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序章~一章

――序章――


 重厚な黒檀の机が埃一つ付着していないことを誇るかのように鈍く輝く。地上でただ一人、机上を散らかす権利を有する人物はやおら書類から目を上げると、手振りで扉の両脇に控える従士に下がるよう命じた。

 最敬礼で従卒が退室すると、室内には部屋の主と書類を運んで来た中年の男だけが残された。

「俄かには信じられんな」

「同感です。しかし、全て符合します」

 立場上幼い頃より感情の発露は努めて抑制してきた。それでも溜息が漏れる。

「惰眠は人を堕落させる。国もまた同じというわけか」

「より深く眠るためには汗を流すことが不可欠となります」

 男が指摘する『汗』の内容に再度目を走らせる。到底受け入れ難いが、さりとて代案を示せるわけでもない。

 時間稼ぎにすらならないとわかっていながらも口にせずにはいられなかった。

「念を押すまでもないが、一切の誤謬は許されないぞ」

「内容には絶対の自信を持っております。いずれにしろ、それが原因でないのなら我々に打つ手は残されておりません」

「で、あろうな」 

 部屋の主は『極秘』と朱印が捺された書類を伏せ、壁の一面を占領している本棚へと歩み寄る。男の動きに合わせ、眠気を誘う穏やかな日差しとは裏腹に張りつめた空気が撹拌される。

 経済や魔導書、用兵術の専門書に混じり一際装丁の豪華な本が一画を占有している。

 その内の一冊を抜き取る。

『ルモーベル王国の歩み三』

 王家の紋章である飛竜が刻まれた表紙を捲ると、刊行時に玉座を占めていた王の署名が飛び込んで来た。長い年月により薄れてはいるが、字から受ける力強さは一切衰えてはいない。この頃はまだ戦火が絶えず、前線に立って指揮を執っていた。その緊張感が書体に滲み出ている。それも巻数を重ねる毎に徐々に薄れ、署名は単に正統な史書であるとお墨付きを与えるだけのものになり下がった。

 百年毎に上梓されるので次で丁度二十冊目だ。歴代の王に倣い、節目の一冊には己の署名が記されることになる。ギャリッチ・カイゼンバーグ・ルモーと。

 手にした本の重みに潰されそうになる。己の代で絶やしたとあっては父祖に顔向けできぬ。だからこそ、次の百年、千年、万年とこの国が続くために必要な決断を下さなくてはならない。それが例えどんな痛みを伴うことになるとしても。

 ルモーは歴史書を戻すと、再び溜息を吐いた。それは先程の懊悩と違い、胸の内に沈殿した迷いを吐き出すかのように細く長く続く。やがて全て吐き出すと、言葉を絞り出した。

「……手筈を整えるがいい」

「仰せのままに」

 男が慇懃に頷く。この者のことだから既に計画の一端には着手しているはずだ。

「人選が何よりも肝要だ」

「それに関しては記載した通り孤児を集めます。幸い時間だけはあるので、じっくりと吟味し最適な者を選びます」

 文字通り大陸中から搔き集めることだろう。

「名目は後継者か?」

「私が種なしなのは広く知れ渡っておりますので好都合です」

 笑っていいものかわからず曖昧に頷く。

「この件に関して全容を知るのは王と私だけとなります。万一どちらかに不測な事態が訪れた場合は単独でも貫徹するとの覚悟でいてください」

「お互い不幸なことよ。重責を担える者を生み出せなかったのだから」

 男は愛想笑い一つ浮かべず「全くです」と同意すると、机上の書類を回収し、寸暇を惜しむように踵を返した。その背に向かって思わず問いかける。

「……酷い父親だと思うか?」

「私は王が国父であることに感謝する者です。多くの民も同じ思いでしょう」

 非の打ち所のない返答を残し男が退室する。

 独り残されたルモーは窓辺に身を移す。

「国父か……」

 確かにこれ以上相応しい呼称はない。実の娘の血で国を贖おうというのだから。

 そのことを王として誇るべきなのか、あるいは父親として恥じるべきなのか判断がつかぬまま、舌に残った苦みだけが消えなかった。


――一章――


 召喚者。

 ――それはかつて混沌の地に平穏を齎した者。

 召喚者。

 ――それはかつて安寧を乱し世界の敵となった者。

 英雄か脅威か、真の姿はどちらであるか長らく論争の的となっていた。しかしそれもエル・フリージア教が封印を完成させるまでだ。封印に要する大量のマナを人柱ではなく魔宝石から抽出できるようになると、完全に過去のものとなった。今では召喚者の脅威を訴える者はおらず、百年に一度訪れるちょっとした催し物に成り下がっている。しかしそれはあくまでも世間一般の話であり、実際に封印に携わる者は別だ。初陣に臨む兵士のような高揚感と不安に苛まれ、緊張から顔を青くしたり赤くしたりしている。

 第八回封印選抜隊に選ばれた総勢八十名のエル・フリージア正教学園の生徒もご多分に漏れず、極一部を除き一様に強張った面持ちで寄宿舎前の広場に集まっている。もしここに俯瞰的な視点からこの一団を観察した者がいたなら集団を隔てる不可視の壁に気付いたことだろう。

 まずは中央に大きな壁があり左右を隔てている。すなわち、この大陸の根幹をなす身分差だ。本来ならば学園の門戸は上流階級の子息のみにしか開かれていない。しかし、百年に一度、召喚者が出現する時期に合わせ、特別に優秀な平民の入学を認めている。卒業すれば近衛騎士や宮廷魔術師など中産階級では望むべくもない職に就くことも夢ではない。そのため、狭き門を潜り抜けようと大陸中から優秀な子弟が押し掛けて来る。そうして入学を許された三百名から更に篩に掛けられ、五十名が封印に携わる一員として選ばれる。謂わば精鋭中の精鋭だ。なのに平民出身者はどこか肩身が狭そうに身を寄せ合っており、ゆったりと空間を使っているもう一方の集団と対をなしている。

 一塊となっている平民と異なり、上流階級出身者は大きく分けて三つの群団を形成している。すなわち、ルモーベル王国、ヴァルミラ連合にボイゾ帝国だ。大陸を三分する強国は付かず離れずの距離を保ちながらお互いを牽制するように睨み合っている。家督を継いだ者がおらずとも王宮の夜会で繰り広げられるのと全く同じ光景が再現される。家格が高い者が中心となり派閥が作られ、虚礼と阿諛追従に塗れた欺瞞が夏の羽虫よりも煩く飛び交う。

