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めたもるふぉうぜ!!  作者: 覆水
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第2部その1

 武志は目覚めた。


 身体の節々が重く、喉もいがらっぽい。詰まったような感じがする。咳をしてみても通らないこの感覚は武志にとって初めての経験だった。


 朝、同級生の宮島楓の家のリビングにある革張りの高級ソファで目が覚めた武志は慣れない所を寝床にした事がこの気怠い感じの原因だろうと考えた。なにせ尋常じゃないほどの気怠さである。これまでの彼なら朝一に6キロのランニングを軽々とこなし、朝練にも十分に参加してなおかつ学校の授業にも昼寝など絶対にしない驚異の体力と無遅刻無欠席を誇る健康を宿していた十全な肉体であったのだが今は到底できそうにもない。


 その自分がかつてないほどの気怠さと節々の痛み、喉のいがらっぽさ、下腹部に感じる溜まり感に悩まされている。重度の病気に罹ったと思わずにはいられない。


 だが、彼は前日のパニックと夜まで続いた赤子と老人と泥酔者の世話にかかりきりだった事を思い出して原因が分かった気になるとその悩みをくよくよと考えるのに終止符を打った。


 ゆっくりと起き上がってソファから足を下ろす。その動作の一々が大げさで武志自身でも笑ってしまうほど滑稽だった。


 気怠さを打ち払うためにこめかみをぐりぐりと指先でマッサージをしていると手のひらに毛を触るような感触がある。その感触は根元が顎にあるのも伝えていて武志自身の体にそれが繋がっている事実を伝えて来た。


 「おや?」と思った。顎にあるこの何かを吊り下げた確かな感覚は何だろうと確かめるために手を持って行くとそこにはふさふさと伸びている毛があった。つまりはいわゆる髭である。それもとても豊かな仙人のするような毛量の多い髭だった。


 武志は頭が真っ白になった。手は未だにその感触を確かめるように髭を撫で続けている。確かにある。疑いようもなく豊かにある。髭なんて伸ばす気のない男である武志にこんな髭が生えているのはどうしたことだろうか。


 リビングを飛び出して洗面台に向かった武志は階段を降りて来る二日酔いで頭が猛烈に痛いと嘆く薫にばったりと出くわした。



「え、誰?」



 薫はその初老の男性を見てぎょっとして固まった。頭痛に苦しむ彼女は顰めていた表情を若干だけ緩めて繕おうとしたが苦痛の方が勝った様子で呻いている。


 そんな薫を放っておいて武志は洗面台にかぶりつくように鏡を見た。そこには初老の男性が映っている。それも自分の父親にそっくりだったが父親の兄と思われるほどの歳だった。


 年齢のほど50歳半ばに見えるこの男性は間違いなく武志である。彼は自分の顔の頬を撫でた。艶はない。指先は滑らないし、乾いた感じすらもある。眼は彼の絶望を大いに表現していた。感情表現が豊かになった顔は歴史を物語っているようにすら感じられ、ありとあらゆる経験をして来た事実が窺われる。冬の寒さや夏の暑さ、労働や社会経験の通過儀礼的行事がその皺を刻み込んでいるかのようだった。だが、どれをとっても武志には心当たりがない。



「めっちゃダンディーだよ。その髭」



 薫が洗面室の壁に寄りかかって言った。彼女の顔は青ざめていてトイレの便座を抱えたらすぐにも胃の内容物を吐き出してしまうであろう予感を見る者に感じさせた。



「い、いやどうしてこんな事に?」



 口から出る声もそれまでの武志の声よりも低くなっている。



「わあ」



 薫はそんな武志のなにからなにまでも感激している様子だった。



「何が起こったんだ?」



 武志の問いに薫は答えない。答えを持ち合わせていないからであろうがとにもかくにも困った事態に陥っているのは確かだった。



「どうしたの?」



 起床した楓が洗面台の前で絶望する武志を見た。彼の表情豊かになった目はその絶望を十分なほど表現している。



「た、たけしくん?」



 驚く事に楓はこの変貌した武志を一目で見抜いた。ただそれだけが武志にとって唯一の救いとなったのは言うまでもないだろう。


 武志は事情を説明しているが楓は理解している。それはきっと武志がまた彼女の窮状を理解してここまでの助力を惜しまなかったからに違いない。武志はこの変貌が訪れる心当たりは全くなかった。理由は分からない。



「ちくしょう」



 武志は悔しさに歯噛みした。それを楓が優しく励ました。小さな手が老いた背中をゆっくりと撫でている。あたかもそれは祖父と孫の関係であったがそこには明らかな慈しみがあった。


