第一部その4
武志がまずその音の正体を確認するために立ち上がった。
驚く事に施錠されていたはずの玄関の戸を開けるので武志は薫だと確信した。
楓は怯えていた。玄関から聞こえる音はイノシシが突進して来てぶつかったような酷い音だったからである。
「ここにいて」
武志はそう告げるとリビングを出て行って玄関へと向かった。
玄関の扉のすりガラスの向こう側に見えるシルエットは明らかに中学生には見えない大人な女性で武志の抱いた可能性を証明していた。
大きな袋を両手に抱えている。袋を下ろして開ければいいものをその女性は抱えたままで脚を使って雑に玄関の扉を開けた。
「んっしょ」
明るい透き通るような声だった。玄関の土間の前で立つ武志はその女性をつぶさに見た。
長い髪は腰のあたりまで伸びていて深い黒色だった。キリっと真っすぐに上がる眉は気の強さを表していて瞳は大きく深みがあった。
そして何よりも楓にそっくりだった。大人になったら楓もそうなるのかと思うと武志は魅惑を感じて動けなくなった。
「ん、誰?」
ようやく武志に気が付いたその女性は抱える袋越しに武志を見た。
「お父さん?」
首を傾げて尋ねるがすぐに翻して続けた。
「でも、あんまりお父さんに似てないな。まあ、いっか。ね、そんなところで突っ立ってないで手伝ってよ」
その女性は武志に袋を2つとも渡してしまった。
「リビングまで運んで」
言われるがままに武志はリビングの方へと向かった。
薫は座ってヒールを脱いだ。彼女は母親のワンピースを着こんでいて雪のように白い長い脚がすらりと伸びていた。すっくと立ちあがると裸足でフローリングの廊下をぺたりぺたりと音を立てながらリビングにいる武志と楓の幼さを存分に伝えて歩いていた。
そうして軽快なステップでリビングへと入ったのである。
楓が椅子の上に立って待っていた。彼女は入って来た女性を睨んでいる。
「あは、お姉ちゃん?」
「かおるなの?」
「そうだよ。今ね、街を歩いて遊んで来たの。お酒も買って来ちゃった」
「なんでそんなことするの?」
「なんでってこんな事になっちゃったんだから楽しまなくっちゃ損でしょ。街を歩いてたら私、3回もナンパされたよ。あー、楽しかった。また夜になったら行くつもりなんだ。お姉ちゃんは可哀そうだね、そんな子供になっちゃってさ」
「ばか!」
「なによ、馬鹿って。お姉ちゃんだって遊んでるんでしょ?」
「あそんでなんていないよ。ずっとかおるのことをさがしてたんだよ?」
「嘘だあ。だって、ここに男の人がいるじゃん。どこで引っ掛けて来たのさ?」
「かおる!」
「あは、怒っちゃった?」
「お姉さんが心配してたのは本当だよ。ずっと気にしてた」
「そうなんだ。てか、誰なの?」
「同級生だ。助けを求められたんだ」
「へー、そうなんだ。まあ、いいや。私はこれからもっと遊ぶんだ」
「あそぶってなにするの?」
「決まってるじゃん。わざわざ聞かないでよ。遊ぶのよ。遊びって大人になった方が色々あるから楽しめると思うんだー」
「おとうさんとおかあさんがしんぱいじゃないの?」
「うーん、死んだわけじゃないでしょ。だったら、遊んだ方が得だよ。だからまずは買って来たの」
武志はリビングのテーブルに持っていた袋を置いた。感触から瓶や缶やその他たくさんの物があると分かった。武志には薫がどんな物を買ったのか、これからどんな事をするのか分かっていた。
「なにをかってきたの?」
「んー、お酒とかタバコとか」
「なんでそんなもの」
「なんでって飲んでみたいからじゃん」
「ダメだよ、そんなの」
「駄目じゃないよ。なに言ってんの、私はもう大人なんだよ。私はいつも思ってた、早く大人になりたいってね。それがひょんな事からなっちゃったんだ。楽しまなくっちゃ損でしょ」
「お姉ちゃんもその姿を楽しみなよ」と続けると楓は泣き出した。
「ダメだよ。ぜったいにダメ」