「今日は一段と御召し物が素敵ですわね」

「封印が成功した暁には盛大な祝宴を開く予定です。是非お越し下さい」

「今日のために特別に家宝を拝借してきました。ほら、この魔宝石、わかります? 紅石ですよ」

「領地に戻ってもここでの縁を大切にしたいと思います。友は一生ものですから」

 いずれも空虚で打算的な言葉だ。そうとわかっていても、目前で展開される華やかな世界に平民出身者は増々肩身を狭くする。その様子に勢い付き上流階級の声音が一段と高くなる。

 三年間一つ屋根の下で学んだからといって溝が埋まるはずもない。むしろ身分によって厳密に分けられた宿舎や制服などが一層差別を助長した。生まれに関わらず手を取り合い協力して封印を行うべきとの戒めは形骸化し、平民出身者は下僕のように扱われている。

「何のための三年間なのか、この日のために流した血と汗と涙を忘れてはなりません」

 平民の中心となり束ねている青年が、卑屈と怨嗟で濁りかかった同級生の目を覚ますべく励ます。

「志なき道に道理なし。眼を曇らせずに行きましょう」

「はい!」

 はっしとした返事に満面の笑みで頷く。異性だけでなく思わず同性すらも顔を赤らめてしまうほど魅力に溢れたものだ。彼が人を惹き付ける太陽だとすれば、隣で冷たい一瞥を投げかける少女は月だ。社交性の全てを双子の兄に委ねたかのように無口だが、一度口を開けば鋭い舌鋒で人を刺す。幼い頃に負った火傷の跡を隠すため両手に巻いた包帯が痛々しいが、それが儚い雰囲気に拍車をかけ、平民の間だけでなく貴族の中にも彼女に懸想している者がいるほどだ。

 平民の中心がガーニッヒ・ルシュタントとゾディア・ルシュタント兄妹だとすれば、貴族の中心はフィルランディ・フィリップ・マクナイトとリック・ヤノファーブにリエール・カミンスキー・ルモーの三人だ。それぞれがボイゾ帝国、ヴァルミラ連合、ルモーベル王国を代表する名家である。

 エル・フリージア正教学園がいくら格調高いとはいえ、流石にこれ程の家柄が一堂に集うことは滅多にない。世間では遠足などと揶揄されるが、召喚者の封印は貴族の子弟が名を揚げるまたとない機会となっている。仮初の平和がいつしか根付き、戦火の絶えて久しい世界では、叙任式で抜刀した以外に生涯再び剣を抜かずに墓に入る者が大半なのだ。血気盛んな若者が親に請い入学を希望したとしても不思議ではない。あるいは親の方から強く勧めることもある。封印の年代は一際高い家格の子息が集まるので良縁目的で娘を送り込む親も少なくない。

 だが、流石に容姿に優れているとの理由だけで封印の一員には選ばれない。平民と同じく、この広場に集まっているのは選りすぐりの精鋭だ。

 生まれながらの帝王学の賜物か、家柄と能力の高さはほぼ比例している。特に優れているのは中心をなす三名であり、その中でもルモーベル王国の第一皇女であるリエールは頭一つ抜き出た才を誇る。扱える魔法の種類、正確無比な術式、優雅でいて凛とした所作、女神の生き写しと言われる美貌、そのうえ誰に対しても分け隔てなく慈しみに溢れている。必然的に彼女の周りには人が集まり、今も囲まれている。

 リエールは会釈を返しながら目敏く集団から外れている人影を見つけると、そちらに歩み寄った。

「昨夜はよく眠れたかしら?」

「別に、あんたのように大役を果たすわけではないから」

 封印を司る巫女であるリエールは役目を果たすまで世俗と縁を切っている。しかし、それはあくまでも建前であり、誰もが彼女をルモーベル王国の第一皇女として扱う。唯一の例外が、辛うじて貴族の末席に加えられているロロド・ド・ホローだけだ。没落貴族と揶揄される通り服装は平民と大差なく、髪も櫛が通っておらずぼさぼさだ。片眼鏡をつけた右目だけが前髪の間から覗き、どこか憮然と世間を眺めている。

「何言ってるの。成否の鍵を握っているのは貴女よ。私達では挨拶すら交わせないのだから」

「言葉なんて飾り。一番よくわかっているでしょ」

 痛烈な皮肉にリエールは思わず吹き出してしまう。だがその笑みも、「またあんな生意気な口きいて」「皇女様のお心遣いに甘えてみっともないったらありゃしない」「通訳だからって無条件で選ばれていいご身分ね」「だから勘違いしてるんじゃない」「言えてる。そもそも役立つのかしら?」と、悪口雑言が礫のように飛んでくると引っ込んだ。

 リエールが叱責のために振り返るよりも早く、ホローが身を翻した。

「あっ」

 小さな背中が遠ざかる。呼び止められないのは周囲の目が気になるからではない。安易に踏み込むことを許さぬ厳しさを感じるからだ。まるで光すら届かぬ闇のように。

 リエールは溜息を吐くと、封印が成功した暁にはと己に言い聞かせ、求められる役割を演じるべく皇女の仮面を被り直した。


 士気を挫くため故意に冗長にしたのかと疑いたくなるほど出立の儀は退屈だった。学園長の挨拶に始まり、来賓の言葉に、理事長の祝辞と続き、封印に使用する魔宝石の授与と、一週間の旅を支える物資の贈呈が行われた。最後は学園の象徴である等身大の始祖の像に讃美歌を捧げ、ようやく出立となった。当初の予定から大幅に遅れ、学園の敷地を出る頃には日が中天まで昇っていた。

 余裕を持った旅程を組んでいる。だから焦る必要はない。それでも遅れを取り戻そうと自然と足が速まる。ここから徒歩で三日かけ北のカランダッハの村を目指す。途中で国境を超えるが、越境特権を与えられているので面倒な手続きや検問に煩わされることはない。それだけが唯一の救いだ。

 エル・フリージア正教学園は何度か場所を移し今の地に落ち着いた。毎年生徒を迎え入れるので街道だけは整備されているが、最寄りの街まで馬車で一日かかる。徒歩なら優に倍は見なくてはならない。

