NO〇(ノーまる)?
若くしてのホームレス生活中に、銀沢良太は彼女と出会った。
「愛永、今日こそ邪眼見せなよ!」
児童公園近くの路地裏でゴミ箱を漁っていたとき、奥の行き止まりで古いネットのネタみたいな絡みが展開されていたのだ。
いじめだった。
加害者も被害者も付近の女子中学生で、よく見かけるブレザー制服を着ている。
いじめっ子は短いスカートの三人。リーダー格は金髪、挟むような二人は茶髪。全員化粧にピアスに派手な爪だ。
壁際に追い詰められている愛永と呼ばれたいじめられっ子は、黒髪ロングのツインテールで左目に眼帯、左腕を包帯で隠している。制服はフリルやレースが付けられ改造された黒とピンク多め、ゴスロリ染みた地雷系といった出で立ちだ。
愛永は追い詰められながらも、震え声で気丈っぽく振る舞った。
「フッ、邪眼を持たぬ者にはわからないでしょうね」
絵に描いたような中二病である。
一瞬。社会を離れるうちに十代の日常はこんな風になったのかと勘違いしかけた良太だが、すぐに思い直す。
いや、つい先日までこの中学の生徒は見掛けていたがこんな対峙には初遭遇だぞ、と。
つまりこれだけでも異常だったが。まもなく、最大級におかしなことが起きた。
「また言ってるよ!」
ゲラゲラ笑ういじめっ子たち。うち一人が、乱暴にいじめられっ子の眼帯を剥がした。
周りにホルスの目の化粧を施した、赤い瞳の眼が露になった。
どうせカラコンだろうと高を括りそうになったが良太だが、ことはそう簡単でなかった。
「こ、このっ! 邪眼に照らされて天使を露出すのは、あんたらなんだよ!!」
涙目でわけのわからない抗議をした中二病は、そこで。いじめっ子三人を挟んでおれを目にするや愕然とした様相で固まった。
恐らく、こちらが似た表情で同じものを注視していたからだろう。
いじめられっ子の左目に照らされるや、いじめっ子三人には光輪と翼が出現したのだ。光の輪は頭上に浮き、翼は背中から生えている。
妄想じゃない、実際にだ。
まるで、愛永が警告したような――。
「お、おい。君たちやめろ!」
ようやく、良太は少女たちに声を掛けることができた。いじめっ子だろうと子供で、自分はホームレスだろうと大人だ。
現代の時勢では、こんな状況でも声を掛けた側が不審者だの痴漢だのとされればそれまでだろう。外見からしてひげも髪も伸び放題でボロを纏った浮浪者たる良太じゃ尚更だ。
しかし見過ごすつもりもなかった。空気を読める人間ではないしいずれ注意しようとしていたが、さすがに躊躇はしていた。
そんな迷いが、この異変をきっかけに吹っ切れたのだ。
「ああん?」
いじめっ子たちは振り返る。自分たちの翼が視界の端に入ったはずが、まるで感づいた風でなく三人で良太を嘲る。
「なんだよオッサン、ホームレス?」
「あはは、ホームレスオヤジに助けられるいじめられっ子とか超ウケるんだけど」
「どっか行きな。JC狙いの変態って警察に通報するよ、口裏合わせるからあんたなんて信頼されない」さらに、後ろの少女を親指で示す。「愛永なんか当てにしてもだめだよ。見ての通りの中二病だから、あんたと一緒で相手にされな――」
「それどころじゃない!」挑発を、良太は大声で遮った。「なんだよその翼と輪っかは!?」
途端、三人の様相が変わった。
「……なにこいつ、マジキチ?」
「まずいよ、こういう奴って何かやらかしても無罪とかにされるんじゃなかったっけ?」
と、そこに。
「隙あり!」
左腕の包帯を紐解きながら、愛永が背後から突進した。
そのまま、いじめっ子たちをひっぱたく。腕はネイルで飾った爪が長いくらいでたいした特徴はなかったが、
「堕天しなさい! おまえたちは〝インプ〟よ!!」
唱えた途端。三人の女子中学生から、押し出されるように彼女らと同じサイズの光でできた人の形が分離した。
どうやら、光輪と翼は分かれた人型の方についていたらしい。
もっとも。輪は瞬く間に失われ、翼は蝙蝠のようになり、そいつは醜い小人染みた姿となった。身の丈せいぜい数十センチ、まるで天使でなく小悪魔だ。