「ふん、今の私は大人なの。街で声をかけて来た男たちに一人残らず何歳に見えるか聞いたら20代前半だって言ってた。そのあとに実は14歳だって教えると泡食って逃げ出したっけ。笑っちゃうじゃん」
薫は袋の中から缶を取り出してそれを開けた。プシュッと気泡の抜ける音がすると薫の顔はいよいよ至福に満ちた笑みを湛えだした。
アルコールの臭いがリビングに漂った。武志はその臭いが好きではない。高校生球児たる彼にとっては忌避すべき物の全てを携えて薫はやって来た。酒、タバコ、そして色香。驚く事にこれらの3色が一体となって混ざり行くのを確かに見たのである。
武志は強い断固たる意志で薫を拒絶した。だが、それでいては楓が望むようには事が進まない。彼女の力になると決めた彼は自分の心情のいくらかを犠牲にして薫に接するのだった。
ぐびりと薫は発泡酒を飲んだ。咽喉が鳴る音が聞こえて来た。酒を飲み下していく様はとても初めてとは思えない。憧れだけでこの振る舞いが出来るとは信じられないのできっと薫は姿が変わる前にも隠れて酒を飲んだ事があるのだろうと武志は思った。
「ぷはーっ、美味――い!」
とても気持ちよさそうに薫は缶を持った腕を突き出した。薫は誘惑するサキュバスのような妖艶な眼で武志を見た。武志はどきりと心臓が弾むのを感じた。簡単な事だが薫と楓は眼がそっくりだった。彼が惚れ込んだ女に似た瞳が誘惑に注力したならばその力は比類のない物だった。
武志の鋭いよく見える眼は気泡のひとつひとつが弾けるところをつぶさに捉えていた。薫は缶を凝視する武志に舌をちびりと出して悪戯を企てた子供のように笑うとまた缶の飲み口に口を付けてぐびぐびと喉を鳴らして酒を飲んだ。
350ml缶の半分以上残っていたビールの全て飲み干した彼女は口から漏れて顎へと伝うビールの雫を手の甲で拭った。そのまま彼女はそのビールで濡れた手の甲をちろりと舐めると次の缶へと手を伸ばした。
慣れた手つきで指をプルタブにかけて引いた彼女の顔は少しだけ上気したように赤みがかっていた。武志と楓は全く知らない事だったが薫はすでに外で解放感の勢いのままにうんと飲んで来た帰りであった。
武志はある賭けに出るしかなかった。まず薫をこの家に留まらせる事が楓の安心につながると考えてその方法を考えなければならなかった。
そして武志は薫にどんどんと酒を飲んでもらう事にしたのである。好きにさせる事で結果、この家に留まるだろうと踏んだのだった。欲を言えばタバコだけはやめて欲しかった。
1時間が経った。薫はまだ飲んでいる。テレビを見てげらげらと笑っていた。録画していたバラエティ番組を見ているのだった。どうやら彼女の好きなお笑い芸人が出ているらしく上機嫌だった。
武志はリビングの椅子に座って心配そうに妹を見つめる楓に寄り添って酒を浴びるように飲み続ける薫を見ていた。
2時間が経った。薫はビールの空き缶を誇らしくテーブルに並べて行く。これだけ飲んでやったぞ、と空き缶のひとつを持ち上げて100歳を過ぎた老人に変わってしまった父親の前にちらつかせた。
薫は次には焼酎、ワイン、ウイスキー、日本酒と空にしていった。日本酒の1リットルパックが空になると最後の一滴すらもコップへと移そうと努力していて逆さまにして振っている。彼女が買って来た酒はもう無くなった。彼女は凄まじい量の酒を飲んでいるのは明らかだった。武志は急性アルコール中毒で救急車を呼ぶ事も考えたが薫の口ぶりは未だにしっかりとしていた。驚異のアルコール耐性を持っている少女、もとい女性であった。
「お父さんやお母さんは酒に強いの?」
薫に聞こえないように声を潜めて楓に尋ねた。
武志がテーブルに身を乗り出して尋ねるので楓もまた真似て身を乗り出した。彼女の幼い瞳が間近になると武志は気恥ずかしくなって頬を赤らめた。
「どうだったかおもいだせないの。でも、こんなにのんだのはみたことない。かおるってこんなにおさけがつよかったんだ」
楓は心底から驚いている様子で薫を見た。