 本来であれば利便性を考慮し大都市に校舎を設けるべきだ。実際始めはルモーベル王国の首都でひっそりと運営されていたと聞く。だが、規模が大きくなるにつれ手狭となり何度か引っ越しを繰り返した。その度に少しずつ郊外に移り、更には封印との一大行事を担うようになると独立性が取り沙汰されるようになった。万に一つでも教団が三大国家のどこかに肩入れし均衡を崩すようなことがあってはならないとの理屈だ。すったもんだの挙句、三大国家の首都から均等に離れているとの理由で、大陸の臍とも呼べる僻地に学園を移築したのだ。何もない荒野の真中に自宅から通える生徒がいるわけもなく、全寮制となり、現在の土台が作られた。

 快適な実家を離れ不便な寮生活に不平を述べる者もいたが、息が詰まる王宮住まいに比べ天国だった。着替えを手伝う待女もいなければ、沐浴に付きそう端女もいない。始めて自分の時間を持てた気がする。

 それもこれで終わりだ。

 またあの灰色の鳥籠に戻らなければならない。

 リエールは小さく頭を振る。

 ようやく出発したばかりだというのに、もう成功した気でいる。封印の危険性は限りなく低いとはいえ、それでも何が起こるかはわからないのだ。気を緩めるべきではない。

 己を叱咤し、再度計画を見直す。

 カランダッハ村に着いたら荷物を解き一夜を明かす。翌朝、地元民が「黄昏の森」と呼ぶ森の中心を目指す。その名の通り、鬱蒼と茂った木々により常に薄暗い。幸い肉食獣などは生息しておらず害獣の危険はない。精々が毒茸に触れて炎症するぐらいだ。

 村から一刻も掛からず門の出現場所には着ける。出現予想時刻は正午なので、万一迷ったとしても、早朝に発てば十分間に合う。何があるかわらないので、物資は多めに携行しておくべきだろう。

 照り付ける日差しに喉の渇きを覚えると、その様子を機敏に察し、小走りで少女が駆け寄って来た。

「ど、どうぞ」

「ありがとう」

 柔らかく微笑み差し出された水筒を受け取る。魔宝石を利用し保冷されているので、井戸から汲み上げたばかりかのように冷えている。

「貴方もどう?」

「い、いえ、滅相もございません」

「ごめんなさい、飲みかけを勧めるなんて失礼だったわね」

「そんなことはありません! 私のような下々にまでお恵みを下さり至極恐悦です」

 平民の出身者とは一事が万事この調子だ。これではまともに会話が成立しない。入学当初は慣れていないためかと思ったが、結局三年間経っても変わらなかった。むしろ悪化しているかもしれない。その一因は、横暴な貴族の振る舞いが彼等を委縮させてしまったからだ。この分では水筒を自分で持ちたいと言ったら却って迷惑をかけるだろう。雑事を彼らに押し付けるのは居心地が悪いが、もとよりそれを見越して人数が割り振られている。

 平民が貴族の倍近く配置されているのは彼等が一手に雑用を担っているからだ。荷物の運搬から野営の準備まで実に細々と働く。他の者のように、その献身を当たり前だとは見做したくない。ただリエールの立場上、異を唱えるわけにもいかない。特に今は各地で特権階級への抗議が盛んになり、一部は先鋭化し破壊工作も厭わない有様だ。庶民に配慮した発言は後々問題視されかねない。王宮や夜会だけでなく政は何処までもついて回る。まるで靴底にへばりついた飴のようだ。

 リエールが水筒を返すと、少女はほっとした表情を浮かべ持ち場に戻った。

「お気持ち察します」

 いつの間にか一歩下がった位置にガーニッヒ・ルシュタントが影のように寄り添っていた。平民の代表であり、貴族との調整役も担っている青年は、必要とあれば老練な執事のように存在を消すことが出来る。

「この度は多大なるご支援痛み入ります」

「それは一生徒のお礼としては些か大袈裟かと。それに私はルシュタントの姓を名乗ってはおりますが、まだ正式に迎え入れられたわけではありません」

「ふふふ、相変わらず生真面目ですね」

 天幕から小麦一粒に至るまで物資はルシュタント商会から提供されたものだ。

 大陸一の富豪と実しやかに囁かれるルシュタント商会の歴史は三百年前に魔宝石が発掘された頃にまで遡る。いち早く魔宝石の有用性に気付いた初代が採掘権と運搬で富を築き、ルモーベル王国御用達のお抱え商人となると販売にまで手を広げた。それからは黄金が自ら意思を持っているかのように積み上がっていった。

 ルシュタント家は並の貴族では足下にも及ばない権勢を誇る。養子とはいえガーニッヒが望めば貴族枠での入学も可能であった。なのに、この兄妹は平民として受験し、見事狭き門を潜り抜けた。当初こそ裏口入学だと陰口を叩く者もいたが、その圧倒的な実力を前に口を噤まざるを得なくなった。

「斥候の報告では夜営地まで脅威は認められないとのことです」

「そうですか、ありがとうございます」

「礼は不要かと。彼らは役目を果たしただけですので」

「あら? 皇女としてならそうでしょうけど、一生徒なら同級生の働きを労ったとしても不自然じゃないんじゃない」

 背後のガーニッヒが苦笑したのが気配で伝わってくる。滅多に裏をかけぬ相手なだけに立ち合いで一本取ったような爽快感を覚える。

「そうでした、失礼しました。では。彼等にもお言葉をお伝えします」

「よろしくお願いします」

 現れた時と同じく音もなく立ち去る。その手際の鮮やかさに、これまでも何度か芽生えた疑問が脳裏を掠める。

 何故ルシュタント兄妹は平民として入学したのだろうか?

 それらしい答えなら幾つか思い浮かぶ。

 貴族の反感を恐れた。

 己の力を試したかった。

 平民の有力者と昵懇となりたかった。

 どれもありそうだ。それでいて、いずれもしっくりとこない。平民でなければならない理由の決定打としては弱い。あるいは単なる気紛れなのだろうか?

