四章
――四章――
崖下から噴き上がる風が獣の咆哮のように唸りを上げる。ホローは月明かりを頼りにすり足で淵へと歩み寄り恐る恐る眼下を覗くも、どこまでも沈み込んでいきそうな闇に竦みすごすごと退散した。
まるで得体の知れぬ猛獣の虎口に飛び込むかのようだ。緊張で胃液が逆流しそうになる。拠点を出発時はそれなりに賑やかではあったが、町が近付くにつれ口数が少なくなり、待機地点に着く頃には無駄口を叩く者はいなくなっていた。
(こんな所で臆してどうするの)
使命を全うすると決めた日から如何なる犠牲も厭わないと覚悟したのだ。その中には己が身も含まれてなければならない。途上で倒れるつもりはないが、保身に走るくらいなら美しく散りたい。
「ひゃっ」
ホローは不意に肩を叩かれて思わず短い悲鳴を上げた。
「っと、すみません」
「……なに」
決戦を前にしながら普段と変わらぬガーニッヒの様子に安堵を覚える自分に苛立ち声が尖る。
「よく似合っていますよ」
「あっそう。もう一名いるんだけど」
「彼は不思議となんでも着こなしますね」
他の者が闇に紛れるべく口元まで黒い布で覆っているのとは対照的に、ホローと伊庭だけが白装束だ。少しでも活躍が目立つようにとの苦肉の策だが、浮いていることを揶揄されているようで落ち着かない。
「あと少しでフラムさん達が正門に到達します。準備はいいですか?」
「よくないと言ったら止めてくれる?」
「それだけ元気があれば大丈夫です」
八つ当たりだとわかっている。それでも感情をぶつけられる相手はガーニッヒしかいない。
「本当に成功するのでしょうね?」
「もちろんです。妹も――」
「そうじゃない。わかるでしょ?」
誰に聞かれても困るわけではない。なのに思わず声を潜めたのは命を賭して革命に身を投じている彼らに対する後ろめたさからだ。自分がこんなにも感傷的な人間だとは思わなかった。
「心配ありません。必ず上手くいきます」
ガーニッヒが柔らかく微笑む。その笑みとリエールに押し込んだ短刀の感触の間で揺らぐ。温もりでは祖国を救えぬと知っているのに。
「兄様」
闇が声を発した。ゾディアは完璧に夜と同化している。
「用意が整いました」
「わかった」
「キィ―ローズの命にはどこまで頓着するべきでしょうか?」
「自信がないのか?」
「余計な荷物で両手が塞がってるので」
ゾディアの射すような視線に思わず面を伏せる。術式を模倣するのがあんなにも難しいとは思わなかった。少しでも線がぶれると如実に氷柱の威力が下がることは、ゾディアの手本で嫌と言うほど学んだ。完璧に模倣しない限り、召喚者の力を借りて放たれる氷柱と同威力にならないのだ。挙句の果てに横で傍観していただけの伊庭があっさりと形を覚えてしまった。それで火が付き食事も碌に採らずになんとかものにした。
「名誉の負傷までが許容範囲だ」
「兄様は涼しい顔をしている時ほど無茶を言う」
「相手は選んでいるさ」
「……ずるい」
秘密を共有していても、この双子の間には立ち入れない何かを感じる。そのことに寂しさを覚えかけると、不意に腹の虫が鳴った。風の唸りで掻き消されたはずだが、それでも羞恥に頬が熱くなる。
「最大の敵は空腹ってわけ?」
皮肉と共にゾディアが干し芋を放って寄越す。緊張から喉を通りそうもなかったが、負けを認めるみたいで業腹なので、無理やり口に押し込んだ。
「あれは?」
「ざぁ」
咀嚼しきれていないので返答が濁る。
「保護者でしょ」
「づうやく」
「同じでしょ。逃げたらどうする」
「ぞれはない」
言下に否定するとゾディアが訝しげに眉を顰めた。
「何故か知らないけどこの夜襲を成長の機会と捉えてる。だから間違っても逃げたりしない。それに……」
ここ数日観察したが伊庭の表情はどこか借り物のようだ。まるでその場の雰囲気に最も適した反応を計算で弾き出しているかのように。召喚者と言えども同じ人間なのだからそんなことはあり得ない。だが、どうしてもホムンクルスと同等の無機質さを感じてしまう。
「それに?」
「……別に」
憶測でしかないことを無暗矢鱈に口にするべきではない。
「あっそう」
ゾディアが胡乱な視線を向けてくるも、結局何も言わず立ち去った。
ゾディアに伊庭の印象を尋ねようかと思ったが、まともな返答は期待できないので控えた。それに視界の隅にこちらに向かってくる二対の人影が映った。
「小便にまでついて来るんだけど、その気があるのか?」
伊庭に貼り付くようにしてポニャックが控えている。すらりとした伊庭に比べ黒装束がどことなく窮屈そうだ。
「従卒との役目を全うしようとしているだけよ」
「逃げるつもりならとっくにそうしてる」
「どっちかと言えば反対だと思うけど」
伊庭が首を捻る。
「ここは敵地だからいざという時に備えているの」
「それは随分と献身的だな」
「それだけ召喚者の存在は重い。ぴんと来ないかもしれないけど」
革命の象徴であり、新時代の息吹だ。少なくとも彼らはそう信じている。封印が確立される以前の伝説が実像よりも大きな影を投影し、今後の活躍が補強する。そうやって作り上げた虚構が大衆を踊らす。
よくできた脚本だ。最も大半の者は舞台に立っていることにすら気付いていないが。
「で、まだ?」
「別動隊が着くのを待ってる」
「こう暗くちゃ何も見えないな」
伊庭が躊躇なく崖から身を乗り出し下を覗き込む。
「怖くないの?」
「何が?」
「これから起こる全てよ」
左も右もわからぬ状態で血腥い狂騒に巻き込まれている。心細さに震えるには十分だ。そのうえ大陸でも屈指の強敵と矛を交えようというのだ。直接自分が闘うわけではないしても危害が及ぶ危険性は否めない。普通なら怖気づいたり、反対に気負い過ぎたりするものではないだろうか。なのに伊庭はこれから買い物に出かけるような気楽さだ。
「ああ、こういう場合は怖がった方が自然なのか。異世界の高揚感が勝って麻痺するのかと思った。勉強になるな」
「何を言っ――」
最後まで口にせぬ内に視界の端で光が瞬いた。
「着いたようですね。始めましょう」
ガーニッヒの呼びかけに応じミリミラに率いられた襲撃部隊が集う。
「三名ずつ降下し、決められた通り正門と倉庫を制圧。抵抗にあった場合は無力化も止む無し。緊急時は信号弾を打て。では行け!」
ミリミラの号令で三人一組となり崖から身を投げ出す。一見集団自殺にしか見えないが、中空で『滑空』の魔法が効力を発揮し、地面に激突することなく軟着陸できる。
作戦としては実に安直だ。だからこそ効果的でもある。もっとも安直だからと言って容易だというわけではない。まずこれだけの人数を制御可能な『滑空』の使い手が見付けられないだろう。更には迷いなく他人の魔法に命を預けられる向こう見ずな連中も揃えなければならない。
先発隊の面々は緊張しているが、恐怖は浮かべていない。如何にガーニッヒへの信頼が厚いかわかる。
次々と飛び立ちミリミラを残すのみとなった。
「後ろがつっかえてるんだけど」
「わかってる」
そう言いながらも崖の縁で足踏みしている。
「知ってる? 私が嫌いなものは暗闇と高所。その両方が揃ってる」
「暗くて高さなんてわからないでしょ。覗いてみれば?」
促されミリミラが恐る恐る下を覗き込むと、その尻をゾディアが思いっきり蹴った。
「いやぁぁっぁぁ」
後に引く絶叫を残しミリミラの姿が闇に呑まれた。
「フラムを恨むのね」
