マイクロフト5
3戦目は、西領のマチルダ姫だった。
トム兄様の話では西領は北領領主夫妻の暗殺の黒幕だと噂され始めていた。
仇敵かもしれない人たちに会うんだ。
僕にも緊張が走った。
姉様は「皇太子妃の座」防衛戦を棄権した。
マチルダ姫は不戦勝だ。
姉様、しっかりして!
僕は思わず姉様の前に姿を表してしまった。
姉様は兄様を見送った後、窓際に腰かけて一人チェス盤を眺めていた。
「ご、ごきげんよう、姉様。い、行かなくて、よ、よろしい、のですか?」
初対面でいきなり差し出がましいことを言ったことは分かっている。
「ごきげんよう、貴方は、マイクロフト殿下ですね?」
自己紹介をするのすら忘れていた。失態だ。
「はい。ミ、ミッキーと、お呼びください。姉様、せ、西領のマチルダ姫は……」
「わたくしは『アリー』とのことです。細則はわかりませんが、テーラ家の流儀でお呼びになってください」
相手の自己紹介を待つ時間を与えなかった。大失態だ。
しかも、許されてもいないのに勝手に最初から姉様呼びしてしまった。大大大失態だ。
でも、姉様、笑顔だ。
優しい。
「では、姉様か、ア、アリー姉様と呼ばせていただきます。あ、あの」
「ミッキーは、チェスを打ちますか?」
姉様は僕の言葉をさえぎって、チェス盤に目を落とした。
「はい。姉様、マ、マチルダ姫は……」
「一局、お相手いただけませんか?」
「え?」
姉様は「チェスは兄様としか打ちません」と宣言していらしたはずだ。
「わたくし、戦い方を学ばなければなりません。だから、練習相手になって下さいませんか?」
「は、はい、しかし……」
「ミッキーはマチルダ姫がとても気になるのですね? 対局に集中できるようにわたくしが行かない理由をお伝えします」
姉様は、ゆったりと微笑んだ。
「不戦勝を、ゆ、譲ったのでは、ないのですか?」
「不戦勝? ウェストリア家とは戦いたくないのです」
「どうして?」
「わたくしの両親の死は、西領の陰謀ではありません。先日、ミレイユ様が教えてくださったのです。マチルダ姫はルイス殿下が大変お好きで、兄様との縁談を嫌がってドレスを切り裂いたことで到着が遅れたと」
「それは真実かどうか、わかりません」
「でも真実かもしれません。兄様は知っていたのです。マチルダ姫がルイス殿下をお好きなこと。父様と母様に『政略だし、相性が悪かったら無理強いはしないから、短気を起こすな』と言い聞かせられていた時、わたくしもその場にいました。ドレスの話は本当のことではないでしょうか?」
なんだろう?
姉様にしては、よくしゃべる気がする。
「だとしても……」
「だとすれば、西領と北領の2領の当主夫妻と北領総領の一斉暗殺だったかもしれないのです」
話の内容は物騒なのに、姉様の本物のお姫様感満々ののんびりとした話し方のせいか、帝都のお祭りを見学に行ったぐらいの感覚の話に聞こえる。
「2家とも標的だった、ということですか?」
「マチルダ様はワガママを言って自領を危機から救った英雄かもしれない。それなのにミレイユ様から悪口を言われていました。学園はもっと酷いようです。憧れの君に慰めてもらえるぐらいの良いことがあっても、よいのではないでしょうか?」
「しかし、それは本当かわからないお話で……」
「だからこそ、です。分からないからこそ、慎重に。隠密の鉄則です! ミッキー、あなた、隠密ごっこがお好きでしょう?」
「な、なぜ、それを……」
姉様は、母様のように目を細めて「ふふっ」と微笑を作って、言葉をつづけた。
「ソフィアが今の顔で笑った時は、視線の先に茶色の髪の男の子がいるのです。ピンときました! 隠密ごっこです!」
「!!!」
いろいろとビックリした。
隠密ごっこがバレてたし、姉様は母様を呼び捨てた。
母上はロイやユリアナみたいに呼び捨てられたがるが、実際にそうした人は初めてだ。
姉様は母上にも友好的だった。
僕は言葉が出なかった。
「わたくしも隠密ごっこが大好きなのです。だから隠密仲間に情報提供をいたします。ミレイユ様はリリィ様のお話は上手じゃなかったけれど、マチルダ様のお話はとてもお上手でした。何度も繰り返し練習したみたいに」
「何度も繰り返し練習?」
「そう。練習と言ってもテキストブックを暗記するのとは違う方法です。『子育てブック』に書いてありました。良い行いを褒めると、同じことをして褒めてもらおうとするから、重要なことはそうやって定着させるとよいって。隠密ごっこの時に調べた母様の愛読書です」
姉様の隠密ごっこは、本格的だった。
「ミレイユ様にとってマチルダ様の悪口は、わたくしが母様に褒めてもらうために何度も同じ話をするのと同じなのでしょう。定着してスラスラお話できるようになるのです。ミレイユ様のお家では、マチルダ様の悪口がリリィ様の悪口よりも褒められるのね」
なんと!