次いで、空間が凍った。
正しくは、良太と愛永と、インプと呼ばれたらしき小悪魔たちを除く。
叩かれたままによろめいたいじめっ子三人の動きが、彫像のように不自然に静止したので気付いた。
勘違いかと思ったが、良太がとっさに見回すと近くの道路を走っていた車も停止している。そばの公園ではブランコに乗った子供が高い位置のまま停止し、滑り台を下りる途中で固まる子や、ジャンプしたまま空中に浮く子もいる。
なのに、なぜか隆太と愛永とインプだけが動けている。
「おのれ、小娘!」
小悪魔たちが吼えた。
「よくも我々守護天使を」
「こんな低級な悪魔にしてくれたな!」
連中は重力など無視した挙動で愛永の周りを高速移動、地面や壁面のあちこちに鋭い爪で傷を刻む。
それらはだんだんと包囲網を狭め、彼らを押し出して以降は悠然と佇む愛永へと近づいた。
「下級と侮るなよ!」それぞれ別方向から飛び掛かりつつ、インプたちは宣告した。「人程度は遥かに凌駕するのだからな!!」
「残念でした」
けれども、それ以上の速度で愛永は動いて告知する。
「あたしも、普通の人間じゃないの!」
回転し、ふんわりと広がったスカートからフリル付きのパンツを露出しながらも、迫る悪魔たち全員に掌底を浴びせて唱える。
「妖魔調伏、急急如律令!!」
それだけだった。
悪魔たちは断末魔の悲鳴をあげながら陽光を浴びた影となり、散り散りに消え去ったのである。
我に返ると、良太はあまりにも衝撃的な出来事の数々に、尻餅をついて硬直してしまっていた。
そこに、愛永が近寄って呼び掛ける。
「おじさん、見たね」
「……みみみ見てない」良太も完全にパニックに陥って喚いてしまう。「女子中学生のフリル付き純白パンティーなんて見てないぞおれは! あと、二十代前半だからまだおっさんじゃないはずだ!!」
「違う違う、天使を目撃したでしょ」
「て、天使?」
電波な答えに困惑しつつも、彼は異を唱える。
「……ああもう、実際見たから仮にあれが天使ってとこには一億歩くらい譲って目をつぶろう。だとして、天使なんて善良っぽいものがいじめっ子にひっついてて、しかも悪魔になったってのか?」
「天使を善いものとして信仰に取り入れていた宗教の行いを知らないの?」
溜め息をついて、愛永は語った。
「異端者狩り、魔女狩り、宗教戦争、犠牲者は計り知れないでしょ。天使というのはあくまで仮称で、人に活力を与える霊的存在よ。善悪なんてないの。あたしはそれが個人的に望ましくない場合、相応しい悪魔へと堕天させて祓うことができるだけ」
なにを言ってるのかさっぱりだった。
ひたすら呆然とする良太を、愛永は嘗め回すように観察しつつ言う。
「にしても、あたしと同等の異能があるとはね。ただ、そのざまじゃ初体験かな。おそらく堕天ライセンス3級。ま、いちおう名乗っておくわ。珍しい出逢いだし、今後も縁があるかもしれないもん」
と、彼女は自らのそれなりな胸に手を当てた。
「あたしは更等香愛永。おじさんは?」
「……良、太」差し出された愛永の手を握って情けないことに立たせてもらいながら、彼もやっとの思いで名を明かした。「おれは銀沢良太、だけど」
そこで、貴重な美少女女子中学生の掌に触れていたことを認識して慌てて離すと、混乱のままに付け加える。
「あと、おじさんでもないんだが」
「良太おじさんね」
同年代でも身長が低めだろう愛永は、上目遣いで見上げると微笑して言った。
「じゃまたね、再会しなきゃこれまでだけど」
告げて、彼女は悠々と去っていく。進行方向の道路で車が動いているのを確認して、初めてさっきまでの時間停止が解除されているのを察知した。
いじめっ子たちが気になって振り返ってみる。
やはり、彼女たちも普通に動きだしていた。
「……あ、おっさん」とリーダー格はぼんやりと良太の顔を見るや囁き、次いで辺りを確認して「マナいないじゃんどうする?」
と仲間二人に問うた。
回答は、
「えーと。なんかめんどくなったし、今日はもういいかも」