ミリミラとフラムで、どちらが降下部隊を率いるか決める際に、『飛礫』の魔法で的撃ちが行われた。三回投じて中心に近い方が恐怖の投身自殺を避けられるとの寸法だ。内容は至極単純であったが、これが縺れに縺れた。終いにはどちらが勝つかで即興の賭場が開かれた程だ。団員の半数の夕餉が賭けられているとの重圧に負け、ミリミラが僅かに中心を外し、フラムが勝ちを収めた。
あの時もミリミラのことは笑えなかった。自分なら中心どころか明後日の方向に投じていただろう。涼しい顔で全く動揺しないフラムの方が異常なのだ。
それは今も変わらない。人を突き落とし薄笑いを浮かべているゾディアや、表情を変えることなく下を覗き込んでいる伊庭がおかしいのだ。少しでも油断すると膝が笑いそうになる。
「あんたも?」
「武者震いだから」
「あっそ」
ゾディアを真中にして三人で腕を組む。
「不肖ポニャック祈ることしかできませんが全力で始祖様に祝詞を捧げます!」
今にも感極まって泣きださんばかりのポニャックの激励に辟易しながら崖の先端に立つ。
「赤い光が退却です。ご武運を」
ガーニッヒに見送られ頭から真っ逆さまに落ちる。
叩きつけるような風圧に服がはためき、風切り音が耳元で荒れ狂う。星空が爪先と一直線になりまるで浮遊しているかのようだ。
「あの時も落ちてるのか昇っているのかわからなかった」
不思議だ。なぜ伊庭の声はこうも耳に届くのだろうか。けして張り上げているわけでも大声なわけでもないのに。
「召喚された時?」
「ああ」
召喚者は一様に宇宙に放り出されたようだと表現する。中にはブラックホールとの単語を用いて説明する者もいた。それがどういった物なのか想像がつかないが、これと似ているなら楽しい経験ではなさそうだ。
「空間と時間の概念が消え、何年も何十年も彷徨っていたようにも思えるし、一瞬だったような気もする」
これも同じだ。永遠に感じたと言う者もいれば、瞬きの間だったと証言する者もいる。
「不安だった?」
「いや、無だ。だから変わらない。ただ……」
「ただ?」
「ようやく解放されるかと思った」
「何から?」
「……」
「それって――」
不意に方向が転じた。ゾディアが巧みに身を捻り、闇の中で薄く靄が掛かったかのように浮かび上がっている一画へと進路を取る。低級の魔宝石を利用した街灯が目的の屋敷を照らしている。
先に降り立った部隊が掲げる篝火が散開し、各々の持ち場へと急ぐ様子が映ったかと思うと、突如速度が上がり、錐揉みするように落下する。
「ちょ、ちょっと、大丈夫なの?」
「喋るな。舌噛む」
地面に激突するのではと恐怖に胃がせり上がる刹那、羽毛のような柔らかな感触に包まれた。
「滑空というよりも衝突だな」
「……何でもいいわ。無事なら」
精一杯強がるも、地に足を付けた瞬間腰が砕け尻もちをつきそうになる。
「おっと」
「平気だから」
慌てて腰に回された伊庭の腕から逃れる。恥ずかしさに顔から火を噴きそうだ。
「文字通り腰抜けなの?」
「足が滑っただけだから!」
「その言い訳がキィ―ローズにも通じるといいわね」
ゾディアの皮肉には取り合わず、腰に下げた巾着に仕舞っていた片眼鏡を取り出すと右目に装着した。
「始まったみたいだ」
伊庭に倣い耳を澄ますと遠くで鐘の音が聞こえる。門兵が狂ったように警鐘を打ち鳴らしている。
「目覚まし代わりってとこね」
これでキィーローズが飛び起きるとして、どこで迎え撃つべきだろうか? このままここに留まっていればいいのか、あるいはもっと相応しい場所があるのか判断がつかない。
答えを求めゾディアの様子を窺うと、黒衣の袖を捲り右手の包帯を解いていた。すぐに隠れてしまったので定かではないが、包帯の下から焼け爛れた皮膚が覗いた気がした。
「なに?」
「……ここでいいの?」
「別に何処でも同じ」
「地の利とか色々あるんじゃないの」
ゾディアが鼻で笑う。
「百年早い」
「あっそ。ならお姫様が起きて来るまでここで待ってる」
「とっくに起きてる」
「なんでわかるの?」
「マナが鈍い奴に説明しても無駄」
魔法の才と感覚の鋭さは必ずしも比例しないと思うが、自信満々なゾディアの様子に反論を呑み込む。もしかしたら本当に五感の鋭敏さがマナを上手く扱う秘訣なのかもしれない。
「精々死なないことね」
そう言い残しゾディアが闇に溶ける。手を伸ばせば触れられるほど近くにいたのに気配が完全に消え失せる。
「ちょっと、あんたはどうするの?」
声が虚しく木霊する。
重ねて問うと答えが返って来た。しかし、それはゾディアからではなく、正面の邸宅の玄関が開かれる音によって。
弟のリィロイを寝室まで見送り、キィ―ローズも用意された客間へと引っ込んだ。本当なら同室が良かったのだが、よかれと思って別室にしてくれた先方の好意を踏みにじるわけにもいかない。それにあまりにべったりではリィロイに嫌がられてしまう。
新たに赴任して来た町長は五十を過ぎた男だ。しなびたクッキーのように味気ないと評されているが、礼儀を逸しない程度に好奇心を覗かせつつ、そつなく歓待を催す程度の才覚は持ち合わせている。これならば前任者の轍は踏まないだろう。暴動まがいの騒動があっては流石に看過できない。
キィ―ローズは視察の報告書に本日の所感をしたためると、きりのよい所で羽ペンを置きベッドに潜り込んだ。
旅も終盤に差し掛かり流石に疲れている。瞼を閉じると直ぐに睡魔に誘われた。
どれぐらい微睡んでいただろうか。産毛を逆撫でするような悪寒に飛び起きると、枕元に纏めていた着替えに慌ただしく袖を通す。頭はまだ混乱しているが、本能が命じるままに手足が動き、一直線にリィロイの元へと向かう。
邸宅は寝静まっており、毛足の長い絨毯を踏みしめる己の足音だけが静寂を乱す。一歩進むごとに胸騒ぎは強まり、弟の肩を揺さぶる頃には確信に変わっていた。
「起きてリィロイ」
「うぅ、もう朝?」
「よく聞いて。何か変なの。すぐに着替えて」
「えっ! どういうこと? 変って何?」
「まだわからないわ。それを確かめに行く」
「なら僕も」
「今は貴方がランドール家の代表よ。誰が町長を守るの」
「でも」
弟が生半可なことでは引き下がらぬと見て取り、気は進まぬがキィ―ローズは切り札を切る。
「二つ名は?」
「えっ?」
「私の二つ名」
「『ランドールの白き赤薔薇』です」
リィロイは至って真面目だ。どこか誇らしそうですらある。それ故に恥ずかしさに悶絶しかける。なんとか抑えると、キィーローズは弟を説得するために考えていた台詞を口にする。
「土がつくと思う?」
「まさか! 姉さんが後れを取るなどあり得ません!」
望み通りの答にキィ―ローズは満足げに頷く。
「そういうこと。だから貴方は町長をお願い。玉体と思って守りなさい」
「……わかりました」
承服したとは言い難い表情だ。それでも無茶はしないだろう。恥を忍んで二つ名を問うた甲斐があった。
赤薔薇はランドール家の家紋からきている。白は白磁のような肌に由来しているとも、汚れを知らないからとも言われているが、実際は違う。出来ることなら弟には一生知らないでいて欲しい。
決して散らぬ純潔。だからこその純白だ。
「しっかりと準備しなさい」
「はい」
リィロイの返答に安心し部屋を飛び出す。
鐘が遠くで鳴っている。
「気が利かないわね。明日にしてよ」
一日違えばこんな厄介事に巻き込まれずに済んだ。本当ならリィロイを守りたいが、町の被害が大きければ責任を問われかねない。王宮という伏魔殿には人の足を引っ張ることこそが己の存在価値だと信じて疑わない下種が掃いて捨てるほどいる。弟の輝かしい未来をこんな詰まらない片田舎で閉ざすわけにはいかない。
