第一部その5
武志は易々とそこには入れなかった。
彼は人の家の、ましてや同級生の女の子の両親の寝室に遠慮なく入るほど不躾ではなかった。彼が初めて赤子になった母親を見せられた時、それは完全な乳児で生まれてまだ1ヶ月ほどの小さな赤ん坊の姿だった。当然ながらそのような赤ん坊は丁寧に世話をしてあげなければ時として死んでしまうか弱い存在である。
その漠然とした死の予感が武志を大いに苦しめた。
階下では楓が薫に「バレーはどうするの?」だとか「おさけなんてほんとうはダメなんだよ」だとか「タバコなんてせいちょうできなくなっちゃうよ」だとか言っていた。それに対して薫の言い分は「もう十分なほど成長してるんだけどね」と酔っ払った口調で言い続けるのだった。
武志は意を決して、やはり命を救わねばならないという固い決意でその寝室へと踏み込んだ。
その赤子は今の幼い楓をそっくりそのまま縮めたような形をしていた。武志は持っていたタオルで赤子の涙やよだれで濡れた顔を拭いてやった。
そっと抱き上げて暴れる楓と薫の母親を武志はあやした。当然ながら泣き止まなかった。彼の抱き上げた腕の中で暴れるこの赤子は赤子らしからぬ意志を示していた。
つまりはこの母親にとって初めて目にする男だったので強盗や悪漢の類の者だと勘違いしたのである。赤子は泣いて、強い抵抗を示した。こうまで抵抗されると武志は敵わない。なにせ赤子を抱くなど初めて経験だったのであるから仕方がない。だが、仕方がないと言って諦めるわけにもいかない。落とさないように階下へと運んでいった。
赤子を抱いた武志がリビングに戻った時、楓と薫は口論していた。幼女のあどけない口ぶりなど薫には通用しなかった。薫も薫でこの幼女になった楓を相手に強かに振舞った。
「何て呼ぼうかなー。幼女を相手にお姉ちゃんなんて変だもんね。私の方が明らかに年上だし」
「おねえちゃんってよびなさい。わたしはあなたのおねえちゃんなのよ」
「ぜんぜん見えませーん。幼女がなんか言ってるなー。よちよち、いい子だねー」
「こらー!」
そんなやり取りを前に武志は泣き喚いている赤子を差し出した。
「げ」
「え、なに?」
武志は幼女の楓と酔っ払っている薫に任せるわけにもいかずにただ自分の腕に不器用に抱きかかえながら言った。
「どうしようか?」
頭を抱えたいはずなのにその手が使えない。代わりに楓が頭を抱えていた。
「ど、どうしよう」
薫は立ち上がってその赤子の頬をツンツンと突っついている。
「まじで赤ん坊になってるねー」
笑っている彼女はやはりこの事態を楽しんでいるようだった。
「たぶん、腹が減ってるんだと思うんだ」
武志が言った。
「そうだ。かおる、おちちでない?」
幼女の楓が薫を見上げながら尋ねると薫は呆れた顔をして楓に言った。
「お姉ちゃん、本当に頭まで幼女になっちゃったんだね。母乳は妊娠してから出るんだよ。私が出るわけないじゃん」
「そっか」
「それにこんなに酒を飲んだんだから絶対ダメだよ。授乳期の飲酒はダメなんだよ。出たとしても悪影響じゃん」
「じゃあ、どうしよう」
武志はまず泣き止んで欲しいという想いから乳幼児の粉ミルクを買って来る事を提案した。もちろん楓にも薫にも任せられないので武志自身で行くと提案したのである。
赤ちゃんをタオルに包んでソファに寝かせた。どうやらいくらか泣き疲れた様子で少しだけ静かになっている。老人の父親は相変わらずテレビばかりを見ていて事態を把握した様子でもない。
楓は赤子の腹を小さな手で撫でて「だいじょうぶだよー、だいじょうぶだよー」と繰り返した。薫はリビングの床に大の字になって寝ている。武志はため息をついて階上の寝室から掛布団を持って来てかけてやった。
「じゃあ、俺が行ってくるよ」
宮島家を出ていく時に武志は楓に声をかけた。
すると楓はにっこりと笑って「うん、いってらっしゃい」と言った。武志はたったそれだけで嬉しくなってしまうのだった。
武志はスマホで近所のドラッグストアを検索した。すぐ近くに1件ある事が分かり、武志は運動部らしい全力疾走でそこへと向かった。