「案外とそうなのかも」

 実力もだが、内面もルシュタント兄妹は底が見えない。だから変に勘繰ってしまう。

「っと、駄目ね」

 今は封印に集中すべきだ。雑念を振り払うと、リエールは先を見透かすように埃っぽい街道を見据えた。もしこの時、答えに辿り着いていれば運命は大きく変わっただろう。だが、もうもうと立ち込める土煙でついぞ先は見通せなかった。


 予定通りカランダッハの村には学園を出立してから三日後の正午に着いた。召喚者の出現場所は機密扱いのため、村には直前まで知らされず、先ほど急報を齎された村長が目を白黒させている。

「突然このような大所帯で押し掛け恐縮です」

 リエールは名乗った上で丁寧に挨拶する。

「い、いえ、こんな田舎にお越しくださり何と言っていいか。すぐに歓待の準備をしますので」

「お気持ちだけで結構です。皆様のお邪魔にならないよう村外れに天幕を張らせて頂ければ十分です」

「ええ、もちろんです。すぐに村の者を集めます」

「それには及びません。何事も独力で行うことになっておりますので」

「そ、そうなんですね」

 村長が落ち着かなげに薄くなりかけた頭髪を頻りに掻き分ける。

「あ、あの、召喚者が近くに居るのでしょうか?」

「門が開くのはこれからです。ですが心配はいりません」

「そうですか……」

 返事とは裏腹に目が泳いでいる。

 封印の手法が確立して以来、召喚者の脅威は著しく減衰した。仮に封印が失敗したとしても、魔宝石の転用により各国の軍事力が跳ね上がっていることを考えれば、最小限の被害で制圧可能だ。

 これが世間の常識だと思っていたが、村長の様子から、召喚者に対して不安を抱いている人はまだまだいるようだ。あるいは遠くの嵐であれば気にならないが、足元の洪水は心配になるのと一緒だろうか。

 リエールは朗らかにほほ笑むと、努めて明るい調子で励ます。

「門が開く地点は村から離れております。何よりも私たちは三年間このために準備してきました。安心して任せてください」

「まさかとは思うが、私たちの能力に疑念を抱いているなんてことはないですよね? それがどういった意味を持つかはさすがにこんなド田舎に住んでてもわかるでしょ」

 リエールは横から口を挿んで来たヤノファーブを思わず睨みつける。ヴァルミラ連合の副代表の次男であり、魔宝石からマナを引き出す能力に長け、地位に相応しい実力を備えているが、人格者とは口が裂けても言えない。皮肉な物言いで周囲を小ばかにした言動が目立ち、特に平民を見下している。ヤノファーブに目を付けられ学園を去った者は片手では足らない。

「そ、そ、そんな滅相もありません。何かあればお申し付けください」

 村長が逃げるようにして立ち去る。

「姫様が博愛主義者なのは存じておりますが少し度が過ぎるのではないですか?」

「村人に反感を持たれてはやりにくくなると思っただけです」

「その時は何人か刀の錆にすればいい」

 抜身の刀身を彷彿とさせる鋭い口上はボイゾ帝国宰相の長男であるマクナイトによるものだ。肌身離さず魔宝石の嵌め込まれた細身の刀を佩刀しており、不用意にその柄に触れた者の腕を斬り落としたことがある。魔法剣の腕は折り紙付きで国でも十指に入るとのことだが、人間性は最底辺を這い蹲っている。

 何故こうも欠落した人物が人の上に立っているのか頭が痛くなってくる。だが、リエールはそんなことおくびにも出さず無表情を貫くと、早朝に出立する旨を伝え離れた。

 二人の姿が視界から消えると人知れずため息を吐く。暴力的な手法に賛同はしないが、身分差撤廃を求める過激派の気持ちがわからなくもない。

「兄様から伝言、『全て予定通り。明日に備え寝つけないようなら睡眠導入剤を処方する』とのこと」

 背後から急に声をかけられリエールは小さく飛び上がった。そんなこちらの様子にお構いなく、言いたいことだけ言うと、ゾディア・ルシュタントは音もなく身を翻した。その後ろ姿は兄であるガーニッヒにそっくりだ。

 リエールにも弟と妹がいる。だが、ルシュタント兄妹ほど似ていない。弟と妹は金髪だが自分は明るい赤髪だ。垂れ目と釣り目の違いもある。そのせいで目つきが鋭いと勘違いされ、入学当初は必要以上に怖がられたものだ。母である王妃が不貞を働くわけないのだから血の繋がりは疑いもないが、子供心に不安を感じたものだ。

 リエールは頭を振ると、胸元に垂らしている紅玉に触れた。出立の式典の際に授与されたこの魔宝石こそが五十年に一度出土するかどうかという最高純度の結晶だ。秘められたマナの量は莫大であり、保有数がそのまま国力に置き換えられる。あまりにも貴重なため個人での所有は禁じられており、違反すれば即座に死罪に処される。

 極論すれば、封印とは紅玉からマナを引き出し、それを召喚者にぶつける行為に他ならない。それにより召喚者と異世界のつながりを塞ぎ、魔法を使えなくするのだ。その通り道を探れるのはルモー家の血筋を引いた女性だけであり、封印は王家に生まれた長女の責務だ。

 無意識に紅玉を握る指先に力が籠る。

 まだ誰にも胸の内を明かしていないが、明日の本番でこれを使うつもりはない。惜しいからではなく、人道的見地から不要だと考えた。

 召喚者を脅威と見做し、一方的に力を奪い、人里離れた辺境に押し込めることのどこに正義があると言うのか。彼らは自らの意思でこの地を訪れたわけではない。未だに負の遺産を清算できず、門が開いているがため、運悪く呼ばれてしまったのだ。それを棚に上げ、命を奪わないだけましだろと宣う気にはなれない。こんな横暴が許されているから、いつまで経っても人権意識が芽生えず、差別が罷り通っているのだ。幸い今回の封印の一団には将来の国の指導者層が多く参加している。彼らの意識を変え、差別のない世界を目指す。それこそがリエールの真の目的だ。

 封印の巫女が責務を果たさぬなど前代未聞だ。どんな懲罰が下るか想像もつかない。最悪絞首刑もあり得る。それでも世界を変えられるなら臆するべきではない。どれぐらいの人が耳を貸してくれるかわからないが、喉が嗄れるまで叫び続けるべきだ。

