第2部その2
隣町の駅に着いた。
ゆらゆらと揺れている内に3人の乗る車両は徐々に人が増えて行く。「すいません、すいません。降ります、降ります」と言って3人は人を掻き分けて車両から下りた。武志は幼い楓の手を握って引っ張って進んで行く。楓はもう一方の手で薫の手を握っていた。
「めっちゃ混んでるねー」
「ああ、大変だったな」
混雑から抜け出ると薫は乱れた衣服を整えた。武志は楓の様子を確かめている。平気だと分かるとにっこりと笑った。ただ髭に隠れて口元は見えない。武志は早くこの髭を剃りたいと思った。
さて、行きつけの床屋へ向かおうと歩き出すと薫が武志に尋ねた。
「ねえ、けっこう遠いの?」
「いや、歩いて10分ぐらいだよ」
「えー、そんなに歩きたくないな。タクシー使おうよ」
「そこまでする事じゃないと思うけれど」
階段を上っている間にも薫は「タクシー使おうよ」と言い続けている。武志は辟易した。楓はもう全てを任せきっている様子でただ付いて来ている。
階段を上り切って地上へ出るとまるで申し合わせたようにタクシーがずらりと並んで人を待っていた。
武志はため息をつくとタクシーの方へと歩いて行く。これに満足そうなのは薫だった。ただ武志は楓にも同じ距離を歩かせるのを躊躇っただけであるが薫は自分の頼みが通ったと思って上機嫌になっている。
武志が薫の方を「乗るぞ」と言うように見た。乗り込む直前に武志は楓が肩にかけているショルダーバッグの紐が捻じれているのに気が付いた。
「捻じれてる」
武志がそう言って薫の肩にかかる紐を正してやるとドアの開かれているタクシーへと乗り込んだ。3人とも乗り込んで扉が閉まると薫はやや顔を伏せて「ありがとうございます」と武志に礼を言った。なにやらそのお礼が新鮮に思えた武志は照れ隠しに頬を搔きながら「いや、別に」とだけ返した。間に座っている楓は2人の顔を交互に見上げてやはり何かを不安に思う心を隠しもせずに不満として頬を膨らませるのだった。
行き先を告げるとタクシーは発進した。走る車のメーターは徐々に上がっていくが1000円を超えたぐらいで停車した。ちょうど武志の行きつけの床屋の前で停まったタクシーの小太りの運転手が愛想のいい笑いを浮かべて料金を告げるので武志は支払った。
「お嬢ちゃん、お利口さんに出来てたね。えらいえらい」
運転手は下りていく楓を褒めた。見た目で人を判断するのは良くない。楓はまた頬を膨らませてぷいと運転手から顔を背けてしまった。
「ごめんなさい。ちょっとご機嫌ななめで」
武志が謝る。祖父としてなら当然の行いのように自然に口から出た。それに応じて薫も「せっかくのお出かけなのに」と付け加えると運転手はまた気を取り直して外の楓に手を振った。
「いや、奥さんも美人ですな。本当に羨ましい」
「ありがとうございます」と薫が受けるとタクシーは走り去って行った。
「ここ?」
楓が武志に尋ねた。
「うん」
扉を開けると鈴の音が鳴って来店を告げられた理容師が立ち上がった。
「こんにちは」
武志は習慣から挨拶を行なった。
「はい、今日はどうなさいましたか?」
他人行儀な返答に武志は思った。いつもなら「やあ、たっちゃん」などと言って出迎えてくれる店主である。だが、それも当然だろうと武志は考えた。髭が伸びていてぼさぼさの頭をしているのにスーツを着込んで整っている。いわゆる歪な老人に見える事だろう。
少しだけ落ち込んだ武志は「髭と髪の毛を整えて下さい」と店主に告げた。
「はい。かしこまりました」
店主は「立派な髭ですね」と言ったがそれがそこまで伸びて行く過程を吹き飛ばしている武志にとってその称賛は響かなかった。
客がほとんどいなかったので武志の施術はすぐに始まった。薫と楓は椅子に座って武志が終わるのを待っている。
小一時間が経過してようやく武志の長い髭とぼさぼさの頭は整えられた。ワックスが付けられて形を作られている髪の毛はしっかりとしていたし、髭のなくなった顎は武志の顔を精悍に見せた。
店主から見てもこの男性は精悍で素晴らしい人物に見えている。見違えた様子にはたと驚いているのが分かると武志は少しだけ寂しくなった。見覚えがあると思ったのかもしれないが真実を告げる訳にもいかずに料金を支払うと礼を言って「また来ます」と言い残して床屋を去ってしまう。本当に自分はここにもう一度来るだろうかと自問するが答えはない。
「すっごい格好いい」
