カール32
『マチルダ姫、おはよう。ちゅっ』
『か、カール様!?』
婚約締結の翌日から、学園への登下校は、マチルダ姫を送り迎えも兼ねるようになった。ダイアモンドの勧めだ。
挨拶はノーザンブリア家の家族の挨拶が望ましいというから、唇にチュッとしたら、その場でへたり込まれた。
『すまない。妹がご挨拶はノーザンブリア式にしたほうが良いというから従ったんだが、結婚するまではウェストリア式の方がいいかな? 頬だっけ? 両側だったよね?』
『い、いえ、大丈夫です! ノーザンブリア家の妻になるのですから、く、唇で、大丈夫です』
可哀そうに凄く怖がらせてしまったようだった。
声が震えている。
手を差し出したけれど、上手く立ち上がれない様だったから、一応、聞いてから抱えた。
『えっと、お姫様抱っこは、誉なんだよね? 抱えてもいいか? 今日は学園は休む?』
『は、はい。さ、最高の、ほ、誉です。が、学園は、い、行きたいです』
『では、馬車の方に運ぼうか……』
マチルダ姫は手も震えているようだったから、心配して見送りに出てくれた母君のカメリア夫人の顔色も窺ったが、満面の笑みで、手を振っていたから大丈夫なのだと理解した。
『あ、あの、カール様はアレクシア様とも唇のご挨拶なのですよね?』
『いや。あの子、本名はアデレーン・テーラっていうんだ。生物学上は双子の妹なんだけど、戸籍上はフレデリック皇弟殿下の養女なんだ。だから、挨拶はテーラ式の額にキスだ。そっちでもいいよ』
私とマチルダ姫の婚約は、秘密保持条項がふんだんに盛り込まれたちょっと異常な誓約書だった。
マチルダ姫も今の発言で大量の秘密保持条項が盛り込まれた理由を察することが出来ただろうと思う。
『いえ! ノーザンブリア式で大丈夫です!! あと、カール様は、人に触れられないトラウマがあるのではないのですか?』
『ん? それは治ってるよ。シオンに抱き着かれた状態で一晩眠った時に治ったことに気付いたんだけど、ダイアモンドがその点については敢えて開示しない方が女避けになって良いというから、黙ってる。マチルダ姫は、エスコートしたり、ダンスしたりしているから知っていると思っていた』
言葉にしないと伝わらないというのは、意外だった。
普通に触れていたじゃないか?
小さなことでも、できるだけ明確に言葉で伝えようと心に決めた。
『いえ。トラウマも程度がありますから、直に触れたり、過度にベタベタしなければ大丈夫なのだと考えていました。ところで、シオン様は男性ですよね? ダイアモンド、様?は、人物ですか?』
『ああ、シオンはイースティア家のシオン公子だよ。ダイアモンドは、ノーザンブリア家でのアデレーン皇女の呼び名で…… すまない。いきなり知らない話ばかりで混乱するよな?』
それからしばらく学園の登下校は、私の身の上話の時間になった。
私の幼少時代は不幸の連続だったので、マチルダ姫が涙を流しながら手を握ってくれることも多く、登校時は学業に影響しないように極力明るい話にするように工夫した。
『カール様。ミレイユ様との縁談は、正しい婚約者同士の姿を見せて上書きするのがよいでしょう。わたくしの事は愛称のマティでお呼びください』
『わかった。しかし、私にはこれと言った愛称はないんだ。好きなように呼んでくれ』
当て馬事件の翌日から一緒に登校するようになった私たちの仲睦まじい様子に学生たちは大混乱した。
数日後、北領ノーザンブリア家のカール公子と西領ウェストリア家のマチルダ姫の婚約が私の後見人であるテーラ皇帝の署名入りで「良き日」付けで発表された。
それで当て馬事件の日にルイスに生徒会室に呼び出されたのもこの件だったと理解され、ルイスの失態も見事にカバーされた。
マチルダ姫の「正しい婚約者同士」のプロデュース力により、私とマチルダ姫は睦まじい。
昨日今日仲良くなった感じではなく、睦まじい。
元々密かに付き合っていたと勘違いされるほど、睦まじい。
どこからどう見ても、睦まじい。
睦まじいに違いないが、決して下品でないところが西領クオリティーだとルカが感心してくれたから、学園内での行動は、盲目的にマチルダ姫の指示に従っていれば、安心だ。
正直に言ってしまえば、一緒にいない時のマチルダ姫は、いつもぞろぞろと令嬢達を引き連れて「女帝」の存在感を放っていて、苦手だ。
平民になる予定の私の妻にはもったいない。
でも、私の傍にいるときのマチルダ姫は、小さく、かわいらしい、なんとも言えない愛おしさを感じる姫だった。
彼女の手はとても小さくて、最初に手を繋いだ時は驚いた。
二人で並び歩く時に3型の「標準エスコート」ではなく、4型の「手を繋ぐ」にするのは、ダイアモンドのおすすめだ。
私はダイアモンドの手を引いてあげたことはない。
ダイアモンドは、歩くのが苦手だから、手に手を乗せるエスコートや手を繋ぐエスコートだと、地上からの高さがぐらついて浮いてしまうことがある。
だから、ダイアモンドと一緒に歩く時は、地上からの高さを固定できる腕を貸すエスコート一択だ。
4型も練習した方がよいと言われて、試してみたところ、マチルダ姫の手はおどろくほど小さく、繋いだ手を二度見してしまった。
『マチルダ姫、手が小さいな? 壊さないように気をつけないと……』
『か、カール様!? アレクシア様の手は大きいのですか?』
『おっと。大丈夫? いやな、実は、あの子は……』
ダイアモンドはプカプカ浮いているから、女性がよろけるという概念がなかった。マチルダ姫は細い体をヒールの靴で支えているから、よろけやすく、エスコートに一層の注意が必要なことも学んだ。
ダイアモンドの生い立ちも育ちも特殊過ぎるお陰で、話題が途切れることがなく、非常に助かった。
最初、とても新鮮だった小さな手は、慣れるにつれて可愛らしさと愛おしさが募っていくような不思議な手だった。
しかし、手を繋ぐことに慣れて来ると、手を繋いでいることを忘れるようになった。
いつの間にか気づかぬうちに手を繋いでいることも増えた。
共に歩く時は必ず手を繋いでいるのが普通になった。
彼女の手が前ほど愛おしくないというわけではない。うまく説明できないが、いい意味で無意識になった。
ないと寂しい、不思議な手だ。
たまに自分の手の上に乗った小さな手を眺めていると、顔も、耳も、首筋までも真っ赤にしたマチルダ姫が恥ずかしそうに見上げてくる。
そういう時は、「察しが悪い」と言われないように空いている方の手で彼女の頬を支えて、唇にご挨拶ではないキスをする。
ご挨拶ではないキスの後は、恥ずかしがってわたしの胸に顔を埋めてくるのが可愛くて仕方ない。
ダイアモンドのかわいさとは違う、こちらの心を抉ってくるような鋭く衝撃的な可愛さだ。
マチルダ姫を西領公邸に送り届けた後は、馬車の中で何をするでもなく、ただぼーっと景色を見ながら幸せの余韻に浸る。
私はこういう何もしないけど幸せな時間を持ったことがなかったから、全てが新鮮で、全てが喜ばしく感じた。
結論から言えば、ダイアモンドが見繕ってくれたお相手は、大正解だった。
私の方では特別な想いを抱いていなかったことについては、マチルダ姫をガッカリさせない為に隠せるだけ隠すことにしている。