 出来ることなら通訳のロロド・ド・ホローには事前に打ち明けたかった。皆を説得できたとしても召喚者に話が通じなくては元も子もない。こちらの意図を細大漏らさず伝えてもらう必要がある。そのため彼女と親しくなろうと努力してきた。入学当初は目も合わせてくれなかったが、なんとか挨拶を交わす程度にはなった。しかし、友と呼ぶには程遠い。そもそもホローが誰かと親しく言葉を交わしているのを見たことがない。いつも独りで我関せずとの態度だ。それは相手が貴族だろうが平民だろうが変わらない。そこだけ切り取ればヤノファーブやマクナイトのような差別主義者とは一線を画していることになる。

(だからといって協力的とは限らないか)

 打ち明けた際の利点と危険性を天秤にかけ、秤の傾きを見極められずにここまで来てしまった。

 これが最後の機会かもしれないとホローの姿を探すも、天幕の完成を知らせるホラ貝が鳴り響いた。魔の悪さに眉をしかめつつも、どこか安堵した様子で本部となる天幕に足を向けた。


 何度目かわからぬ寝返りを打つ。寝苦しさの原因など考えずともわかる。目を瞑れば明日のことばかり思い浮かぶ。

 結局あの後もホローとは話せなかった。こうなってはぶっつけ本番でいくしかない。そう割り切ったはずなのに、まだ何か出来ることがあるのではと落ち着かない。

 リエールは薄い毛布を撥ね退けると、魔宝石を利用した簡易的な照明器具を灯した。貴族でも天幕を独占できているのは一握りだ。立場上遠慮するわけにもいかず承諾したが、今夜ばかりは助かった。

「様子を見るだけだから」

 誰がいるわけでもないのに言い訳がましく呟き、寝巻の上に外套を羽織る。村はすっかり寝静まっており静寂が耳に痛い。そのしじまを乱さぬよう忍び足で夜露に濡れた草を踏みしめる。

 月光が明るく照らすので手元に灯りがなくとも不便はない。

 夜空を見上げると中天に丸い月が二つ合わせ鏡のように浮かんでいる。その内の一つが人の手により作られたものだとは俄かに信じ難い。だが、僅かに蒼味がかった方こそ、二千年前に大魔導士クイーナが門を開くのに使用した残骸だ。これまでの研究で、それが貯蔵庫としての役目を果たしており、百年周期で門を開くに足るマナを放出することまでは突き止められている。だが、具体的な仕組みは解明されておらず、根本的な解決にはまだまだ時間がかかる。それまでは対処療法的に召喚者を封じるしかない。

 不意にリエールは足を止めた。風に運ばれ話し声が聞こえた気がしたのだ。同じように眠れぬ夜を過ごしている者がいたとしても不思議ではない。コソコソする必要はないのだが、なんだか摘まみ食いを見咎められた子供のような心持ちとなり、咄嗟に茂みに身を隠した。

 首を伸ばし闇を透かし見ると、目的の天幕の前で人影が揺れた。こんな時間に来訪者がいるとは思えないので、外の空気を吸うなどしていたのだろう。一人部屋なのでそこら辺は気兼ねがない。表向きは通訳の任に集中するためとの体裁を取っているが、実際は彼女と同室になりたがる者がおらず、仕方なく余っていたのを宛がわれたのだ。そのため他の天幕から少し離れた場所にぽつんと建っている。

 まだ床に就いてないのなら好都合だ。眠れぬ夜を語り明かせばぐっと距離が縮まるかもしれない。リエールが身を起しかけると、今度ははっきりと影が重なるのが見えた。

 二つの影が一つに溶けあったのはほんの数秒だ。短い言葉が交わされ、ホローが天幕に戻ると、残された人影が踵を返した。

 月明かりに照らされたその姿に心臓が早鐘を打つ。気配を悟られぬよう息を殺し足音が遠ざかるのを待つ。

「はぁはぁはぁはぁはぁ」

 胸に溜めていた空気を吐き出し肩で息をする。まるで全力疾走したかのようだ。何故こんなにも動揺しているのか自分でも見当がつかない。ただ、ホローとガーニッヒの逢瀬はそれほどまで衝撃的だった。

 全く気付かなかった。二人に接点はなく、話している場面すら記憶にない。それだけ注意深く隠していたということだ。道ならぬ恋なので当然の配慮だが、見抜けなかった自分が馬鹿みたいだ。

 想像の中で先程の重なった影を己に置き換えてみるも上手くいかない。王家の皇女が平民と添い遂げるなど夢のまた夢だ。封印があるから猶予を与えられているに過ぎない。本来ならとっくに輿入れしている。

 どす黒い靄のようなものが湧き上がって来る。同じ重責を背負っているはずだ。なのに彼女は自分が幾ら手を伸ばしても届かぬものを掴んでいる。もしかしたら子爵家の三女であるホローであればルシュタントへの降嫁すら可能かもしれない。

 片や雁字搦めに縛られ、もう一方はその気になれば自由を掴み取れる。それもガーニッヒからの愛を一身に受け。

「……不公平よ」

 思わず口をついて出た言葉で自分の中に芽生えた感情の正体に気付いた。それを直視したくなくてホローの天幕から視線を外すも、濃い闇が醜さを余計に浮き上がらせる。

 誰かを妬むことなど、これまでも、そしてこれからもないと思っていた。それが如何に思い上がりか今ならわかる。封印を押し付けられた義務ではなく果たすべき使命だと捉え懸命に努力して来た。しかし、それも結局は遂行せずに終わる。皮肉なことに、それにより単に事後処理でしかなかった通訳の重要性が格段に増す。ホローが成功の鍵を握っていると言っても過言ではない。

 まだ誰にも打ち明けていない。このまま黙っていればちっぽけな矜持は守られる。迷いを断ち切れぬからこそ、未だに胸に秘めているのだ。本気ならとっくにガーニッヒに相談している。だから強がるのは止め、自分に正直になるべきだ。

 何度となく黙殺して来た囁きが一際大きく反響する。

 行動と結果が釣り合わないことはわかっている。召喚者を人間扱いしたところで世界が変わらないのも重々承知だ。

「それでも……」

 世界のためなど所詮は自己満足の欺瞞だ。言葉を全て剥ぎ取った跡に残る本能が、誰かの犠牲の上に成り立つ世界に加担したくないと叫んでいる。ただそれだけだ。

「ははは」

 初心を思い出し、余りの簡潔さに思わず笑ってしまう。

 リエールは睨み据えていた闇から視線を逸らし、来た道を引き返す。

 この決断について後世の歴史家はしたり顔で講釈を垂れるだろう。好きに論じさせればいい。ただ一つだけはっきりしているのは、友人と一晩語り明かすとの機会が永遠に失われたことだけだ。