「うちもなんかやる気なくしたわ」
それに対してリーダー格は、
「実はおれもなんだよねー」
などと応じた。
こうして、彼女たちは去った。愛永とは反対方向に。
そこで良太はようやく、あの中二少女はどうなったかと探してみたが、もう愛永の姿もどこにも見当たらなくなっていた。
あとで調べてみたが、あのインプなる小悪魔が残した爪痕すらもなくなっていた。公園に設置されている時計も確かめてみたが、時間すら最後に目にしたときから変わっていない。もはやいじめっ子たちも望める範囲にはいなくなっていて、まるで全部が夢のようだった。
奇しくも翌日。昨日の出来事についてぼんやりと考え込んでいた良太を、家族が迎えに来た。
ニート生活から家を追い出されて一年。息子をホームレスにしておくのは忍びなかったとのことだった。近所で噂になるほどとなれば、なおさらだろう。
しかし、良太には変わる気はなかった。
元通りの交わらない平行線の家族と口喧嘩をする日々が半年ほど続き、ついには病院に連れていかれた。
「ASD、自閉スペクトラム症の疑いがありますね」
病院で、裕福な自宅でニートであったり追い出されてもホームレス生活で満足することに何ら後ろめたさはないなどのこだわりを力説。マークシートや質問を交えてのテストなども受けるや、そんな診断をくだされた。
やがて障がい者手帳を渡され、しかるべき場所で働いてみてはなどとアドバイスもされた。
最初は嫌だった良太だが、これまで変人とされてきたことにいくらか得心がいく解説を与えられた気がして、少しずつだが前向きにもなっていった。
家族も安心してくれて、喧嘩も減りそうだった。
労働の形態は就労支援というもので、適当に選んだのは市内の役所向かいの広場に併設されたビル。矢那白パークビルとやらの、一階と二階の一部を占めるスペースだ。
良太が通うことになった病院が運営する慈善団体〝心穏園〟の施設〝ジェムストーン〟という美術館だそうだ。
外部でプロとして活躍する障がい者のアウトサイダーアートを中心に、心穏園の関連施設からも利用者によるアート作品を一階で展示しているらしい。二階は事務所兼、新たな作業スペースとして最近完成したばかりという。
事前予約を薦められたが、良太は電話が苦手なのでネットで営業時間を調べるや直接向かうことにした。
自宅近くの地下鉄で矢那白台広場まで行けるので、移動は楽だった。
市役所そばということで、該当するフロアに入ったことはなかったが付近には何度か来たこともあった。駅ビル自体も知ってはいる。地下が駅なんだから電車でくれば当たり前だが、一階にそんなスペースができたとは病院で初めて知った。
ビルに沿ってぐるりと移動すると、壁に『アートギャラリー工房ジェムストーン』との看板を発見できた。
並んだ大きな窓から室内が望め、人影が窺えた。
入り口前に立ち、大きく深呼吸をしてから両開きの自動ドアを潜る。
「いらっしゃいませ」
従業員の声。板張りの床、淡い照明、アールヌーヴォー調の館内にクラシックが流れていた。
ケース入りの絵や像や工芸品があちこちに飾られ、入場無料と示されている。奥にはプロ作家の展示スペースがあり、そこは有料で、定期的に作品が入れ替わるらしい。その隣に受付があって、そばには展示物を印刷したポストカードやポスター、Tシャツ、ハンカチ、キーホルダーなどが売られていた。
客の一人がちょうど何かを買ったようでレジを離れ、良太は入れ替わるようにカウンターの人物に声をかけた。
「あ、あの」
「はい?」
染みなメイドのような制服を着た、小柄で巨乳な姫カットの可愛らしい従業員に笑顔で見上げられ、口篭ってしまう。
「……もしかして、見学に来られた方でしょうか」
助け舟を出してくれた。
「そ、そうです」ありがたく乗っかって、良太は挨拶をする。「えーと、ホントは予約するように相談員の人には言われたんですけど。電話が苦手で、それで。おれはその、障がい者らしくて。働いたこともなくて。あ、銀沢良太です」
うおー何言ってんだこのコミュ障!