 楓はすっかり自分に、いや、この宮島家の邸宅に原因があると思い込んで考えだしている。真剣になってかかる事態の原因と対策を練ろうとしているのにこの小さな頭脳は1+1の数式を導き出しただけで巡った思考は頭を一周してしまうのである。単に忘れっぽくなっている、記憶するのが難しくなっているだけであるが甚大な影響であるのを認めるに至った。


 楓はそれが無性に悲しくってすんすんと泣き出してしまった。武志はこれを大いに心配して混乱しながらも慰めている。今回は「大丈夫だよ」と言う事は出来なかった。無責任に感じて言えないでいる。


 ただ楓はもう不安を抱え続けるのに我慢が出来なくなって願望を口にした。それはその願望を口にさえすれば神さまやこの事態を引き起こした何者かが満足して助けてくれるようになるかもしれないという荒唐無稽な希望を宿している不穏な光を放っている。



「もとにもどれるのかな?」



 武志は答えられなかった。ただ口をつぐんで彼女の希望を支える手助けも出来ないでいる。彼女はきっと武志も元に戻る方法を探してくれるものと思っていた。それだったのに武志は元に戻る様子のない楓を見て状況はかなり深刻だと思って軽々と口には出来ないのだった。



「別にいいじゃん。戻らなくてもさ」



 薫が言った。「そのままでいいじゃん」と言いながら武志の傍へと寄って来てその腕を取った。どうやら楓と武志の会話をしている間に彼女は頭痛薬を服用してきたようでそれでいくらか気持ちが楽になったために快方に向かい出したのを良い事に2人の間に割って入ったのである。薫の細くて白い腕は武志の太い腕に絡めて手を重ねるように合わせていた。



「ちょ、ちょっと」



 楓がそれを止める。もちろん薫は聞かない。武志はまた驚いて離れようとするが薫は離れなかった。



「髭も素敵」



 薫が体を密着させて武志の顎から伸びる豊かな髭を指先で弄んだ。



「剃る」



 武志は躊躇いなく言った。洗面台からひげ剃りを探している。この状況でもしっかりしている彼は剃刀を見つけたが付け替える刃が見つからないのに気が付いた。どうするべきだろうと考え込んで固まっている。そんな武志を楓と薫が心配そうに、興味深く覗き込んでいた。


 すると武志は思いついた。床屋で剃ってもらえばいい。名案だった。幸いな事にそれぐらいのお金もある。鏡を見てみると髪もいくらか伸びていて納得がいかない。その上に恰好は高校生の恰好のままで年齢にそぐわないのは理解できた。いくらかそれらしい恰好をする必要がある。それも好意を寄せる人が目の前にいるとなれば当然の事だった。



「床屋で剃ってもらうよ。馴染みの所があるんだ」



 楓は「わかった」と言ったが薫は納得していない。



「服は変えた方が良いと思うな。それって高校生の頃のままでしょ?」



 薫に指摘されなければ武志はこのまま行っていた。それでいいと思っていたし、他に方法がない。



「そうだね。おとうさんのふくをかりたらどうかな。ま、まあ、タケシくんがよかったらだけど」



 断る理由はない。楓の許可は武志に強い力を与えてくれる。



「そうと決まれば急ごうよ」



 腕を絡めたままの薫は武志の腕を引っ張って父親のクローゼットのある寝室へと歩き出した。昨晩の丁寧な介抱が功を奏しているのか、薬の効果のためか薫の足取りは前日とは比べ物にならないくらいしっかりしている。


 鼻歌を歌いながら薫は階段を上った。上機嫌な女性の声はいつだって男性の不安やトレスを軽減させる力があるものだがこの時の武志にとってもそれは例外ではなかった。彼女の上機嫌で明るい鼻歌は武志を大いに安心させている。


 引っ張られるままに武志は薫に連れられて宮島夫婦の寝室へと入った。クローゼットは4畳半はあるウォークインクローゼットだった。スーツがある。カジュアルな服もある。ハイブランドの服や時計があって武志を縮こまらせるには十分だった。


 薫は姿見の前に武志を連れて行ってあれでもないこれでもないとまるで外出する夫の服を選ぶ妻の様な甲斐甲斐しさを見せている。彼女は絶対スーツだよと言って変に畏まった恰好をさせようとする。武志は言われるままに寸法を合わせるのに付き合った。驚く事に武志と楓たちの父親の寸法は見事に合致していた。寸分の狂いもなくぴったりだったのである。まるで武志のためにそこに用意されているかのようだった。


 武志は高級時計を腕に嵌めた。必要ないと言っても薫は聞かなかった。楓も様変わりする武志を見惚れている様子で眺めている。



「めっちゃ格好いい」



 完成した武志を見ながら薫はうっとりするような表情を浮かべて右手を頬に添えて漏らした。楓も頷いているので武志もまんざらではない。それが明らかに他人の物であること以外は武志にとって完璧な装いだった。