速やかに脅威を排除する。そのためには本気を出すことも吝かではない。少し周囲が騒がしくなるだろうが、背に腹は代えられない。
キィ―ローズは決心を固めると、蹴りあける勢いで玄関を開いた。
湿った夜気が顔を打ち、雲が月を隠す。仄かな街灯が頼りだ。
しかし、それで十分だった。
キィ―ローズは身を隠すでもなく突っ立っている白装束の二人組に向き直った。
飛び出してきた人影を見間違うはずがない。面識がなくともわかる。あれがキィ―ローズ・ランドールなのだと。まるで光を浴びるために生まれて来たかのように輝くその容姿に引け目を感じずにはいられない。
意思の強さを感じさせる切れ長の目に、夏の空を彷彿とさせる紺碧の瞳。額は些か狭いが、通った鼻筋と適度に厚い唇が柔和な印象を与え狷介な感じは受けない。髪は肩に届く程度に短く切り揃えられている。革の胸当てに布のズボンと冒険者のような服装だが、キィ―ローズには不思議と似合っている。
美の女神が丹精を込めて自身の複製を作り出したと言われても信じてしまいそうになる。それほどまでに凛とした美しさを秘めている。彼女の半分でも創造主に愛されていたなら、もう少し己を好きになれたかもしれない。
この感想を抱くのは二人目だ。一人目は闇に潜みこちらの様子を窺っていることだろう。
「その恰好、なんの冗談?」
外見を裏切ることなく耳当たりのよい美声だ。家が没落しても吟遊詩人として生計を立てられるのではないだろうか。
これから口上を述べなくてはならないというのに、自らのかすれ声を恥じ、少なからず臆してしまう。ホローは唾を飲み込むと、意を決したように口を開いた。
「私たちは『特権階級に対する革命と闘争同志連盟』であり、この鉱山に貯蔵されている魔宝石を本来の所有者に還元しに来た」
「全ての魔宝石はルモー王家に属します」
「不当に摘み取られた果実を味わうなど恥ずべき行為」
「鉱夫には適正な賃金が支払われています」
キィ―ローズの返答をホローは鼻で笑う。
「前の町長がしたことを知らないとでも?」
「だから更迭されました。罪は罰せられます」
「個人の問題であり組織や仕組みに瑕疵がないと本気で思っているの?」
「それは……」
はじめてキィ―ローズが口籠った。その機を逃さずホローは畳みかける。
「ランドール家が家訓である公明正大を額縁に飾っているだけでないのなら正しきことを行いなさい」
ひっくり返ったってこんな言い回しは出てこない。ガーニッヒの用意した台本だ。ここまでの問答は恐ろしいまでに想定通りに進んでいる。それによれば次はこう答えるはずだ。
「『そうね、そうしましょう』」
キィ―ローズは前髪を指先で払うと、反対の左手で『火球』を放った。視線誘導を伴った小細工だ。予めガーニッヒから注意されていなければ反応出来なかっただろう。ホローは身を翻し避けると、散々繰り返した術式を切った。
『氷柱』がキィ―ローズに襲い掛かるも、彼女が両手の指先を組み合わせると虚空で砕け散った。
「ちっ」
『障壁』だ。殊更珍しいものではない。それでも目を疑ったのは、その発動速度だ。通常は予防的に使用する魔法となる。というのも術式が込み入っており、発動まで時間がかかるからだ。それをキィ―ローズは瞬時に組み上げた。
悪い方に予想が当たった。左右で別々に術式が組めるのなら、両手を駆使し一つの術式を生み出せるかもしれないとガーニッヒから注意されていた。まさかいくら何でも常識外れ過ぎると半信半疑だったが、目の前で再現されては信じるしかない。
「後学のために教えてくれない。その組み上げ方に名前はあるの?」
「『合掌方式』の構築は三百年前から模索されてます。ただ誰一人実現した者がいないだけです」
「ご教授痛み入るわ。歴史に名を残した気分はどう?」
「最悪です。私は静かに生きたいのに」
「それはご愁傷様」
口以上に手を動かし矢継ぎ早に『氷柱』を放つも、いずれも『障壁』の前に砕け散る。
キィ―ローズは防御に徹しており反撃に打って出てこない。『障壁』の方が遥かにマナの消費量は多いので、根競べとなれば不利になるのはわかっているはずだ。なのに甘んじて受け入れているのはこちらの出方を窺っているからだ。
キィ―ローズの視線がちらりと横に逸れる。伊庭は決められた通り参戦することなく少し離れた場所で静観している。内情を知らないキィ―ローズからすれば、その姿が不気味に映るのだろう。
「騎士道精神なんか期待してませんよ」
「ランド―ル事変がまぐれじゃなければいいわね」
「試してみてはどうです?」
安い挑発だ。だが、これでわかった。少なくともキィ―ローズは伊庭が『氷柱』の供給源だと見抜けていない。それは朗報であると同時に悲報だ。伊庭の身は安全だが、ゾディアが大手を振って参戦する理由は失われた。
このまま膠着状態が続けばキィ―ローズは痺れを切らし遅かれ早かれ攻撃に転じる。そうなれば勝ち目はない。
――やるしかない。
ホローは意を決すると、悟られぬように慎重に距離を詰める。少しでもキィ―ローズが違う動きを見せれば一気に決めるつもりだが、幸いまだ耐えている。だが、それもそう長くは続かないだろう。キィ―ローズが伊庭を窺う回数が増えている。
意表を突くこと。それ以外に勝機はない。だから同じことを繰り返し刷り込む必要がある。そうやって慣らし、緊張の糸を緩めなければならない。
ひたすら単調でありながら神経の磨り減る作業が続く。どんな些細な変化も見逃さぬ注意力を維持しながら、術式を疎かにするわけにもいかない。練習なんかの比ではない消耗だ。
水中での我慢比べのようだ。先に肺の中の息を吐き出した方が負ける。
(もう……無理……)
音を上げそうになる刹那、不意にそれは訪れた。
キィ―ローズが伊庭に視線を向けると、更に反対の何もない空間に注意を逸らした。
その機を逃さず、ホローは地を蹴った。
何もかもちぐはぐだ。
『氷柱』は教科書に載せても遜色のない完成度だ。なのに他の魔法は一切撃ってこない。普通なら『火球』や『発火』、『鎌鼬』などを織り交ぜる。もう少し気が利いていれば『雷撃』や『竜巻』と組み合わせ縦横から攻めるだろう。『障壁』の弱点は平面であることだ。それを突かない手はない。
解せないと言えば仲間の少年だ。加勢することなく傍観している。まるで我関せずとの態度だ。三文芝居でももう少し身を入れて観劇する。
そして何よりも気になるのが三人目の存在だ。
白装束の二人とは対照的に完全に闇に溶け込んでいる。『朧』か『陽炎』、『不可視』のいずれかを発動しているのは明らかだ。事前に『鋭敏』を使っていなければ気付けなかっただろう。
相手はたったの三人だが、あの時とは比べものにならない緊張感だ。何度かこちらから打って出ようかと思ったが、勝負を焦って足元を掬われては元も子もない。やはりもう少し様子を見るべきだ。
キィ―ローズは額の汗が滴るに任せる。
(それにしてもいつまで続けるつもりかしら?)
十年一日と変わらず『氷柱』しか発動しない。いい加減『障壁』を組むのも飽きてきた。
キィ―ローズはちらりと少年の様子を盗み見る。
先程から一歩も場所を移していない。機を窺っている様子もないので本当に傍観しているようだ。このままでは埒が明かないので挑発してみるも、乗ってこない。
(燃料切れを狙っているの?)