脳裏では不甲斐ない自分を複数の自分が袋叩きにしている。初対面からこれじゃお先真っ暗じゃねーか、と珍しく危惧もする。
でも、女性は穏やかな笑顔のままうんうんと頷いている。一言一言を咀嚼するように。
不意に、保育園にいるような感覚に陥る。保母さんは、こんな風に拙い幼児の訴えを聞いてくれていた気がした。
「よくお越しくださいました。わたくしは、冬由香癒美実です」
彼女は、己の胸に手を当て名乗って歓迎してくれた。次いで、奥の壁際にある緩やかな階段を腕で示す。
「どうぞお上がりください。――真奈間菜さん、ここお願いします」
さらに、同じカウンター内で椅子に座っていた茶髪ピアスでネイルアートを弄っているギャル系女性に呼びかけた。
「うーっす」
ギャルが彼女を見もせずに返事をすると、冬由香は会計スペースからスイングドアを出て先導してくれた。
折り返しがある、車椅子用のスロープが並走する階段で二階に上がる。
吹き抜けの空間を囲うインナーバルコニーの一角に、曇りガラスの壁とドアがあった。冬由香はそこを開けて良太を招き入れると、室内に向けて言った。
「リリさん、見学の方が来られました」
「あれ~、そんな日だったかなぁ?」
緊張しながらついてきた良太は、間延びした応答に迎えられた。
小奇麗で広い部屋の最深部。ブラインドを下ろされた窓を背にデスクの席が埋まっており、声はそこから飛んできた。
スーツに身を固めた爽やかな容姿の中年男性だ。朗らかな笑顔で、どことなく英国紳士を想起させる。
「あちらが管理者で美術館館長の」冬由香は構わず、マイペースに紹介した。「東宮城利理雄さんです」
「あ。どうも利理雄です」
否応なく名乗りに導かれた彼は、起立して軽い会釈を交える。
ゆゆゆみまなまなりりおとはな、と良太は面食らう。
「……すみません」戸惑いながらも、いちおう断っておく。「前もって連絡とかしないでいきなり来ちゃったんですけど」
冬由香と顔を見合わせてから、利理雄は言った。
「あ、いえ大丈夫、かな。更等香さんは、平気ですか?」
確認は、彼と良太たちの間の空に投げ掛けられていた。そこには長テーブルとそいつを囲む椅子が配置されていて、うち一つに見覚えのある少女が掛けていた。
緊張のせいで入ってすぐには感づけなかったが、指名と共に横顔を観察すれば記憶は瞬く間に蘇った。
少女は、ゆっくりと良太の方を向いてのんびりと口にしたのである。
「ふーん、やっぱりあなたも堕天師だったのね」
間違いない。あの少女、更等香愛永だった。
制服ではないし、包帯も眼帯も赤目でもなかったが、やはりゴスロリ+地雷系÷2みたいな格好だ。
ここはできたばかりだと聞いていたが、まさか、利用者に彼女がいるとは想定もしていなかった。そういえば初対面時中学生だったとしても、三年ならあれから進学をやめて働いているかもしれないくらいの月日が経っていた。
「あれれ、お知合いですか?」
冬由香が対峙する両者を見比べて言う。
すると愛永は、のらりくらりと自分語りを始めた。
「いかにもです。二度目だけどいちおう、わたしは更等香愛永。御使会会の堕天師で、堕天ライセンスは二級よ」
さらに胸元を漁り、二級と刻印された手帳を出して突きつけてきた。
「……いや」とっさに良太はツッコむ。「それ障がい者手帳なんだが」
「あなたは何級なの?」
聞きやしない。
あのときも彼女が言っていた堕天ライセンスとやらは、どうやらこれらしい。
「はあ、三級だよ」