 名前の通り黄昏の森は薄暗くひんやりとしていた。植生も黒や茶など地味な色合いが中心で代り映えのしない景観が続く。時たま野鳥がさえずるも、その声もどことなく陰影を帯びており湿っぽい。地元民が滅多に近付かぬ理由が何となくわかる。総じて好んで足を踏み入れたい場所ではない。

 リエールを中心とした貴族を挟む形で平民が前後に展開している。先行部隊が藪を漕ぎながら道を均し、後方の人員が物資の運搬を担う。道を切り拓くのも大変な労力だが、少ない人員で全員の荷物を運ばなければならない荷役も同様に過酷だ。森には馬車を乗り入れられないので、大型の頭陀袋を背負うようにして運んでいる。マクナイトのように一部例外もいるが、大半の者は武器も預けているため、一際嵩張っている。せめて帯刀はさせようかと思ったが、貴族の中には着慣れない甲冑を身につけている者も多く、進軍するだけでへばっている有様だ。途中で倒れられては元も子もないので目を瞑っている。

 一生に一度の晴れ舞台として着飾った貴族に比べ、平民の方は質実剛健だ。革の胸当てや鎖帷子など軽装の者が多い。得物も過度に華美だったりはせず、実用本位で選ばれている。

 本当ならリエールも虚飾を排した格好としたかったのだが、立場上そうもいかず、やたらと宝石が散りばめられた甲冑を着込んでいる。せめてもの救いは見た目に反して軽いことぐらいだ。

 ここまでは順調だ。あと半刻もしない内に森の中心に着く。門が開くまで一刻程度の猶予があるので所信表明を行う時間は十分ある。

 賛同が得られるとは思っていない。大半の貴族が拒否感を示し、平民の間でも賛否が分かれるだろう。それでも何名かには届くはずだ。例えば――

「少しは肩の力を抜いたら」

「生憎こっちは遠足気分じゃないので」

 万一に備えリエールの周囲には手練れの生徒が配置されている。その内の一人であるミリミラ・デネ・ランダの取り付く島もない返答に苦笑する。

 長かった髪をバッサリと耳にかかるぐらいまで切り、まるで男装の麗人のようだ。切れ長の目は眼光鋭く、獲物を射すくめる狩人を彷彿とさせる。ボイゾ帝国の出身らしく武器の扱いに長け一通りの得物を使いこなすが、最も手に馴染んでいるのは家宝である両刃の槍だ。細腕に似合わず軽々と長尺の得物を振り回し、熊ですら一刀両断にすると囁かれている。嵌め込まれた魔宝石の恩恵を得ているとはいえ、そこまで習熟するのは並大抵の努力ではない。マクナイトに次ぐ実力者と噂されるのも頷ける。惜しむらくは、完全なる父系制社会であるボイゾ帝国にあって、女性では幾ら実力が備わっていようが家庭に入るしかないことだ。

 ミリミラも学園を卒業したら輿入れすることになっていただろう。あの不祥事が起こるまでは。

 他国の御家騒動にもかかわらず、特段耳を欹てずとも様々な噂が舞い込んで来た。それだけ社交界に激震が走ったのだ。

 ミリミラの兄であるランダ家の長男が縁談を一方的に破棄し、恋人と手を取り合って心中した。これが愛に生きる美談とならなかったのには理由がある。伯爵であるランダ家に対し、縁談相手は家格が上の侯爵家だった。しかもボイゾ帝国の重鎮として名高い名家だ。そこの主人がミリミラの兄の人柄と能力を高く買い、特別に娘の嫁入りを決めたのだ。それを無下にも反故にしたのだから顔に泥を塗ったことになる。更に悪いことに、ミリミラの兄と黄泉路を共にしたのは彼の乳母であり、家庭を持っている中年の平民の女だった。それを知った侯爵の娘が怒髪、天を衝き、何が何でもランダ家を取り潰すべく父に掛け合った。年頃の娘の虚栄心と派閥の思惑が絡まり、ランダ家は爵位を奪われ領地から追われることとなった。その裁決が下される前にミリミラの参画は決まっていたので、特に変更なく封印には帯同している。

 ミリミラは一切事件について言及しない。それでも、外見の変化や、荒っぽい男言葉への転換を見れば何を考えているかは一目瞭然だ。彼女は自分が跡継ぎとなり、家を再興するつもりなのだ。

 ミリミラならば貴族と平民の垣根をなくすことに賛同してくれるかもしれない。他にも貴族でありながら中立的な立場を貫く者が少数ながらいる。彼らが行動を起こす切っ掛けとなるなら身を賭してでも主張する価値はある。

「見えてきました。あそこが出現予定地です」

 地図と地形を見比べていた先発隊の言葉通り、ぽっかりと開けた空間に出た。

 歪な円形の広場には人の頭部大の岩を積み上げた祭壇と思わしき物が備えられている。苔むしているさまから打ち捨てられかなりの年月が経っているようだ。大昔に密教の集会にでも利用されていたのかもしれない。

「ふむ、舞台としては些か映えませんが致し方ないですね」

 ヤノファーブがぐるりと首を巡らす。

「花でも敷き詰めたらどうだ」

「あいにく主役の座は譲ってるのでね」

 ヤノファーブとマクナイトだけでなく皆の視線が集まる。その機会を逃さずリエールは祭壇を演台代わりにし声を張り上げた。

「無事に着いて気が抜けた方もいるかもしれませんね。それも無理はありません。過去八百年に亘り封印は一度として失敗したことは無いのですから。今回も成功は約束されたも同然です」

 拍手が湧き起こる。誰もが勝利を確信し酔っているかと思ったが、浮かれているのは貴族だけであり平民はどこか緊張した面持ちだ。

「封印は取りも直さず魔宝石の発展の歴史でもあります。当初は数多の人身御供を捧げようやく成っていた封印が、魔宝石からマナを抽出することにより、犠牲なく行えるまでになりました」