「悪口が褒められる!? それは姉様もですか? 姉様も悪口を言うと母君に褒められますか?」
「わかりません。わたくし悪口を言うようなお友達、いないから。兄様は悪口を言うところがありませんし」
なんと!!
僕もです!
僕も、お友達がいませんし、兄上たちは悪口を言うところがありません!!
姉様の瞳にじんわり涙が浮かんだので、ハッとした。
僕は、なんということを!
「ご、ごめんなさい。姉様のお母君は亡くなったばかりだというのに……」
姉様は、泣くのを我慢するようにちょっと口元に力を入れて、「許します」とでも言うように頷いて話をつづけた。
「もしマチルダ様とわたくしが喧嘩してしまったら、それを学園で聞いたミレイユ様がお家で報告して褒められるという仕組みなのです」
「会わなければ、喧嘩しない?」
真剣な表情で僕をジッと見つめたまま再びゆっくりと頷く姉様はとてもお美しくてハッとした。
「それにマチルダ様とルーイが仲良くしましたというお話は、きっと褒められないからあまりしないと思います。わたくし、リリィ様とミレイユ様との友好関係の構築に失敗しているでしょう? 今回は本当に失敗が許されないから、ルーイにお願いしたのです」
「失敗だなんて……」
「北領の姫としては、失敗でした。だからちゃんと戦い方を学びたいのです」
「北領の姫としては、失敗?」
姉様は「皇太子妃の座」を防衛したいのではなく、「北領」を防衛したいのだと、ようやく理解した。
「皇太子妃の座」防衛戦じゃなくて、「北領」防衛戦の目線でみると、僕がイヤミだと思っていたこと全部、仲良くなりたくて言ってたのかも?
なんてことだ!
姉様、ごめんなさい。
僕の心が汚れておりました。
恥じ入るばかりです。
「わたくしは…… わたくしは、わがままを言わなかったの」
「?」
「他の殿方をお好きな姫なんて北領には要りませんって言いたかったのに、言わなかった。泣きじゃくったら、行くのを止めてくれたかしら?」
姉様の瞳から、次から次へと涙がポタポタ落ちて、綺麗だった。
「兄様の礼服をビリビリに破いたら、父様と母様は死ななかった?」
僕は見惚れてしまった。
そんな場合じゃないのに。
姉様がワガママを言わなかったから、ご両親が亡くなったわけではない。
そうか、姉様は、父君と母君の死を悲しまなかったんじゃない。
自分がワガママを言っていれば……
その大きな後悔が苦しすぎて、悲しむ余裕がなかったんだ。
せめて「そんな姫、北領にはいらん!」ぐらい言えていたら……
自分がやりたかった事をやっていればと後悔している折に、マチルダ姫はワガママで家族を救ったかもしれないことを知った。
自分に出来なかったことを成し遂げた姫がいる。
マチルダ姫は姉様にとっては英雄なんだろう。
でも……
「姉様がわがままを言っても変わらなかったと思います」
思ったことをそのまま口に出した。
これでよかったか、全然わからない。
優しい言葉が思いつかなくて、ごめんなさい。
「ミッキーも一緒に泣いてくれるのですね」
僕は泣いてるようだった。
そう言われれば、姉様の綺麗なお顔が滲んで見えないから、袖でゴシゴシふいた。
「はい」
もっと姉様をお慰めすることを言いたかったのに、何も思いつかなかった。
「わたくしと戦ってくださいますか?」
僕はハッとして、姉様の反対側に座った。
チェスの対局を申し込まれていたんだった。
「はい」
「ありがとう。マチルダ姫はわたくしにとっては英雄なのです。わたくし、英雄に嫌われたくないのです」
ありがとう。姉様。
僕が対局に集中できるように全部説明して下さって。
よくわかりました。
でも、もう一言。
「マチルダ姫はカール様に会ったことがないから、ルーイ兄様がお好きなのかもしれません。カール様が学園へ行ったら、きっとモテモテで、姉様はそれはそれで嫌だと思いますよ」
時には譲ることも大事だ。
「ふふふ。そう思いますか? わたくし、兄様に好きな人が出来たらヤキモチで大変な事になりそうです」
「僕も兄様が大好きですが、意外とヤキモチは焼きませんでした」
「ミッキーもお兄様が大好きなのですか? 同志ですね? それでは対戦をよろしくお願いします」
姉様は、白と黒の駒を一つずつ摘まんで、テーブルの下で握った後、僕の前に差し出した。
姉様の北領防衛戦の開戦の瞬間だった。