ドラッグストアに到着して籠を引っ掴んで入店したのはいいものの武志は何を買えばいいのかてんで分かっていない自分に気が付いた。というのは健康優良男児である彼にとってドラッグストアという場所はほとんど立ち寄った事のない場所だったのである。
それでも彼は勢いに乗った自分と赤ちゃんの事だけを考えている頭が真っ先に乳幼児のコーナーへと進ませた。そこでも彼は絶望するほど困り果てるのだった。種類がありすぎるのである。どれを買ったらいいのか分からなかった。ミルクが必要だという事しか分かっていない彼にここから必要な物を選び取れと言うのは難問だった。
結局、武志は店員に適当な事情をでっちあげて勧められた商品を購入した。その量は薫が帰って来た時の持ち物よりも多かった。
武志はまた全力で駆けて帰った。楓が待っていると思うとどんな事でもへっちゃらに思えたのである。店員に尋ねた時の恥ずかしさなど店に置いて来たかのように忘れている。そうした性格の明るさも彼の良さだと言えるだろう。
武志が宮島家に到着すると外から見ただけでも中の様子が一変したのが分かった。玄関の扉は開けられたままになっている。彼が出る時には閉じたはずだ。武志が家の中へと入ると玄関から真っすぐに伸びる廊下で楓が泣いている。
「どうしたの?」
彼は荷物を置いて靴を急いで脱ぐと座り込んで泣く楓へと寄り添った。
「お、おとうさんがでていっちゃった。とめたのに、とめたのに~」
武志は帰って来た時の道を思い出していた。
老人が歩いている姿は見ていない。それにもし老人となった楓の父親の姿は覚えているので見かけたら分かるに違いない。そうと考えると出て行った父親は武志が通らなかった道を通ったと考えるのは当然の事だった。当てが思いつくと武志は俄然、探す気が起きて徘徊を始めた老人を自宅へと連れ戻す任務に取り掛かりだした。赤ちゃんへのミルクは全て楓に任せてしまった。
宮島家を再び飛び出た武志は父親の通った道を予想して走り出した。そしてようやく見つけた老人は人の家の庭へと侵入して植えられている木の枝を手折ろうとしている所だった。
すぐにその家の玄関の呼び鈴を鳴らした。出て来たのは中年の主婦で明るい日曜日を邪魔したこの男子学生を訝しむように見る眼を装わなかった。
「ごめんなさい。俺の祖父がお宅の庭に入り込んじゃってるんです!」
「へ?」
突然の事に呆けた主婦は武志が何を言ってるのか理解できないままで庭の方へと駆け出した武志のあとをおたおたと追って行った。
楓の父は手折った枝を振り回して木の緑々とした葉を叩いている所だった。
「おじいちゃん、こっちだよ。帰ろう!」
「誰がお爺ちゃんもんか。知らない子だよ。君は誰だ?」
初めて喋った楓の父親は武志を遠ざけようと枝を振り回した。武志も武志で喋られる事に酷く驚いている。
だが、それにも増して驚いていたのは主婦だった。
「み、宮島さん?」
「ああ、いかにも私が宮島だ。ああ、あなたはよく見たら近所の春日井さんじゃないかな?」
「ええ、私は春日井ですよ。ええ、春日井ですとも」
主婦は頷きながらも徐々に後退って行った。その顔は少しずつ蒼褪めて行くようにすら見えていた。
「いや、これは失敬。どうやらちょっと目がかすんでしまって、それでいて視界も狭いし、身体も上手く動かない。困っていたところなんですよ。頭の周りを虫が飛んでいるので払っているんですがなかなか手ごわいですな。スプレーかなにかありませんか?」
楓の父が後退りする主婦へと近づいて行く。主婦はきっぱりと楓の父を拒絶していた。
「だって、だって、そんなはずないわ。信じられない。宮島さんちのお爺さんは2年前に亡くなってるはずだもの。きっと、きっとそっくりさんよ」
自暴自棄になった主婦は「あはははは」と笑い始めた。
「何を言ってるんですか、春日井さん。その節はお世話になりました。おや、お礼がまだでしたかな。私はその2年前に亡くなった者の息子の方ですよ。でも、心外ですな。私はまだまだ若い方だと思っていましたが父に間違われるなんて」