だとしたらこちらの情報をあまり持っていないことになる。マナの保有量が桁違いなことは広く知れ渡っている。『障壁』程度では揺るがない。あるいは緊張が途切れ下手を打つのを待っているのかもしれない。しかし、初歩の術式を組み間違えるなどあり得ない。どちらかと言えば、向こうの方が先にへばりそうだ。
キィ―ローズは視線が三人目に流れそうになるのをぐっと堪える。あえて気付いてない振りを続け、隙を見せ誘っているも、動きはない。
(あるいは単なる時間稼ぎなの?)
それが一番ありそうだ。実際、襲撃自体を阻止することは半ば諦めている。魔宝石を奪われるのは癪だが、幸い中位程度の石しか出土しない。この三人を生け捕りにし、組織の全容解明に繋げれば十分挽回できる。万一足りなければ合掌方式の研究に協力してもいい。それでお釣りがくる。
だからそこまで痛手ではない。リィロイの将来に傷が付くこともないだろう。相手が望むなら日が昇るまで根競べに付き合ってもいい。時間が経てば経つほど逃走は難しくなり、自らの首を絞めることになるのだから。
常識的には勝負を焦る必要はない。それでもキィ―ローズが反転攻勢に出る決心を固めたのは、一刻も早くリィロイを重荷から解放したかったためだ。町長を護衛しながらも内心気が気ではないはずだ。それにこれを早く片付ければ、弟と同室に泊まるのに、保安上の理由との大義名分が生まれる。
「ああぁ」
甘美な響きに思わず甘い声が漏れる。考えただけで頬が緩む。
「ふぅー」
怪訝な表情の相手を無視し、息を細く長く吐くと、体内を巡るマナを整調する。自在にマナの方向性を変えられるとはいえ、瞬時に切り替えられるわけではない。下準備が必要だ。『障壁』は右手が軸で組んでいるが、『反射』は反対となる。そのため、マナの流れをより細かく分断し、再構築しなければならない。
中々骨の折れる作業だが、単調な攻撃のお蔭で、そこまで苦労はしない。
キィ―ローズは慎重に準備を整えながら胸の内で幾度となく時間を進める。まずは『反射』で相手の意表を突くと同時に、『大地の抱擁』で白装束の男女を無力化する。この時に三人目も捕えられれば言うことはないが、ここまで完全に気配を殺せる実力者だ。そう容易くは運ばないだろう。
それでも自分が後れを取るとは全く思わない。問題は如何にして無力化するかではなく、最短で片付けられるかだ。
(そこは流れに任せるしかないわね)
結論が出ると同時に準備が整った。
次の『氷柱』がこの退屈な舞踏の最後の舞となる。
もし、キィ―ローズが思考に溺れることなく、観察が疎かになっていなければ、気付いただろう。ホローの術式が僅かに綻んでいることに。そして、それにも関わらず、『氷柱』の威力が減衰していないのに違和感を覚えただろう。
だが、キィ―ローズは見落とした。
そしてそれが勝負を分けた。
「ちっ」
ゾディアは小さく舌打ちする。仕掛けることに気を取られホローの術式が疎かになっている。
誘い水とするならもっと序盤に行うべきだった。それなら召喚者への攻撃を理由に加勢できた。しかし、ここまで勝負が煮詰まっては助勢そのものが負けを認めたと捉えかねない。
キィ―ローズが伊庭に狙いを定めた際に備え、ゾディアは左腕の包帯の結び目に指をかける。まだ白旗には早いが、いつでも掲げられるようにはしておくべきだ。
キィ―ローズは相も変わらず『障壁』で『氷柱』を打ち消すだけで満足している。歴戦の兵であればどんな些細な変化も見逃さない。ここにきて実戦経験の乏しさが露呈した。それも無理はない。立ち塞がる者を圧倒的な才能で捻じ伏せて来たのだ。経験を積む機会などなかっただろう。
ゾディアはほくそ笑む。どうやらまだつきには見放されていない。
後はいつ仕掛けるかだけだ。その見極めさえ誤らなければ勝負はどちらに転んでもおかしくはない。
キィ―ローズは十中八九こちらの存在に気付いている。それでいて惚けるぐらいの才覚は有している。それなら一層のこと逆手に取ってしまえばいい。
ゾディアがホローの歩調に合わせ死角に回り込むと、キィ―ローズの視線が初めて明確な意思を持ちこちらを追って来た。
その機を逃さずホローが地を蹴る。といっても戦士のように鋭い踏み込みではない。それでもキィ―ローズは意表を突かれたようだ。端正な顔立ちに驚きの表情が浮かぶ。
「終わってぇぇぇ」
雄叫びを上げ懐に潜り込んだホローが術式なしに『氷柱』を三連続で放つ。事前の打ち合わせでは角度を変え三方向から攻めることになっていたが、『氷柱』は連なり正面からキィ―ローズに襲い掛かる。
初弾が反射により撥ね返り二発目と激突し粉々に砕ける。
「なっ!」
やはりホローはキィ―ローズが術式を組み替えていることを見落としていたようだ。三連撃としたのは単に怪我の功名ということになる。
キィーローズが目にもとまらぬ速さで再び『反射』の術式を切る。その速度を目の当たりにし、ゾディアは温存するつもりだった符に触れた。
最後の『氷柱』が着弾する寸前に『反射』が組み上がる。
勝利を確信したキィ―ローズの笑みが驚愕へと変わり、すぐに苦悶に塗り替えられた。
「ぐふぅ……」
抉られた脇腹を押さえキィ―ローズが膝から崩れ落ちる。
「……勝った……の?」
無防備に近づくホローに向かって、キィ―ローズが震える左腕を伸ばすも、術式を結ぶ直前でゾディアが横から手首を掴んだ。
「無駄な抵抗は名を穢す」
「くっ」
睨みつけてくる瞳から光は失われていない。それでも敗北を認めたのか力なく首を垂れた。
「わたし勝ったのよね?」
「運でしかない」
舞い上がって段取りが吹き飛んだのだろう。一歩間違えれば反対だった。
「わかってる。でも今ぐらいは勝利に浸ったって罰は当たらないでしょ」
「好きにしたら。次はないだろうから」
ホローが顔を顰める。
「貴様ら、なん、だ?」
喘ぎながらキィ―ローズが問う。その問い掛けを無視し、ゾディアはしゃがむと、傷口を押さえる手をどかし患部を検める。
「かすり傷とはいかないけど死にはしない」
「最後、何をした? それに、術式、は?」
「答えなら出てる。違う?」
ゾディアの視線を追いキィ―ローズが近付いて来る伊庭を見上げる。
「……まさか」
「案外と節穴」
「忘れた、の? 悲劇、を」
「生まれる前のことでしょ。それが何?」
「納得して、協力、しているの?」
「首輪してるように見える?」
「封印は、失敗? どうして?」
質問には答えず一方的に宣言する。
「これ以上ランドール家の者に危害を加える意思はない。今夜起こったことは全て包み隠さず話すといい。そのうえで正義はどちらにあるか問え」
背後で空が白む。先ほどまで陣取っていた崖の上で球体が発光している。正門の制圧が完了し、魔宝石を運び出す準備が整ったとの合図だ。後はあれが赤に変われば撤退となる。
「彼女は?」
「見逃すわ」
伊庭の問いにホローが答える
「禍根を残さないか?」
「私たちが血に飢えた狼に見える?」
「それならこれは返しておく」
伊庭が腰に帯びた短刀に手を伸ばすと、「姉さん!」との大声が闇を切り裂いた。それは殆ど悲鳴と言ってもいい。
キィ―ローズを庇うように少年が躍り出る。
「姉さんに何をした!」
力強い言葉とは裏腹に握った剣の切先が震えている。それでも少年は一歩も引くことなく構える。
「三対一なんて卑怯だぞ!」
「リィロイ、私は、大丈夫」
「姉さん喋らないで。僕がすぐに片付けるから」
少年に威嚇されホローが下がる。戦意がないことを示すため、右手の人差し指と中指を交差させる。この形から組める術式はないので敵意がないことを表す慣わしとなっている。ゾディアもそれに倣い、努めて穏やかに話しかける。