何だかバカらしくなった。やはりあの出来事は白昼夢か何かだったのだろうと思い、良太は自分の等級を溜め息混じりに教えてやった。
「……ふはははは」
途端、少女は大笑いして罵倒する。
「やっぱり堕天ライセンス三級ね、雑魚だわ」
三級の方が二級より程度が軽いということなのに、彼女はなぜか誇らしげだった。利理雄と冬由香はひたすらポカンとしている。
ともかく、これが愛永との再会だった。
そこが衝撃的過ぎて、あとはよく覚えていない。とりあえず現在の利用者は更等香だけだそうだ。なんか、編み物をやっていた。
以降は、来るときも目にした下の店をちょっと紹介してもらって、とりあえず見学は無事に済んだ。
「どうですか、『ジェムストーン』は?」
後日。その施設からは広場を挟んだ向かいに建つ市役所の一室で、良太は訊かれていた。
狭い個室だった。簡素なテーブルを挟んで、自分の担当になったという気さくなおじさん風相談員に言われたのだ。
市役所を通して宛がわれた人で、別の慈善団体の所属らしい。受け取った名刺によれば。
「悪くはなさそうですね」良太は答えた。「ただ――」
「ただ?」
「知り合いがいました」
「おお、それは」
相談員は驚く素振りをしたものの、肯定的なのか否定的なのか捉えるべき方向に迷っているようで、尋ねてきた。
「どのような、お知り合いだったんですかね?」
「前に一度会っただけですね。ぼくも向こうもお互いに憶えてましたけど」
「それは……」知り合いと呼べるのかとでも言いたげだ。苛立つように貧乏揺すりをしている。まあ、良太自身もそうは思っている。「そのことが、何か気掛かりだったりしましたかね」
「いえ、特に」別にどうということもないので、適当に流す。「女子高生くらいの歳だろうし、何をしただとかちょっとしたことがあったからって気にしてても大人げないし」
「女子高生とナニをした……」
どうも誤解を招く解釈に聞こえるので、良太は無理やり切り上げることにした。
「いや、もういいです。とりあえず問題なさそうだから、あそこに通うことにしたいです」
帰りに、せっかくなので良太はまたジェムストーンに寄ってみようかと広場を横切ることにした。
矢那白台広場は桜を中心とした木々に囲まれた四角い空間で、ベンチや彫像や花壇が疎らにあり、あとは噴水と公衆トイレが一つずつある程度で主に石畳が占拠する場だ。
時刻は正午すぎ。学校やら会社やらに通う人にとっては昼休み、といったところか。役所は早く閉まるのでこの時間帯を選んだだけだが、お蔭で人影は疎らでまだニートの彼にはせいせいする場所になっていた。
そんな土地の真ん中辺りに差し掛かった時である。
「おじさん、危ない!」
覚えのある声。
華奢な人影が横から駆け寄り、誰か判断する間もなく良太に飛びつき一緒に石畳を転がった。
ほぼ同時、さっきまで彼らがいた場所が爆発する。
「更等香さん!?」
そこでようやく、良太は自分に被さった人物を確認して名を呼べた。
ゴスロリ地雷染みた格好の更等香愛永だ。
同時に気が付いた。
周囲の時間が止まっている、彼女との初対面時のように。車も人も微動だにしない。
「無事なの、銀沢おじさん」ただ、更等香だけが心配そうに言う。「休憩時間に昼食をコンビニにでも買いに行こうかと外に出たら、遠くにおじさんが見えて後ろから昇天使が狙ってたから――」
「君こそ大丈夫か?」
遮って案じる良太に、冷たい声が投げ掛けられる。
「クズがクズを庇ったか」
後ろの方からだ。