「よーっし、じゃあ、ちょっと待ってて!」



 そう言うと次は薫が「買いたい物があるんだよねー」と言って勢いよく寝室を出て行くと武志と楓は2人っきりになった。


 武志は楓の父親の持ち物で全身を装っている気恥ずかしさから頭を掻いている。楓も突如2人きりにされた事で当惑していた。彼女ははっきりと自分がこの装いを改めて大人の男に変わった武志を見ていたいと感じているのを自覚していた。それが楓を赤面させている。



「ごめんね。お父さんに後で断らないと」


「うん、だいじょうぶだよ。きっとね」



 楓が応じると武志は心強さを覚えた。


 沈黙が2人の間にあった。だが、苦ではない。これまでの苦労や困難が2人の間をこれまで以上に近づけていた。こんな沈黙さえも心地よい時がある。


 そしてまたそれを破るのは薫の役割だったのは言うまでもない。


 薫は出て行った時よりも勢いを増して入って来た。勢い余ってクローゼットの壁にぶつかりさえしている。武志は「大丈夫か?」と自分を取り戻した事で生まれた余裕を見せて言った。



「あは、大丈夫。へいきへいき」



 薫は白のワンピースを着ている。レースがついていていわゆるひらひらだ。どうやら新品であるらしく綺麗に保たれている。


 そしてなによりも美しかった。武志は忌避すべき全てを薫は携えていると考えていたのに今の彼は昨日ほど薫との接触に危機感を覚えていない。薫の手を取った今も、腕を絡められている時も、服選びの時にあちこちと触れられた時も、不快な感情はなかった。いや、むしろこの胸中の奥の方にあるその感情は不快とは真逆の感情のように思われた。


 薫の美しさは際立っていた。完全にそのワンピースを着こなしていた。露になっている二の腕は白く輝いているようにさえ見えているし、美脚は完全無欠に完成されるまであと一歩というところで踏みとどまっている。というのも何を履くかで脚は形を変えるからだ。ただ何を履いても履きこなして魅せるという自信が表れているようにさえ見えるのでもうすでに完成されたも同然である。そして勢い余って壁にぶつかった彼女が体勢を立て直す時に見せたすらっとした首と首口から僅かに姿を見せる背中が後方を歩く人々に先へ行って拝顔の栄に浴したいと思わせるに足る魅力を放っていた。



「それ!」



 楓が叫んだ。



「あは、気付いた?」



 薫は楓に笑いかけた。武志はてんで分からない。



「ダメだよ!」



 楓が止めているからそれはきっと良くない物なのだろうと武志は思った。



「良いんだよー。だって、赤ちゃんに変わっちゃったら着れないじゃん。私がこうして着てあげた方が服も喜ぶってもんだよ」



 薫が着ているワンピースは母親の物らしい。父親の服を借りている武志には何も言う事が出来ない。


 薫はワンピースの裾を指先で持ち上げて「どう?」と問うようにはにかむとくるりと1回転して武志の傍へとまさに降り立った。回転によって浮いたワンピースの裾はゆっくりと下がっていく。その瞬間、武志は疑いようもないほど美しいと感じていた。また見たいとさえ思った。


 そして楓も薫を美しいと認めたがそれ以上に彼女の頭を埋め尽くしたのは武志がそれに見惚れているという一事であった。これは重大事件だった。



「行こ」



 薫が武志の腕を取った。楓は自分の衣服も改めようと努力したが幼い彼女の着る物はほとんどなかった。みすぼらしい古びた着物だけで2人が連れ添って出ていく時に彼女が履いたのは古びたスニーカーだった。


 武志は隣町へ行くと薫と楓に言った。2人とも武志の言う事に反論しなかった。月曜日の朝は慌ただしかった。もうすぐ通勤の時刻になると言うのに駅には数人の人しかいない。


 やって来た地下鉄はほとんど無人に近かった。乗っている人が極端に少なかった。楓と薫は扉が開くとすぐに乗り込んでいく。座席が空いている事を幸運に思って座っている。武志は扉が閉じる前に駅のホームを振り返った。あまりに静かすぎる。そう思った。何かが変わっていると感じるのは自分が変わってしまったからだろうかと頭を悩ませるのだった。


 そんな武志を楓と薫が呼ぶ。武志は扉の傍の手すりを掴んだままでごうごうと鳴らしながら走る地下鉄車両の暗い窓に映る自分の老いた姿をぼうっと眺めたまま立ち尽くしていた。


 武志は楓の隣に座った。孫と祖父の形である。祖父は優し気に孫を見下ろして孫はにっこりと笑って祖父を見上げた。

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