薫が褒めそやした。
「絶対にそっちの方がいい。でも、髭も捨て難かった」
武志の寂しさを気にも留めずに薫が明るく言うのでいくらか救われた気持ちになった武志は「良かったよ」と答えた。
楓も「うん、髭はない方がいいよ」と言っているので「そうかな」と言う。
3人はこれからどうするべき分からないで途方に暮れている。姿形が変わってしまった。どうしてこんな事になってしまったのだろうか、戻れるのだろうか、と疑問は絶えない。とにもかくにも彼らはどうするべきかをまず考えなくてはならなかった。
武志の頭に真っ先に浮かんで来たのは楓の服を買う事だった。床屋へ向かう間にも、散髪して床屋を出てからも往来を歩く人々がこのちぐはぐな少女の格好に目を留める人が多い。ちらりちらりと盗み見ては歩き去って行く。注目を集めているのが武志には分かったし、楓も自身が注目の的になっている事を理解している。
それをまずどうにかするべきだろうと武志は思った。
「楓の服を買おう」
武志は提案した。口にした後で驚いた。武志は自然と【楓】と宮島楓の名前を呼んでいたのである。なにやらそれは正真正銘の祖父と孫の関係が深いところに根差しているようにすら思える。武志は口にした自分でさえも少なからずショックを受けていた。
「うん!」
楓は元気よく返事をしたがすぐに顔を曇らせて「でも、いいの?」なんて問いかけながら武志の顔を覗き込んでいる。
「大丈夫だよ」
武志はにっこりと笑って答えた。すると横から薫が言った。
「本当に大丈夫だよ。私もいくらかお金を持って来てるからさ」
薫がショルダーバッグを叩いて財布が入っている事を報せた。そんな薫に頼りがいがあるように思われて武志は「頼もしいなあ」と言うと薫は顔を真っ赤にして照れている。もじもじと身体をくねらせて「えへへへへ」と甘えた声を出した。
そうと決まれば行動は早かった。さっそく子供服を売っている店に行って幼い姿の楓にあれこれと世話をしていくつかの衣服を買った。ほとんど楓の趣味というよりは薫の趣味の服が多い。楓は
「え、こんなのにあわないよ」だとか「こんなのきたくない」だとかわがままを言ったが「じゃあ、買ってあげませんから」と薫が言うと渋々従った。
靴も衣服も新しくなった楓は正真正銘の少女だった。とても高校生とは思えない。それでも武志は楓を可愛らしいと思っている。ただその思いにはどんな意図が含まれているかは判断がつかない。武志は祖父が孫に持つような感情があるようにも思えたし、高校生の武志が高校生の楓へ持つような感情でもあるように思えた。そのどちらもが真実だった。心と身体が抱く想いが混ざり合って純粋な力を失っている。混合された分離不可能の感情は武志を苦しくさせた。
楓の服を購入して店を出ると再び3人は立ち止まってしまった。やはり彼らにはどうしようもないほど現実が分からない。これが現実であろうか、夢ではあるまいかと逃避への願望が頭をもたげ始める。するべき事を探し出す事から逃げている。途方もないこの現象を前に打ちのめされてしまっていた。
だが、武志は敢然として立ち向かおうとする心意気を今にも持ちそうでいる。もう少しのきっかけがあれば彼は決然として歩き出す事が出来る気がしていた。
「そういえば今日は学校の日だね」
薫がぼそりと呟いた。中学生だった彼女はもうすでに大学を卒業して働き始めた頃の年齢に見える。経験するはずだった高校生活や大学生活を吹き飛ばして現在に至っている現実は彼女に己が内の空虚を感じさせた。なるほど彼女の困惑は計り知れなかった。ある朝、起きた途端に身体がふわふわする。胸は突然重さを感じているし、背は伸びて目線の位置は変わってしまっている。その頭一つ分身長が伸びたその分だけの空虚があるように思われた。その空虚が感じられる度に彼女は焦慮する。何かでそれを埋めなければならないという衝動が彼女を襲った。そうであったが故に今までにやる事が出来なかった事をやろうという気になっていたのかもしれない。今、落ち着いてしまうとその空虚が再び感じられる。
元に戻りたいと薫は思っていた。中学校のあの日々、部活動に取り組んでいたあの日々、仲間たちと過ごしたあの日々、運動会や文化祭や遠足や試験に喜怒哀楽で満たされていたあの日々を取り戻す気が湧いて来ている。
「そうだな。今日は学校だ」
「みんな、何してるかな?」