恐る恐る青年が確認すると、市役所を背に幽鬼のような影が佇んでいた。
「今度はニートのロリコンとはね」そいつは捲くし立てる。「ホントはうんざりしてんだ、社会のお荷物に低姿勢で接するのにな!!」
相談員だった。さっきまで良太と話をしていた、あの。
ただし、背中には白い翼が生え、頭上には光の輪が浮かんでいる。
「あんた」しどろもどろで良太は叫ぶ。「爆発物とか投げたのか? どうしてそんなことを!?」
「引っくり返っちまったんだ」
相談員は光輪を消し、翼を黒く染めながら吼える。
「弱者に尽くせると思ってたが、わたしはそんなに寛容じゃなかった。現実を知って、価値観がひっくり返っちまったんだ!」
「あんたバカなの?」
更等香愛永が立ち上がり、相談員に対峙して言い放つ。
「価値観が引っくり返ったなら、ニートやロリコンみたいなものこそ社会のお偉いさんになるでしょ」
唖然とする相談員と良太。
更等香は青年をさらに護るように前へ立ち、小声で忠告する。
「気をつけて銀沢おじさん。彼はエンジャーになっちゃったから」
「いや」我に返って、良太は疑問を呈した。「まずニートだがロリコンではないし、君特有の造語はわかんないんだが」
「エンジャーは自らの堕天使を自覚して、武器とする者よ。あたしらもある意味で他人の堕天使を露出することができる堕天師でもあるけどね」
「あたしら、って勝手におれを入れてない?」
「……うるさい」他方、相団員は半狂乱で喚きだす。「うるさいうるさいうるさい五月蠅い!」
翼が消え、全身が燃え上がった。炎の塊となり、前のめりに倒れて変形を始める。
四つん這いの体勢となり、一対の脚部が腕と足の間から生え六足歩行となる。尾が伸び、肉食獣の如く頭部が歪んで牙だらけの口を開く。
さながら、炎で構成された鰐だ。
「火蜥蜴ね」
中二病少女曰く〝サラマンダー〟は、火球を吐いた。
良太は襟首をつかまれ、更等香に引きずられ移動させられる。一瞬前にいた場に火の玉が着弾、爆発した。
ところで、二人は公衆トイレの裏側に転がり込んでいた。
「さっぱり、わけがわからんのだけど」
とりあえず攻撃が一段落したようなので、良太は言ってみる。
「最初に会ったときのあれも現実だったのか? なんなんだよこれ!」
サラマンダーくらいは知っている。
ゲームやアニメなどでも題材にされることがある、だいたいにして炎を司るといわれるヨーロッパの精霊だ。とはいえあくまで伝説。実物などいるはずもない。
「言ったでしょ、堕天使よ」
唯一疑問を聞いてくれる隣人の中二な回答が役立つはずもなかった。
ミシミシという嫌な音。
反射的に、二人は左右別々の方向に飛び退いて歩道を転がる。
間に割って入るように、公衆トイレが破壊された。
突き破って出てきたのはサラマンダーだ。
いや破ったとかいうレベルじゃない。二人の足下に降り注いだ石の破片は半分溶けている。火蜥蜴の周りはもっと重傷で、まるでマグマになっていた。
「全部燃え尽きて灰燼と化しちまえせ!」
「怒りか苛立ちの比喩としての炎ってわけね」
サラマンダーの咆哮に、地に這いつくばりつつも相変わらず狂った感想を洩らす更等香。
「ちょっと手が掛かりそう。おじさんの堕天能力も貸して!」
さらに狂った要求をプラスした。
目線は良太を貫いている。明らかに彼に向けて言っているのだ。
「まず何だよそれ!」
返答の絶叫は炎に掻き消された。
火蜥蜴が、良太に飛び掛ってきてきたのである。