「私たちにランドール家の人間を害する意思はない」
「信じられるものか!」
まだ幼い。それだけに言葉の裏に潜んでいる意味を汲み取れず吠える。子供だからと言ってしまえばそれまでだ。だが、自分たち兄妹にそんな甘えは許されなかった。この歳頃の時分には大人に混じり汚濁に塗れていた。そうでなければ生き残れなかったから。穢れないままでいられるのは最高の贅沢なのだ。そのことに少年が気付くことはないだろうが。
「ランドール家の中には貴方も含まれてる。大人しく姉を医者に連れて行きなさい」
リィロイがちらりと背後のキィーローズの様子を窺う。組み伏せるには十分な隙だったが、ゾディアはあえて見逃した。
「手を、貸して。おねがい」
「でも」
「いいから」
有無を言わせぬ姉の言葉に渋々リィロイが剣を鞘に納める。
それを待っていたかのように崖の上で赤い球体が輝く。
流石に緊張していたのかゾディアは我知らず息を吐き出す。
想定外の事態は起こったが、予想外の結末にはならなかった。上出来と言っていいだろう。
肩から力を抜き脱力する。それが隙を生み、脇を通り過ぎる伊庭の様子に注意を払うのが一歩遅れた。
ランドール姉弟に歩み寄る伊庭に、最初は手を貸すのかと思った。甘さに反吐が出るが、如何にも向こうから来た人間のやりそうなことだ。ホローに目線で止めるように促し、その強張った表情に違和感を覚え視線を戻すと、伊庭の手には先ほどホローに返そうとしていた短刀が握られていた。
時が止まる。
まるでそういった魔法があるかのようだ。だが、実際は単に思考が現実に追いつかなかっただけだ。
刃先がリィロイ・ランドールの胸に吸い込まれる。
「リィロイ!」
支えを失いキィ―ローズが弟と共に倒れる。
「何してるの!」
ホローが動転し未翻訳のまま問い詰めると伊庭が肩を竦めた。
「自分が何をしたかわかっているの!」
「ああ、姉の前で弟を殺した」
「どうして? どうしてそんなことしたの?」
「知りたいことがある」
そう言って伊庭がキィ―ローズに視線を落とす。ぞの眼差しは研究者が実験動物を観察するかのように何の感情も宿していない。
「大丈夫。すぐにお医者様を呼んであげる。だから返事をして」
己の怪我など忘れたかのようにキィ―ローズが死に物狂いで語りかけるも、リィロイは応えない。仰向けに倒れた胸元の染みが広がり、ピクリとも動かない。空虚な眼差しに光はなく、絶命しているのは明らかだ。
「ねぇ、お願い。何か言って。苦しいとか、痛いとか、私を、置いて行かないで」
キィ―ローズが遺骸に取り縋り咽び泣く。
「……それが正解か」
伊庭が己に言い聞かせるように呟く。
「これが見たかったの? こんな当たり前のことが?」
伊庭の胸倉をホローが掴む。
「ああ、こっちに来て一番の収穫だ」
「いかれてる」
「今頃か?」
処置なしとホローが首を振る。
きっと自分もホローと大差ない表情を浮かべているだろう。
完全に計算外だ。まさかここまで壊れてるとは思いもしなかった。なぜ殺したかは後で問い詰めればいい。それよりも、この場をどう収めるかの方が重要だ。
後継者を手にかけたのだ。ランドール家を味方に引き入れる線は完全に潰えた。泣き叫ぶキィ―ローズに話が通じるとも思えない。そもそも今更どんな言い訳も無駄だ。であれば、考えるべきことは一つ。
ホローと視線が交差する。その眼の色で、同じことが念頭を過っているとわかる。
この場でキィ―ローズを弟の元へと送るかどうかだ。
ランドール家の長男と長女を両方殺害するのは芳しくない。だが、生かしておけば復讐の鬼と化す。敵は必要だが、手に余る強敵は遠慮願いたい。下手に横やりを入れられては計画に支障が生じる。
なによりもゾディアが恐れているのは復讐が糧となることだ。時に怒りや憎しみは急激な成長を促す。そのことを身をもって知っているだけに、看過する気にはなれない。
折角の苦労が水泡に帰すのは癪だが、他に選択肢はない。
ホローに頷きかけると、僅かな逡巡の後、賛同を示した。兄もこの判断を支持してくれるだろう。
ゾディアが後始末のため踏み出すと、行く手を遮るように伊庭が腕を広げた。
「殺すのはなしだ」
「はぁ? 自分がしたことわかってる?」
「だからだ。彼女を殺したら確かめられない」
「これ以上なに?」
伊庭が振り返る。
「復讐を知りたい」
「なに言ってんの? 本気で。自分の胸に手を当てなさいよ」
「ああ、そういう風に誤解されてるのか。俺は別に復讐したいわけじゃない。ただ走馬灯を覗きたいだけだ。両親と妹を殺した犯人の」
ホローが絶句する。
日本語がわからない振りを続けなければならないのに、危うくもう少しで顔を見合わせてしまう所だった。
「悲しみが引いた後には憎しみが残る。それはどんな形で表現されるんだ? 俺に教えてくれ」
「……狂ってる」
「こっちは大真面目なんだけどな。とにかく殺さないよう言ってくれ。手を引かないなら協力はしない」
ホローが戸惑いがちに何度か口を開きかけては閉ざす。適切な言葉が出てこないのだろう。キィ―ローズは事切れたかのように弟の遺体に重なり動かないが、下手に刺激すればどういった反応を引き起こすか予測がつかない。
ゾディアは一つ大きくため息を吐くと、日本語で応じた。
「事情は分かった。あの怪我なら暫く復帰は無理。その間に姿を消す。簡単には探せないはず」
「う……そ……どうして?」
「保険は十重二十重に用意しているもの」
ホローがあんぐりと口を開ける。その間抜け面が拝みたかったはずだ。なのに、いざ目の当たりにするとさして興が乗らなかった。それでも、僅かに意識が逸れた。
それが隙を生んだ。
身を起したキィーローズに対し反応が一歩遅れる。向こうが組み上げる術式の速度に対し、左手の包帯を解いていては間に合わない。ホローに視線を送ると、慌てふためき泡を食っている。
「出ない……」
ここにきて不発とは何の冗談だと叫びたくなる。しかし、その間すら惜しい。見る間にキィーローズが両手で術式を組み上げていく。断片しか読み取れぬが、それで十分だ。
『終の託し【逆流】』
マナを暴走させ命を灯火として特大の爆弾に着火する魔法だ。執行者のマナが多ければ多いほど威力は強大になる。完成すればここら一帯は崖の上の兄も含めきれいさっぱり吹き飛ぶ。
間に合わないと自覚しながらもゾディアが包帯の結び目を引っ張ると、風が逆巻いた。
伊庭に脇腹を蹴られたキィーローズが吹っ飛ぶ。片膝立ちになり吐血しながらなおも術式を結ぼうとするも、再度腹を蹴り上げられ地面に倒れ伏す。それでも手を動かそうとすると、伊庭が右腕を踏んだ。
「ぎゃぁあぁぁl」
苦痛の叫びがキィーローズの口から漏れる。骨がミシミシと軋む音がここにまで届いてくる。
目で追えぬ伊庭の動きと『氷柱』の不発。導き出される答えは一つしかない。
「性格わる」
「お互い様だ」
使える魔法は一つだと言っておきながら、『能力向上』が扱えるのを伏せていた。
「どうして! 『白日の下に』で尋問してるのに」
嘘を暴くとの触れ込みの魔法だ。
「あれは感情の揺れを感知し、異常値を検知するに過ぎない。元から無であれば引っ掛からない」
「そんな……」
とんだ失態だ。腹立たしいのはそのお蔭で命拾いしたことだ。
伊庭が爪先でキィーローズをひっくり返す。
「こ、殺す。かならず、殺す。ぜったい、殺す。なん、としても、殺す」
キィーローズが呪詛を吐き出す度に口の端から血の泡が弾ける。額が切れ顔の半分が朱に染まり幽鬼のようだ。