 リエールが胸元の紅玉を視線の高さに掲げると再び拍手が湧く。

「紅玉は貴重です。ですが人の命には代えられません。そう判断したからこそ、今の形に落ち着きました」

 紅玉に代替された理由はそれだけではない。魔宝石の研究が進み軍事転用されだすと、必然的に産出国であるルモーベル王国の力が強まった。それに危機感を抱いたヴァルミラ連合とボイゾ帝国が相手の国力を少しでも削ぐために紅玉での代替を強硬に主張したのだ。

 そんなことはおくびにも出さずにリエールは建前だけの綺麗事を並べる。

「かように人命とは紅玉よりも重いのです。翻ってどうでしょうか? 召喚者が私達と同じ人間であることは過去の研究で証明されています。なのに一方的に危険であると見做し、対話を試みることなく封じ込め、辺境に押し込めてしまっている。突如縁も所縁もない異世界に放り出された彼らは孤独と無為な生活に精神を病み、自ら命を絶ってしまうことも珍しくありません。我々と文化的背景を異にするが故に、彼らの知識は社会の発展に大きく寄与する可能性があります。そういった人物の翼を毟り取る行為は愚行と言えないでしょうか?」

 リエールは一息入れ言葉が浸透するのを待つ。

 小波のように動揺が伝播する。中でも一番狼狽えているのは自国の一団だ。何の前触れもなくこのような爆弾発言が飛び出れば無理もない。それ以外にも、ヤノファーブとマクナイトを筆頭に、こちらの真意を推し量ろうとする鋭い視線が飛んで来る。

「召喚者の中には力に溺れ害をなす者がいるのも事実です。だからと言って十把一絡げにして許されるはずはありません。お互いの立場を認め、歩み寄ることこそが求められているのです。そのためには何よりも対話が重要です。これはなにも召喚者との話だけではありません。貴族と平民だって同じです。横たわる溝は言葉でしか埋められません。召喚者に人権を認めることこそが、この世界から差別をなくす第一歩だと信じています。ですから私は封印を行いません。少なくとも今回の召喚者が脅威だと認められるまでは」

 リエールの宣言に水を打ったように静まる。

 当惑、混乱、狼狽、憤怒、諦観、驚愕、様々な感情が渦巻き誰一人として声を上げられない。散逸した情緒を纏め上げ行動指針として示せるほど強力な指導力を備えた者はおらず、お互いの顔色を窺っている。

 その隙を逃さず一気に畳みかけようとした刹那、拍手に出鼻を挫かれた。

 淡々とした調子だ。熱狂的なわけでもなく、かといって気が抜けているわけでもない。この場で注目を集めるに足る最低限の力加減を弁えた叩き方だ。

 人波が左右に割れ、ホローが姿を現す。

 彼女の協力は不可欠だ。だけど、どうしても昨夜の場面が脳裏にちらついてしまう。だから、なるべくなら顔を合わせたくはなかった。それが子供の我儘であり、醜い嫉妬だとはわかっている。ただ、己の中に芽生えた感情を処理するのにもう少し時間が欲しかった。

「素晴らしい」

 いつもの抑揚の乏しい喋り方とは正反対だ。足取りも力強く、表情も溌剌としている。

 つくづく運命とは皮肉だ。事前に打ち明けていればホローは喜んで協力してくれただろう。そうすれば友人として祝福できたかもしれない。

 考えても栓無いことだ。リエールは小さく頭を振ると、ホローに手を貸し、祭壇の上で向かい合った。

「賛同してくれて嬉しいわ」

「ええ、本当に。何か考えているとは思った。それが、まさか封印の放棄だとは思わなかったけど」

「召喚者の人なりを知ることが何よりも大事になるわ。だから、あなたには――」

 ホローが言葉を遮るように手を掲げる。

「誤解のないように確認したいの。この腐った世界を変えるための第一歩が召喚者の人権を尊重すること。それで間違いないわね?」

「腐っているかどうかは私にはわかりません。ただ何かが間違っているのは確かです。それを正すためには将来の指導者が多数立ち会っているこの場から変えていかなければなりません」

 ホローが薄く微笑む。

「そう、よくわかった。……何もわかってないってことが」

「どういう意味ですか?」

 思わず気色ばむ。

「脳天をかち割ったらさぞかし綺麗なお花畑が咲いてるのでしょうね。自らの努力で得たわけでもない血筋を誇るしか能がなく、ちっぽけな優越感を満たすことに汲々としている骨の髄まで腐った連中が、あんたの我儘に付き合っただけで変わるとか何の冗談?」

「人は変われます。その可能性を否定したら何も出来ません」

「変える方法はあるわよ。一つだけ」

 ホローが蓮っ葉に人差し指を曲げ手招きする。これまで見たことのない彼女の一面に戸惑いつつも上体を傾けると、耳に熱い吐息がかかった。

「……覗くような悪い娘には教えてあげられない」

 左胸に鋭い痛みが走り思わずよろめく。

 胸を押さえた指の隙間から零れる赤い雫に呆然とする。対峙するホローの手に握られた短刀から血が滴っていなければ、何が起こったのかわからなかっただろう。

 焼け付くような心臓の痛みが拡散し、夢と現の境界が急速に曖昧になる。どこか遠い所で悲鳴が木霊し、霞む視界に飛び散る血飛沫が映る。辛うじて華美な装飾が質素な群衆に打ち負かされているのが見て取れる。

「な、ぜ?」

「あんたの役目はここまでってこと」

「また、奪うの?」

 前髪を掴まれ上体が仰け反る。

「それ、こっちの台詞なんだけど」

 何も奪ってなどはいない。そう反論しようにも舌が回らない。

「色々気になるだろうけど答え合わせしてる時間はないから」

「まっ、ぐふぅ」

 再び捻じ込まれた切先が埋まっていく。ホローを睨みつけようにも視界が定まらない。

 ――死にたくない。

 その願いも空しく全身から力が抜けていく。祭壇から転げ落ちても痛みは感じなかった。

 ――何の意味があったんだろう? 