それは無断欠席している自分を心配してくれているかな、という不安が見えている言葉だった。
武志は「ちょっとだけ寄ってみようか?」と提案した。寄ってみたところでひとりの大人の女性と初老の男性、幼い少女として見られるに決まっている。だが、それを目にする事は必要な事のように思われた。変わってしまった自分たちと変わっていない知人を見る事は何かを痛烈に感じるだろうと思われたのである。その覚悟は出来ていないかもしれない。きっと傷つくだろう。だが、それが元の生活を取り戻そうとする力になるかもしれない。
「うん」
薫が頷いた。
「うん、わたしも見たい」
楓も応じた。
「そうと決まればさっそく行こう」
武志が歩き出すと2人も後に続いた。
3人が居た場所からは武志と楓の通っていた高校の方が近い。まずはそちらから行く事に決めた3人は再び電車に乗り込んでいく。そこは朝よりはいくらか人が増えていたがやはりいつもよりも少ないように思えた。何かが変わっていると思うのは自分が変わってしまったからか武志には分からない。ただこの変化の実感が余りに多すぎるので武志の頭はどうにかなりそうだった。武志がそうならきっと楓も薫もそのはずだと武志は考えると急に強くなれる自分を感じた。2人を守ろうと思っている。
学校に辿り着くと武志はすぐに異変を感じ取った。校門の周りに数人の人がいる。それも老若男女が揃っている。まるで、そうまるで今の武志たちと同じような人々がそこに集まっていた。
「なんだろう? なにかあったのかな?」
楓が不安げな表情で武志に尋ねた。
「何かのイベントがあるの?」
薫も同じように尋ねる。
武志の頭の中にはあるひとつの答えが出ているが口にする事は出来なかった。
勇敢な武志は校門の周りにいたひとりの男性に尋ねた。それは赤の他人に話しかけるような口調でとても友人に話しかけるような口ぶりではない。それだったのに彼はこの中年男性の心が見えているようであった。
「あの、ここで何をしているんですか?」
武志に声をかけられた中年男性はくたびれたチェックのシャツを着ていてズボンもずいぶん色褪せている。中古ショップで買いそろえたのであろうと武志は思った。
その男性が振り返って武志と目を合わせた。その目は明らかな絶望を表していて悲惨なほどだった。
「あ、いや、その俺は………」
言葉にならないのを武志は痛いほど理解できた。だからこそ武志はここに集まっている人々がどうしているのかも理解できた。
まさしく全ての理由が同じだった。
「あの、まずは落ち着いて。お名前を教えてください」
武志は名前を尋ねた。だが、この中年男性は明らかに怯えていて今にも逃げ出そうとしている。武志はなんとか落ち着いてもらうために自分から名乗るのだった。
「俺は、倉敷武志です」
武志が名乗ると顔を伏せていた男性ががばりと顔を上げた。その目には驚きと失望と、希望とが入り混じった複雑な感情が表れていた。
「武志かよ………。本当に武志なのかよ?」
「ああ、そうだよ。出席番号は5番だ。野球部でサードを守ってた」
中年男性はぐすぐすと泣き出した。緊張の糸が解けたのだろう。
「俺は同じクラスの小山田だよ。小山田寛だよ」
「そっか、いつからいるんだ?」
「分かんねえ。俺はどうしちまったんだ?」
「分からん。でも、安心しろ。お前だけじゃない。俺もだし、あっちには宮島もいる」
「え、宮島も?」
武志の言葉に少しだけ安心しだした小山田は泣くのを止めて気を取り直しだした。
「とりあえずここから離れよう」
武志は楓たちを待たせている方へ小山田を連れて行った。
「ああ」
小山田はバスケ部のエースだった男で動きはとても敏捷だった。試合では他校の女子生徒のファンが出来るほどの美形だったがそれが今では見る影もない。
楓と薫の元へ戻った武志は小山田の肩を叩いて励ました。
小山田は大きくなった薫と、小さくなった楓とを見てどちらが宮島楓だか分かっていない。
「宮島か?」
どちらも宮島だ。
「うん、わたしだよ」
幼女となった楓が応じた。
「一体何がどうなってんだ………」
小山田は幼女となった楓を見下ろしながら膝をついて頭を抱えた。
「小山田だ」
武志が困惑している楓に教えた。
学校でも同じ事が起こっている。
「とりあえず場所を変えようよ」
薫が提案した。楓もそれに同意して頷くと武志は近くの公園に行く事に決めた。小山田の腕を取って手を貸すと彼らは移動を始めた。