「いいね、期待通りだ。その瞳に宿る感情を全て教えてくれ。まぁ、今回は時間切れだけど」
伊庭が無慈悲にキィーローズの手の甲を踏みつけ粉砕する。
ホローのように耳を塞ぐ代わりに、ゾディアは二枚の符に触れる。
薄い靄が三人を包み、巻き起こった強風が上空へと運ぶ。
月を隠していた雲が払われ、青白い光に照らされ町の様子が一望できる。所々から立ち昇る煙が夜空を焦がす。
取り残されたキィ―ローズの姿がぐんぐんと小さくなっていく。それに反し、鼓膜を震わす沈痛な叫びだけはいつまでも耳に残った。
「はははは……」
ガーニッヒの乾いた笑いが夜気に湿った草花を揺らす。
「笑い事じゃないわよ」
「わかってる、由々しき事態だ。しかし、これを笑わずしてどうする?」
魔宝石を満載に積んだ馬車を見送った後だ。本当なら勝利の高笑いの一つでも上げたい。しかし、そんな昂揚した気分は妹と恋人から受けた報告によって吹き飛んでしまった。それでも笑って見せたのは指導者の仕事の半分は虚勢を張ることだと自覚しているからだ。
大半を運搬の任に充てているので、残っているのは僅か数名だ。その者たちから離れ、森の外れで肩を寄せ合い今後の相談をしている。
「思っていたよりも遥かにネジが飛んでる」
「だから?」
「わかってるでしょ。諦めるべきよ」
「問題外。あれなしで協力は得られない」
ホローの意見に対しゾディアが真っ向から異を唱える。
「手綱を引き千切られて落馬したら元も子もないって言ってるの。彼等があんな状態の召喚者をありがたがるとでも?」
「自分の親指と腸詰めの見分けがつかない奴でも嬉しょんを漏らす。それが召喚者である限り」
「そうやって他人を見下しているといつか手痛いしっぺ返しを食らうわよ」
「自己憐憫の海で溺れるよりはまし」
ガーニッヒは今にも掴みかからんばかりの二人の間に割って入る。
「歩調を合わせろとは言わない。せめて同じ方角を向いてくれ」
「で、あなたが羅針盤ってわけ?」
「文句はないはずだ」
「ないわよ。方角が合ってる限り」
そう言い捨てホローが背を向ける。
「警護を手厚くする。フラムとミリミラには伝えている。運搬が一段落したら合流する予定だ」
「有難くて涙が出るわね」
話は終ったとばかりにホローが離れる。
「あたし一人で十分」
「わかってる。警護というよりはお守りだ」
「どっちの?」
「手が掛かる方だよ」
ゾディアが皮肉っぽく片側の口辺を持ち上げる。我が妹ながらこういった人を喰った表情がここまで似合う者もそうはいない。不遜な傲慢さが冷たい美貌に彩りを与える。
妹は鏡だ。欠けている部分を補ってきた。直感と感情に流される傾向が見受けられれば、理論と理屈を重んじ、暴力に訴えがちならば、弁舌を磨いた。そうやって彫琢されたのが今の己の姿だ。別に不満があるわけではない。ただ、時たまどちらが実像か見失う時がある。
ガーニッヒは小さく頭を振る。
馬車の前輪と後輪のようなものだ。一方が欠ければ走れない。考えること自体が無意味だ。特に目の前に難題が山積みの時に。
「感情がないとの話どこまで信じる?」
「疑う理由はない」
「リィロイ・ランドールを刺した際はどうだった?」
「兄様は足袋を履く時に何か考える?」
妹の返答に苦笑を噛み殺す。
「人を殺すことに慣れているように見えたか?」
「手つきは覚束なかった」
「だろうな」
人殺しは特有の気配を纏っている。伊庭からはそういった匂いは感じない。なのに何の動揺もなく殺せるものだろうか?
今でも瞼を閉じれば最初に殺した男の苦悶の表情が浮かぶ。短刀の柄を伝ってくる返り血の滑った感触や、こちらの手首を掴んだ力などがありありと思い出せる。
あるいはそれこそが感情を持たぬ左証なのだろうか?
そもそも走馬灯を覗きたい理由からして理解し難い。
ホローが聞き取った所によれば、伊庭が両親と妹を惨殺した犯人を突き止めたいのは復讐ではなく、肉親の殺害現場を追体験すれば感情が揺り動かされるのではないかと期待してとのことだ。
そんな雲を掴むような話で多大な犠牲を強いようとしているのだ。少なくとも他人の命に糞ほども価値を見出していないことは確かだ。
「感情は生まれつきなかったと言ってるんだな?」
「そう」
機械と同じく、強い衝撃を受けると人間も壊れる。それは必ずしも外的損傷を伴うとは限らない。内部から崩壊することもある。肉親の死が契機となり感情を喪失したのだとすれば納得いく。
「そう思い込んでる可能性は?」
ゾディアが肩を竦める。
「さぁ、でも、あれは生来な気がする」
妹のことだ。根拠はなく勘だろ。だが、それが侮れないことは嫌と言うほど知っている。
「厄介だな」
「そう? 手綱の握り方しだいだと思うけど」
だから問題なのだ、と内心呟く。自分ならば完璧に制御する自信がある。しかし、妹やホローでは心許ない。
計画を練り直すべきか思案する。しかし、魔宝石の提供を見返りとした各組織との共闘は余人では実現できない。それに全体像を把握しているのは自分だけだ。足並みが乱れては支障が生じる。やはり自ら出向くしかない。
「長くても一年だ」
「短くて?」
「そっちは期待するな」
「退屈しそう」
待つだけの身は辛い。それでも息を潜めてもらうしかない。妹だってそのことは承知している。
「あいつを鍛えてくれてもいいんだぞ」
「無駄は嫌い」
「だからだ。一年は長い。無駄なことでもしないと暇を持て余す」
妹が不満気に唇を突き出す。他人には見せぬ表情だ。それを兄として少しだけ勿体なく思う。
「……同じこと言った?」
妹が質問を完結させるのを待つ。
「あの女と寝てなくても同じこと言った?」
「何かと思えば、情で眼が曇ると思うか?」
「……情はあるんだ」
「誰かさんとは違うからな。でも、それが影を差すことはない。わかってるだろ」
「うん」
ゾディアが素直に頷く。
(らしくないな)
素直なこともだが、自明なことをあえて問うたのもだ。
考えてみれば別行動はこれが初めてだ。ここまで二人三脚で歩いてきた。兄離れ出来ていないとは思わないが、己の足で立てと言われ戸惑ったとしてもおかしくはない。
それはガーニッヒとて同様だ。しかし、おくびにも出さず微笑む。
「その半分の素直さで接すれば案外と友達になれるかもな」
「木の洞に話しかけたほうがまし」
「はははは」
予想通りの返答に思わず声を上げて笑う。
誰をとは言っていない。なのにホローだと断定した。それだけ意識しているのだ。他人への興味が芽生えたという意味で、前進と言える。
「成長が楽しみだな」
ガーニッヒは独り言ち、妹の視線を正面から捉える。
「何があっても手綱は放すな」
「それが兄様の望みなら」
「俺達のだ。忘れるな。理想を」
どんな言葉で取り繕うと返り血でべっとりと濡れている。それでも妹には後ろ向きな気持ちで取り組んで欲しくはない。
「わかってる。あたし達の夢だから」
「ああ、そうだ。頼んだぞ」
妹の華奢な肩を軽く叩き、振り返ることなく待たせている馬車に乗り込む。
「出せ」
御者が鞭をくれる音で応じる。
ガタゴトと揺れる道が先行きの不穏を暗喩しているのではとの不安を押し殺し、ガーニッヒは目を瞑ると、硬い背に深く身を預けた。
「行ったわね」
ガーニッヒを乗せた馬車と少数の護衛が遠ざかる。彼等はこれから諸国を巡り、草の根的に活動している反権力団体を纏め上げるとの大役が課せられている。この計画の成否は偏にその結果にかかっている。
「あの、僕達もそろそろ出発した方がよくないでしょうか?」
「そんな焦んなくてよくない?」