 流れる走馬灯を止めようと手を伸ばすも早回しで時が進む。父も母もどこか余所余所しかった。子供ながらに寂しいと思ったが、王族に生まれた定めと割り切った。人生が色づいたのは学園に入学してからだ。学友との何気ないお喋りや、試験前の勉強会など、どの場面も明るい色調を帯びている。王宮での灰色の日々とは対照的だ。

 一際強く輝いているのはガーニッヒの姿だ。

 その光に向かって手を伸ばすも、どんどんと遠ざかっていく。

 ――行かないで。

 蝋燭の灯火のように最後の輝きを放ち、その眩しさに目を瞑ると、後には暗闇だけが残った。

 頬を濡らす涙を拭うことなく、リエールは土に抱かれ命を手放した。


――幕間――


 久良凪絵里くらなぎえりは淡い期待に振り返るも、既に伊庭航太郎いばこうたろうの姿はなく、薄暗い路地がぽっかりと口を開いているだけだった。

「……ですよね」

 自分の彼氏が感傷とは無縁な人間だとわかっている。それでも今日ぐらいは駅まで送ってくれるのではないかと仄かに期待した。だが、外灯の寂しい路地を抜けると役目は終わったとばかりに踵を返してしまった。せめて角を曲がるまで見送ってくれても罰は当たらないのにとは思う。こういった気の利かなさが端正な顔立ちのわりに女子受けの悪い理由だ。口数の少なさや表情の乏しさも相俟って冷たい印象を与える。

 自分も最初は苦手だった。高校に入学し、席が隣にもかかわらず、碌に挨拶すら交わさなかった。なのに、いつからかその横顔から視線が外せなくなった。いや、いつなどと曖昧な表現で誤魔化すべきではない。伊庭の胸に自分以上に大きな穴が空いていると知った瞬間から惹かれ始めたのだ。

 中学の卒業を待たずに母が亡くなった。病状から覚悟していたが、それでも足元が崩れるような感覚に襲われた。高校に入学し新生活が始まれば少しは気が紛れるのではないかと期待したが、周囲の喧騒が騒がしければ騒がしいほど胸の内を寒々とした木枯らしが吹き抜けた。

 そんな時だ。伊庭の噂を耳にしたのは。

 ――赤星殺人事件の生き残りだってよ。

 当時は小学生だったが、その猟奇的な内容から強く印象に残っている。一軒家で若い夫婦と幼子が惨殺され、壁一面に血で巨大な赤い星が描かれていた。現場は凄惨を極め、撒き散らされた贓物で足の踏み場もないほどだったとの話だ。未だに犯人の目星はついておらず、迷宮入りが囁かれている。

 母を失っただけでも打ちのめされた。両親と幼い妹を一度に、しかも殺されるなんて想像もつかない。ましてやその第一発見者になるなんて。

 人によっては不謹慎だと眉を顰めるだろう。だが、自分以上の悲しみに見舞われた人物が身近にいるというのは不思議と心強かった、伊庭の達観とした態度に、前を向くよう背中を押された気さえした。

 伊庭は同年代とは思えないほど落ち着いている。同級生が教室で色恋やアイドル、ゲームの話に興じている横で、表情一つ変えずに活字を目で追っている。何度か横目で何を読んでいるのか覗き込んだが、タイトルだけで頭痛がしそうな小難しい哲学書だった。普通ならば腫れ物扱いになりそうな行為だが、不思議と一切背伸びした感じは受けず、他人の目など気にしない確固たる姿勢から、一目置かれてすらいる。それが辛い経験を乗り越えたことによって得た強さなのかはわからない。ただ、叶うことなら自分も同じ境地に立ちたいと強く願った。

 だから進級時のクラス分けで再び席が隣になるとの奇跡に背中を押され、思い切って声をかけたのだ。極度の緊張に何を喋ったのか殆ど覚えていないが、意思とは無関係に手が小刻みに震えたのだけは昨日のことのように鮮明に思い出せる。思い返す度に赤面したくなるが、あの時に勇気を振り絞ったからこそ、こうして肌の温もりを知れたのだ。

 先程の行為の余韻に火照る頬を冷ますべく首を振り、未練がましく路地の奥に向けていた視線を引きはがすと、足早に家路を急いだ。ただでさえ遅くなっている。これ以上グズグズしていたら晃だけでなく父まで帰ってきてしまう。顔を合わせた際に平静を装える自信がない。もしかしたらそこまで気遣って普段と同じように接してくれたのかもしれない。そうだとしたら腹を立てるのはお門違いだ。

「もう、わかり辛いんだから」

 膨らました頬が我知れず笑み崩れる。

 来年は受験だ。進路に対する漠然とした不安はある。それでも二人ならばどんな障害も乗り越えられる気がする。今から真剣に勉強すれば同じ大学に通うのだって夢ではない。そうなれば同棲だって視野に入ってくる。

 再び頬が熱くなる。冷静になろうとスポーツバッグに手を突っ込み、一気に熱が引く。

「やばっ」

 携帯を枕元に置いたままだ。土日を挿むので流石に二日間手元にないのはきつい。それに真由子から絶対に連絡が来る。さすがに伊庭に変なことは吹き込まないと思うが、油断はならない。

 絵里は踵を返し足早に来た道を戻る。中学は陸上部で鳴らし、最近はダイエットのためにランニングを再開した。だから走ることは苦ではないのだが、下半身に残る異物感が駆け足を鈍らせる。もどかしさを感じながらも結局早歩きで伊庭のアパートまで戻った。大した距離でもないのに肩で息をする。

 呼吸を整え、エレベーターで四階に上がりインターホンを押す。チャイムは鳴るが反応がない。コンビニにでも寄っているのかと思ったが、部屋の電気は付いている。出掛ける時には消していた記憶があるので戻っているはずだ。ドアノブを捻ると抵抗なく開いた。

「いる?」

 遠慮がちに首だけ覗かせ呼びかける。

「携帯忘れちゃったんだけど」

 玄関に伊庭のスニーカーがある。トイレかと思ったが廊下に面したユニットバスに人の気配はない。

「ねぇ、上がるよ」

 典型的なワンルームマンションだ。ここからでも不在なのが見て取れる。念のため死角を覗き込むも、やはり姿はなかった。猫の額のようなベランダにもおらず、クローゼットにも隠れていない。そもそも驚かせるような茶目っ気のある性格ではない。

 忽然と姿が消えた恋人にどう判断していいかわからず固まる。

 枕元から拾い上げた携帯で絵里がおずおずと百十番を押したのはもう少し後だった。

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