混乱する主婦は頭を酔っ払ったようにくらくらと揺らした。武志はすぐにもこの楓の父をこの場所から出すのがこの主婦を助ける事に繋がると考えた。それだったのにこの頑固な楓の父親は武志の言う事など聞きもしない。
「出よう、ここから早く出ようよ」
武志が楓の父のよぼよぼの枯れ枝のような腕を引くとこの古木の様な父親の細い身体は中身が無いような軽さで武志に引っ張られた。
「そんな、そんなはずない。もう帰って下さい、帰ってください」
主婦は懇願するように言った。武志はそれを聞くと「すぐに、はい、すぐにします」と答えて楓の父親を外へと引っ張り出した。家の方からは「気がどうかしちゃったんだわ。頭が痛くなってきちゃった」という主婦の嘆きが聞こえて来た。
「まったく無礼だね、君は。またあとでご挨拶に伺わなくちゃ。家内にも言っておかないとダメだな。まさかご挨拶をしていなかったなんて思わなかったよ」
「まず自宅へ戻りましょう」
武志が提案するとこの老人は「おお、そうだな」とその提案に大いに感心して頷いたが向かった先は宮島家の建つ方向とは真逆だった。
「こっちですよ」
武志が自宅の方を指して導くが老人は頑固でそれを受け入れない。武志の事を知らない子だと言って聞かないし、「まさか他の家の方にも挨拶を忘れているんじゃなかろうか」などと言い出して近所の家を全て訪ねて回ろうとしている。
そんな老人の腕を掴んで無理矢理に武志は進んだ。老人の抵抗はほとんど無力だったが老人には往々にしてある事だが口だけは達者のようで大声を出して抵抗するので辟易した。
ようやく宮島家に連れ戻すと楓が乳児と化した母親にミルクを与えていた。小さな体でそれよりもっと小さな体の赤ん坊にミルクを与えている様は育児放棄を思わせたが「あ、おかえりなさい!」という元気な声を聞くと武志の疲れや不安は消し飛んだ。
どうやら楓の父親は今の徘徊と武志への抵抗で相当に疲れたらしく崩れるようにソファへと寝転んだ。
「ちょっと、ちょっとだけ横になりたいんだ」
そう言う父親のその顔が青白くなっているようにさえ見えている。薫は変わらずにフローリングの床でぐうぐうと寝ていた。
武志はミルクをやっている楓の傍へと寄り添った。
「大丈夫?」
「うん、へいき。おとうさんをつれもどしてくれてありがとう」
改めて礼を言われると武志は嬉しくなった。
リビングの大きな振り子時計が14時ちょうどを指している。とんだデートになったと武志は思っていたがこの楓の様子を見ているとそんな想いも消し飛んでゆくのが感じられた。
この全く不可解な状況の中でも明るさを忘れていない楓を武志は見つめた。そんな視線に気が付いたのか楓は照れたように頬を赤らめると照れ隠しに赤ちゃんをあやし始める。それが母親である事をすっかり忘れたあやし方だった。
そんな様子から武志は心までは変わっていない楓の姿を見出した。武志が惚れ込んだのはこうした一面だった事を改めて認めると不思議な感情に自分が満たされるのを感じてとても優しい気持ちになれるのだった。
「ねちゃった」
ミルクを飲み終わった乳児が満足そうに寝始めたのを見て楓が呟いた。武志は楓の言葉に頷いている。彼の優しげな瞳は変わっていない。
酒の匂いが充満したこの部屋は乳児が寝るのに相応しくない。高校球児がいるのにも相応しくないだろう。換気をするために窓を開けた。強い日差しが差し込んでリビングを明るくして新鮮な空気が入り込んでくる。
薫の飲んだ酒の後片付けをしようと武志は思った。ついでに封を切っていないタバコも捨ててしまおう。フローリングで寝ている酔っ払いやソファで寝ている老衰死寸前の超々高齢者や乳児に変わった中年女性、幼児に変わってしまった同級生の世話を焼くのは苦にはならないだろうと彼の突然に湧いたこの精神が告げていた。
そして乳児の前髪を優しく撫でている同級生の姿を見た瞬間に武志は思った。
姿形が変わっても君を愛する、と。