キョロキョロと辺りを見回すポニャックと対照的にボラは鷹揚に構えている。
「ラルが耳澄ましてるし、何か近付いてくればわかるっしょ」
「近付いて来てからでは遅いですよぉ。それに早く召喚者様を休ませなくては」
残ったのは伊庭の世話係であるポニャックに、斥候と索敵で力を発揮するボラとラルフレッド、それに料理や洗濯などの雑用をこなすマーマとのおさげが幼い印象の少女だ。
言うまでもなく他にゾディアがいるが、彼女は直接の指揮下ではないので頭数には入れていない。今も一人離れ森を背に佇んでいる。
その視線の先には街道の脇に寝そべっている伊庭がいる。冷えた夜空に浮かぶ双月が珍しいのか飽きもせず眺めている。その姿から計画を台無しにした後ろめたさや人を殺した動揺は一切見受けられない。
「心配しなくても十分休んでない?」
「夜風にあたっては風邪をひいてしまいます。それに慣れない戦闘にお疲れのはずです」
「寮母さんみたい」
ポニャックの心配を無邪気にボラが笑う。
「先ほど温かいお茶をお渡ししました。薬味で体の中から温まりますよ。皆さんもどうですか?」
マーマがいつの間にか取り出した水筒を胸の前で掲げる。
「うげっ、それ苦いんだよね」
「僕もちょっと」
「そうですか……」
マーマが残念そうに面を伏せると、背後からラルフレッドがひょいと水筒を掴み、満面の笑顔で飲み乾した。
「ラル、大丈夫? 熱いの苦手でしょ」
ラルフレッドがこくこくと頷く。
「あっ、美味しいの。ならいいけど」
水筒をマーマに返し周囲の警戒に戻る。
喋れぬため直接言葉を交わせぬが、行動の端々から気立ての善さは伝ってくる。
「でさぁ、次どうするの?」
ボラに水を向けられホローはラルフレッドのひょろりと長い背中から視線を外した。
「協力者の下で身を潜める」
「いつまで?」
「時が来るまで」
「それって未定ってこと?」
「そうとも言うわね」
ガーニッヒからはおよそ一年と言われている。それが妥当な見積もりなのか判断がつかない。下手に期待を持たしても酷なので伏せておく。
「場所は何処なのでしょうか? ここから近いと発見されてしまわないか心配です」
馬車も馬もなく徒歩だ。マーマが心配するのも無理はない。
「森を抜けアハラ山脈の麓まで行く」
「どこそれ?」
「事前に地図を叩き込んでおくよう伝えたはずだけど」
「うん、そうだね」
全く悪びれることのないボラに、ホローは浮かび上がりそうになる青筋を押さえる。一々腹を立てていてはこの先やっていけそうにない。
視線を感じ振り返ると、街道を監視しているラルフレッドが申し訳なさそうに会釈した。
僅かに胸に疼くこの感情は嫉妬だろうか。
自分にもこんな幼馴染がいたならと考えてしまう。懊悩で眠れぬ夜に温もりを求めガーニッヒと肌を重ねたが、一時の快楽では安寧を得られなかった。
人は己に無関係だと決めつけている事柄では心が動かぬと聞いた。
だから、まだ諦め切れていないのだ。この乾いた心を潤してくれる誰かを。
自然と視線が流れる。
伊庭は変わらず夜空を眺めている。
ああなれば楽なのかもしれない。目に映る全てを単なる事象と捉え己から切り離してしまえば。
ホローは出発の準備を整えておくよう言い捨て、寝転がっている伊庭のもとへと歩み寄る。姿勢を変えないので寝ているのかと思ったが、案に反して伊庭は目を開けていた。
「どっちが偽物?」
「向かって左側」
「違いは?」
「ちょっと蒼味がかってる」
「他には?」
「兎でも住んでるかもね」
伊庭の口辺が僅かに持ち上がる。どうやら笑っているつもりのようだ。
「取り繕った笑顔よりそっちの方がまだましね」
「愛想笑いのつもりだったんだけど難しいな」
「だったらもう少し上手くやりなさい。演じている内にいずれ本物になるかもしれないのだから」
伊庭が肩を竦める。
「そっちが万を殺す呪文を覚えてくれた方が早い」
「呪文じゃなくて魔法。『能力向上』はそれなりに消費するでしょ」
「百程度じゃ話にならない。アイスピックで氷山を削ってる気分だ」
これから身を潜める先には百人も村人はいないだろう。それを一瞬で消し飛ばして何も思うところがないのだ。わかってはいたが、人の心は持ち合わせていない。
一層のこと現状に甘んじてくれれば平和なのにと思う。
「なんで感情を求めるの?」
伊庭がなにを今更との表情で見上げてくる。
「感情こそ人を人たらしめるものだ」
「人間性の証明ってわけ?」
「小難しく言えばそうだ。だけど、正直どうでもいい。隻眼だったなら義眼を求めるだろ。同じだ」
「心は体の欠損とは違う。決まった形はないのだから」
「つまり欠落しているのが本来の姿だと言いたいわけか?」
「……ええ、そう」
挑発と捉えられかねないが思い切って口にする。
「それを言い訳に使っているわけでないなら一意見として参考にさせてもらう」
「『氷柱』でわかったでしょ。才能が絶望的に無いの。新しい魔法とか無理だから。ましてや上級とか夢のまた夢。まだ月に兎を探す方が現実味がある」
「そうでもない」
日本語だ。振り返る必要もない。それでも確かめたのは発言内容がゾディアのものとは俄かに信じられなかったからだ。
「ちょっと、なに勝手に――」
「何か手があるのか?」
「マナを捨てればいい」
「どういう意味?」
「言ったはず。あんたの母親じゃない」
取り付く島のない返答を残し、ゾディアが離れる。
「諦めるのは早いみたいだな」
伊庭が双子の月よりも興味深いことを見つけたとばかりに勢いよく上半身を起こす。
「愉快犯よ。ああやって楽しんでんの」
「少しぐらいやる気出しても罰は当たらないだろ。こっちも協力してるんだ」
「協力と言うか利害関係の一致でしょ。ああ、もう、わかった。どうせ向こうでやることもないんだし、魔法の深淵を覗いてあげる。ただ期待はしないで」
「少なくとも落胆することはない」
「そうだったわね……」
感情が無いというのはそういうことか。
何と言っていいかわからず、ホローは曖昧に頷く。
「これは返しておく」
伊庭が鞘に収まった短刀を放って寄越す。
思わず手を伸ばしたが、本当なら受け取りたくはなかった。
「血なら洗い流した」
「別にそういうわけじゃないんだけど。まぁ、いいわ」
厄介払いしたつもりが結局戻ってきてしまった。
「次はないわよ」
「状況次第だな」
「自分の立場わかってるの?」
「わかってるからこそだ」
「で、しょうね」
余程しっかりと手綱を握らない限り、何度でも同じことを繰り返す。ここら辺については他の者にも十分周知しておく必要がある。
ホローは次々と持ち上がる課題に辟易しながら身を翻す。
出立を告げようと肺に息を吸い込んだところで振り返る。
「ねぇ……人を殺して何か変わった?」
答えはわかり切っている。なのに問い掛けずにはいられなかった。
「ゆで卵は半熟が好みだ」
全く噛み合わない返答に日本語を間違ったかと焦るも、こちらの心配をよそに伊庭が続ける。
「黄身がどの程度熟しているか見るのにナイフで半分に切る。暫くは思い出すな」
「……それだけ?」
「ああ、残念ながら」
伊庭が肩を竦めてみせる。
「ふふふ、あははははっ。やっぱりいかれてる」
久しぶりに横隔膜が震える感覚を味わう。刻まれた罪が消えたわけではない。それでも返された短刀が幾ばくか軽く感じられた。
今度こそ出立を告げるべく離れると、伊庭の声が追いかけてきた。
「そうそう、あれで一つ思い出した。本当なら別の人間を刺し殺す予定だった。だから、一人追加で」
――終幕――
もうどれぐらいこうしているだろうか?