道路に出た時点で、そいつの炎は車を溶かしていた。とんでもない熱量だ。
まともにぶつかれば、自分などひとたまりもない。
嫌だ。こんな、わけのわかんないことでなんでそんな目に遭わなきゃならないのか。
「ふざけんじゃねー!」
食らいついてきた火炎は、良太の叫びに応えるように半分に割れた。裂けるように。
内部に、本物の蜥蜴くらいの大きさのやつがいた。小さな、黒いやつだ。
「なっ」そいつは驚いたように、さっきのサラマンダーの声でしゃべる。「なぜ、貴様は焼けない?」
「な、なぜって言われても」
むしろ良太も呆然として応答する。
「へ~、打ち消し系の能力かな」いつのまにか隣に来ていた更等香が言った。「やるじゃん」
彼女は何だか納得していたが、良太は当然できずに言う。
「おれには何が何だかさっぱりだ。いいかげん、まともな説明をしてくれないか」
「サラマンダーは火に強い、だから本体は熱を受け付けないほど冷たいんじゃないかって想像されてもいたからね。あの小さいのが実体なんじゃないの」
良太は、隣人の中二な答えに軽く絶望する。
「両極性障がい辺りかな」
しかし、次いで少女はヒントになりそうな言葉も発した。
「障がい?」そこに縋ってみる。「これにも関係してるのか?」
「知らんけど、たぶん」
愛永は相変わらず適当だ。
「人はみんな、自分を通してしか世界を見れない。統合失調症のあたしもね」でも、改めて観察すると横顔は真面目そのものだった。「どんなに信じがたいものでも現実としか感じられないのなら、当人にとっては現実としか言いようがないもん」
「……幻覚とかも、そうなのか」
なんとなく、良太は答えを導き出す。
そしてこの異様な出来事を共有しているのが今のところ彼と愛永だけなことを鑑みれば、二人の幻覚というのは得心が行きそうな気がした。けれども
「――やっぱ知らんけど」
最後にばっさりと、愛永は切り捨てる。
「これまで会ってきた医者たちの診断と、自分なりに調べた情報から推測しただけ」
「おまえたち、何を言ってる?」
ずっと置いてけぼりにされていたサラマンダーが口を挟む。
「例えば」
そんな黒蜥蜴を愛永は指差した。
「両価性は一つの事柄に相反する二つの感情を同時に抱くこと。愛と憎しみとかね。サラマンダーの場合、熱い外側と冷たい内側の姿がそうした感情を表現してるのかも」
何となく、良太にはわかってきた気がした。
つまり、あの相談員は今のような仕事に就きたかったが、現実の過酷さに打ちのめされた。一方で、仕事への愛情も持ち続けている。そこへの憤怒があの形になったということなのだろうか。と。
「とりあえず、この場を終わらせなきゃね」
軽く愛永は提案する。
「どうやってだよ?」
問う隣人に、少女はあっさり言ってのける。
「あの姿が相反する二つの感情の比喩なら、ぶつけて相殺させればいいのよ」
良太は、注意深く観察してみた。
サラマンダーは、自分を無視して会話する男女に戸惑っているようだ。警戒するようにじりじり動いている。合わせて、黒蜥蜴を包む炎の身体も蠢く。
そこを青年は指摘した。
「見たところ、外側の火蜥蜴と内側の黒蜥蜴は常に一定の距離を保ってるみたいだぞ」
「ううん」少女は頭を振って否定する。「わたしの目はごまかせない。本体の動きからちょっと遅れて、周りの炎は動いているわ」
「だとしても、どうやってくっつけるんだよ。炎をつかんで動かしたりなんてできるのか」
「できないけど、……さっき壊されたトイレを確認して」
