強い保護になります」
同じ戸籍?
「マイケル・シャムジーに姉がいるとは知りませんでした」
大変光栄です。
「ふふふ。陛下は正しかったようです。貴方はまだ隠密ごっこに慣れていないから、ポロっと『姉様』って呼んじゃうでしょう? その時に『姉弟なんです~』と言って誤魔化せました。実際に」
うぐっ。
「姉様、流石にこれは、隠密ごっこの範囲を超えていると思いますが……」
姉様は、不思議そうな顔になった。
不思議そうな顔の場面なの、これ?
「ミッキー。わたくしと貴方はまだ一度も公式にお会いしていないのです。帝室と北領の婚約ももうありません。貴方、隠密ごっこ以外でわたくしのことを『姉様』と呼ぶ理由がまったくないのですよ?」
え?
「帝室と北領の婚約は、もうないのですか?」
父上、本当に婚約を解消してしまったのですか?
母上に嘘をついたのですね?
僕は思わず、立ち上がってしまった。
「陛下が兄様の両家の婚約に関する提案に同意するという文書を下さいました」
「手続きも終わっているのですか?」
「手続き? 文書の公印は本物でした。手続きは必要ありません」
そんな。
じゃぁ、ルーイ兄様は……
母上は……
「は、母上も、ルーイ兄様も、僕も、姉様がお嫁に来てくれることをすごく楽しみしていて……」
「貴方とはシャムジー姉弟になったから『ねえさま』で大丈夫です。
僕はへなへなと座り込んでしまった。
「コードネーム、姉様?」
姉様は僕の隣に移動してきて、僕の右手をその柔らかな両手で優しく包みこんだ。
僕はボーっとなって、何の反応も出来なかった。
「北領には今、ノーザンブリアが二人しかいません。惣領の兄様とスペアのわたくしだけ。どこにもお嫁にはいけません」
つまり、西領の承継者のクリストファー様とのご縁もない、と?
「ルーイ兄様はきっと姉様のためならトム兄様に皇太子を譲ってお婿に来てくれると思いますよ?」
「それはダメです。兄様がルイス殿下の治世を楽しみにしてらっしゃいます。そんなことになれば、わたくしは死亡偽装するしかなくないでしょう」
「それはダメです。帝室と北領の関係もズタズタになって、戦争に発展するかもしれません」
姉様はゆっくりと頷いて、言葉を繋いだ。
「北領と帝室の関係を温めるものは、婚姻だけではありません。兄様とルイス殿下が南領で共闘し、マイクロフト殿下がアレクシア姫の封地に派遣されて移民の暮しを支えているのも、とても仲が良い証拠です」
でも、僕は、勝手に来ただけですよ?
派遣されたわけではないですよ?
「陛下からミッキーを北領戸籍のシャムジー籍に入れて欲しいと頼まれた時、とっても嬉しかったし、光栄に思いました。それにまさか本当に来てくれるなんて思っていませんでしたから、驚きました」
何かが、おかしい。
「姉様、父上が姉様にお願いしたのはいつですか?」
「ルイス様が南領へ出兵することが決まった時です。兄様は急いでルイス様を追いかけて、わたくしはあなたの身分証を手配してから出ました」
「サウザーン城の前?」
「ふふふ。サウザーン城で身分証をお渡ししたのですよ。写真はありませんでしたから、素材だけ。この身分証は裏側に魔紋でノーザンブリア家の家紋が入っているのです。あなたはノーザンブリア家の一員ですという意味ですよ」
姉様は嬉しそうだ。
「もしかして荷物の確認をした時?」
「そうです。あなたも一緒に来たから、全て知っているのだと思っていました」
僕はぶんぶんと首を振った。
「西領も東領も子供たちを分散しましたし、わたくしも仕方なしに……」
「そうですね。帝室にミレイユ姫が来ました。僕は姉様に来てほしかった」
「まぁ、ミッキー、ありがとう。でもちゃんと呼んでもらえています。帝国領に」
姉様はふふふっと、凄く嬉しそうに笑っている。
何を喜んでいるんですか?
怒るところですよ!
「あれは危険な森ですよ! 宮殿で快適に過ごしているミレイユ姫との扱いが違いすぎて、腹が立って、腹が立って」
姉様は、もっと嬉しそうな顔になって、片手を僕の手から離して、鼻の頭に当てて、肩を揺らして大笑いするのを堪えている。
「どうしましょう。ミッキーは本当に『かわいいの塊』ですね。どんどん余計なことを喋ってしまいます」
ふふふって言いながら、小さな声で囁いた。
「あの方は人質です」