久良凪絵里は自室の勉強机の上に置かれた一冊のノートを前に固まっている。どこでも売られている何の変哲もない大学ノートだ。傍からは勉強に気が乗らない学生がささやかな抵抗として空想に耽っているように見えることだろう。
内容なら大半を暗記している。だからわざわざ開く必要はない。それでも絵里は表紙を捲ると、飛び込んで来た几帳面な文字に視線を走らせた。
『両親の死骸を発見した時のことは克明に覚えている。絵心があれば鮮明に描写できる。それだけ鮮烈に心に残ったのは、逆説的だが、何も感じなったからだ。それで抱え続けてきた違和感の正体に気付いた。自分には感情がないんだ』
『人間を人間たらしめるのは感情だ。では、それが欠落している自分は何だ? 欠陥品だとして、これは直るのだろうか?』
『音楽、映画、小説、感情が介在するならどんなものにでも触れるべきだ。答えでなくとも、どこかにヒントが転がっているかもしれない』
『高尚な哲学書も、低俗な娯楽映画も、心を揺さぶる名曲も、どれも響かなかった。砂漠でオアシスを求め、蜃気楼にすら出会えない。やはり追体験では駄目なのか? 実体験こそが答えなのだろうか』
『恐怖は無駄だった。深夜の廃墟は単なる汚らしい廃屋にしか思えず、墓場は侘しいだけの場所だ。適当に屯している不良に喧嘩を売ってみたが、ナイフをチラつかされても別に怖いとは思えなかった。殴られた痛みに対して生理的な嫌悪感は覚えたが、それ以上の感情が惹起されることはなかった』
『喜びは難しい。何をもって人は幸せを感じるのだろうか? 誰かに認められる、欲しい物を手に入れる、褒められる、注目を浴びる、あるいは密やかな欲求を満たす。いずれも自分には無縁だ。それとも単純に金なのだろうか? 両親の生命保険で銀行口座には過ぎたる額が眠っているが、貯金の桁は何の意味も持たない』
『喜びと楽しみが切り分けられない。だから、楽しさもわからない。テーマパークではしゃぐ子供の気持ちを想像すればいいのだろうか? そういえば幼い頃に両親に遊園地に連れて行ってもらったことがある。あの時自分は何を感じていただろうか? 思い出せないが、二度目がなかったことを考えると、傍から見て楽しそうではなかったのだろう。両親の愛情が妹へと注がれたのも無理はない』
『怒りは一番身近であるべき感情だ。犯人に対する怒り、未だに逮捕できない警察に対する怒り、面白おかしく記事を書き飛ばしたマスコミに対する怒り、同情する振りをしながら好奇の目で眺めて来た周囲に対する怒り。概念として理解はしているが、どれも感じたことはない。まるで無色透明な膜に覆われているかのようだ』
『肉親との不意の死別は最大の悲劇とされる。それで一切哀しみを覚えなかったのだから、この感情を追うのは無駄な気がしている。それとも積極的に愛情を育んだ相手であれば違うのだろうか? 例えば恋人のように』
絵里は無理やり文字から視線を引き剥がす。まるで引力を持っているかのように伊庭の文章は引き付けて来る。一度絡めとられると最後まで読み進めてしまう。
この先は危険だと身をもって知っている。それでも止められない。警察に提出すれば二度と目にすることは叶わないから。
ノートを発見したのはほんの偶然だ。忽然と消えた伊庭に戸惑い、百十番するか迷っている内に、本棚の奥に隠されるようにして仕舞われているノートを発見した。もしかしたら何か書置きがあるかもと思い、後ろめたさを感じながらも中身を確認した。そして気付けば鞄に押し込んでいた。
あまりにも衝撃的な内容に、直ぐには理解できなかった。今でも書かれていることの半分はちんぷんかんぷんだ。それでも伊庭が心底悩んでいたことだけは痛いほど伝わって来た。
相談して欲しかった。例え力になれなくても支えることは出来た。彼女なのだから。
しかし、そんな気持ちも読み進めていく内に薄れ、最後の頁に至り、なぜ伊庭が胸の内に秘めていたのかを悟った。
『久良凪絵里との関係性は熟した。肌を重ねれば後はもう残滓だ。ここらで果実を摘み取ってしまおう。問題は場所と方法だ。捕まるのは構わないが、可能な限り先送りしたい。その時間が長ければ長いほど真綿で首を絞められるような苦しみを味わえる。もしかしたら焦燥や恐怖を感じられるかもしれない。いや、忘れるな。それはあくまでも副産物だ。本命は恋人を手にかける罪悪感だ。これで何も感じなかったらお手上げだ。祈る神は持たないが、どうか感情を揺り起こしてくれ』
伊庭の温もりに身を委ね、幸せの絶頂だった。だけど、薄皮一枚隔て氷よりも冷たい血が流れていたのだ。そのことに微塵も気付かず、一人有頂天になっていた。それだけではない。一歩間違えれば今ごろ三途の川を渡っていた。
『刺殺、絞殺、撲殺、圧殺、落下死、いずれも一長一短だ。絞殺は抵抗されると面倒だ。撲殺は力加減が難しい。圧殺は方法がない。落下死は突き落す場所まで誘い出すのが厄介だ。そうなると必然的に刺殺が妥当か。風呂場なら血も洗い流せる。実行のタイミングは肌を重ねた直後でいいか。それとも、肉体関係を結んだことによる心境の変化を観察するため、少し時間を置くべきか』
伊庭は後者を選んだ。だから生きている。それだけだ。
絵里はノートを閉じる。
警察に証拠として提出するべきだ。これで犯罪が立証できるとは思わないが、失踪の手掛かりにはなる。
雨漏りが手の甲に零れる。
「変だな、晴れてるのに」
愛していた。たぶん、と枕詞につけなければならないぐらいあやふやにはなってしまったが。それでも燻っている何かがある。燃えカスだとしても、それが体を椅子に縛り付ける。
「ねぇちゃん、いるんだろ! 飯できたぜ」
「いま行く」
絵里は呪縛から解かれたように立ち上がると、ノートを手に瞬時迷い、鍵がかかる引き出しへと仕舞った。
「どこに隠れてようと見つけてやる。このノートで横っ面引っ叩いてやるんだから」
絵里は乱暴に目元を拭うと、家族が待つ食卓へと向かった。
――あるいは続くかもしれない物語――
ステンドグラスを通して射し込む極彩色の日差しを一身に浴び祈る姿は一幅の宗教画のようだ。しかし、いくら高名な画家でも法衣の少女が身に纏う静謐な熱狂まで封じ込めることは難しい。
「天上に御座します我が始祖よ、御身が遣わしました大いなる意思は恙無く降臨し、悪しき者達の手から逃れました。歪められた因果律を正し、穢れた大地をあるべき姿に浄化するための大いなる一歩であり、而して、名もなき神話の始まりであります。導き手たる吾の庇護の下、正しき道を歩めるようどうぞ見守ってください。そして願わくば大罪が罰となり彼の者達に降り注がんことを。吾等も全力を以って徒なす者達に報いる所存です」
胸の前で逆十字を切ると、少女は静かに「メメント」と口の中で唱え立ち上がる。
漆黒の法衣と対照的に髪も肌も何もかもが白い。それでいて瞳だけが燃えるように紅く光っている。
「シンシア様」
聖堂の大扉が開き初老の男が顔を覗かせる。
「間もなくお見えになられます」
「すぐ向かう」
シンシアと呼ばれた少女は先程まで跪き見上げていた始祖の像へと手を伸ばすと、軽く頬に触れる。
「おばあ様、その目にしっかりと焼き付けてくださいませ」
像は答えない。それでも、シンシアははっきりとその声を聞く。
像が流す血の涙を指先でそっと拭い、自らの伴侶となる者を迎えるため、シンシアは聖堂を後にした。