助言に従い、ちらと良太は見てみる。
建物自体を構成していたレンガの壁は崩れ、あるいは溶け、破損した洗面所や便器から水が噴き出していた。
「まさか、あれで消火するのか」
「いいから。そっちに逃げて、瓦礫を抜けてそのまま向こうまで走るの」
「は?」
疑問を差し挟む間も待たずに、愛永は案を実行に移す。
「悪いけどサラマンダー。あたしたちはあんたに構っている暇はないのよ、じゃね」
「……なんだと?」
黒い本体が首を捻るや、少女は少年の肩を軽く叩いてトイレの残骸へ猛ダッシュする。
こうした合図の意味を把握するのが苦手な良太はしばし固まる。サラマンダーと目が遭う。
向こうの方が早く反応し「に、逃がすか!」と、裂けた炎を修復。再び巨大な火蜥蜴として飛び掛ってくる。
そこでようやく、青年は愛永の後を追えた。
瓦礫の狭間を掻き分ける。
すぐ後ろを熱が追ってきて、背中が焼けるようだ。
水と熱にまみれながら、残骸をやっとこさ越えそうなところで、その一部に躓く。
「しまっ――!」
悲鳴を上げながら広場に転がり込む寸前。遥か先を行く愛永の背中が網膜に飛び込む。
たちまちそれはひっくり返り、身体と三半規管の前転に合わせて後ろを映す。
サラマンダーは瓦礫のちょうど真上に飛び乗り、水飛沫と重なるところだった。
途端、水流は煙と化す。
あんな水で防げるわけ――。
と思った刹那。
爆発。
火蜥蜴は急激に膨れて破裂した。炎の煙が暴風となって少年を広場内に吹っ飛ばす。
最期に目にしたのは、爆炎に焼かれる小さな黒蜥蜴本体だった。
「……はっ!」
突如息を発し、良太は時間が止まる前の公園の、時間が止まった刹那と同じ位置で覚醒した。
慌てて周囲を確認する。
そばを通ったスーツのサラリーマンが怪訝な顔で行き過ぎる。石畳はどこも焦げてなどおらず、並木も火を灯してなどいない。公衆トイレもしっかりと建っている。奥でも、青信号に合わせて無傷の車列が走っていく。
「やったね!」
呼びかけが聞こえ、振り返ると愛永がいた。
「……どう、なったんだ?」
やっと問うと、彼女はにっと笑って答えた。
「あのサラマンダーは鉄も容易に溶かしたからね。ざっと数千度はあったんでしょ。放水は消火に逆効果なのよ。熱すぎて水は瞬時に酸素と水素に分解されて、火を余計に燃え上がらせる。だから爆発して、本体の動きに若干遅れて距離を置く周囲の炎が回避に追いつかない勢いで中身を焼いたってとこ」
あんな異常世界を科学的っぽい解説で流されても困った。
「彼は。サラマンダーになってた相談員さんはどうしたんだ?」
「話は今度」
と、彼女は唖然としている良太に言った。
「早くご飯食べないと休み時間も終わっちゃうわ。ジェムストーンに通うんでしょ、そしたらいくらでも話せるじゃん」
「まだ完全に決めたわけじゃなかったんだが、興味深くはあるな」
聞いているのかいないのか、返答途中で彼女は走って帰って行ってしまうのだった。
確か最初に、昼飯をコンビニに買いに行く途中でこの事態に出くわしたとかは言っていたが。
考えているうちに少女の姿がパークビル前で人混みに紛れるのを、良太は見守ることしかできなかった。
後に、件の相談員は仕事をやめたと聞いた。
一連の出来事を医者に告げてもみたが、同じ幻覚を二人以上で共用した気になる〝二人組み症候群〟じゃないかといわれた。
真相は不明だが、ともかく。こうして良太と愛永にとってだけは普通で他にとっては普通でない日常は、幕を開けたのだった。