ソファに寝転がって最後の日本酒を飲み干すところだった彼女は首を逸らして口を大きく開けると舌をべろりと出してコップを振って最後の一滴を舌先に落とした。
空になったコップを胸元に置いて寝転がった状態のまま武志と楓の方を見た。
「無くなっちゃった♪」
「あはっ」と彼女は笑った。酷い赤ら顔だった。尋常ではない量を飲んだのにも関わらず彼女はまだ飲み足りない様子だった。
「も、もうよしたら?」
楓が恐る恐る提案した。まるで酷く酔いつぶれた夫に言うようなおずおずとした態度だった。
「まだ飲めるよ、まだまだ」
「冷蔵庫にないかな?」と言って薫が立ち上がるとどうやらしっかりしていたのは表情と話しぶりだけだったようでたたらを踏んでバレー部らしいバランス感覚で踏みとどまった。
「あぶなーい」
彼女は大いに笑っていた。それでも冷蔵庫に向かうのを止めようとしない彼女は千鳥足で歩き始めた。
武志は椅子から立ち上がって薫を支えようと手を伸ばした。よろよろとよろめきながら歩く彼女は何も無い平坦なフローリングで脚をもつれさせた。
楓が悲鳴をあげると武志は倒れる薫の体を咄嗟に支えた。全体重を預けられた武志は支えきれずに薫と共に倒れこんでしまった。それでも武志の素早い機転が薫を守る事に働いて武志が下になって薫の倒れこむ衝撃を和らげるのだった。
すると脱力して完全に身を預けている薫の豊かな胸が武志の硬い胸板に当たっていた。武志の胸板はそれ自体が平板に硬いが故に薫の預けられた体の、さらに言えば押し付けられた大きな胸の柔らかさを伝えていた。彼女が着ていたワンピース越しに伝わる丸いそれは武志がこれまでに感じた事のない重さと柔らかさを備えていて彼の丸さと言えば硬球、硬さと言えば硬球という印象を一瞬で覆すには十分な破壊力を持っていた。
「あ、わたし、今、ノーブラだったわ」
薫が武志の胸元に顔を埋めて呟くのが聞こえた。どうやら彼女はこの男というもの、加えて同年代の男の鍛えられた肉体に触れるのは初めてであったらしくその女性らしさからかけ離れた存在に興味を持ったように密着していた。
「ちょっと、はなれなさい!」
楓が2人の頭の先で大声をあげた。
「なんでブラしてないの?」
「んだって、母さんのしようと思ったんだけど小さくて収まらなかったんだもん。あー、わたしって大人になったらこんなに成長するんだなーって感心した。めっちゃ大きいよ」
武志は楓に弁解するつもりで身を起こしたが薫が圧し掛かっていてなかなか離れない。腕は腰にぐるりと回されていた。この忌避すべき全ての要素を兼ね備えている女が離れようとしないのは武志にとって絶望だった。武志まで酔っ払ってしまいそうなほど酒の匂いが薫からしている。気分が悪くなるのを武志は感じた。
武志は力づくで薫の腕を振り払うと急いで立ち上がった。彼の何かが急げと告げていた。
「あーーん」
薫が嘆くとその場でごろりとだらしなく仰向けに寝転がった。ワンピースの首の口が伸びて右肩が露になっている。白い肌だった。大きな乳房の上部まで見えていて酒でほんのりと赤くなっている。ある一つの事柄で艶やかな体の変化をまざまざと見せられると妖艶なまでに生々しさが感じられて年端の行かない武志には刺激が強すぎるようだった。
「もう!」
楓が怒った。「だらしないよ!」と繰り返し言った。
「うーーん、眠くなって来たー」
楓が薫の身だしなみを幼い手で整えた。
「ベッドにいってねなさい」
「むりー。運んでよー」
武志は薫のためにキッチンでコップに一杯分の水を用意してあげた。彼女はそれを受け取ると喉を鳴らして飲んだ。頭だけを起こした彼女の水の飲み方は実に雑で口の端から冷たい水が漏れて流れ落ちていく。ワンピースを大いに濡らすので武志はタオルを取りに立って行くのだった。
「だらしない!」
楓が小さな頬を膨らませてかんかんに怒るので薫は「うるさい!」とやり返した。
身体が小さくなった楓は気も小さくなったのか薫にやり返されるとしゅんとなって落ち込んで見せるのだった。なにやらそれが非常に幼く見えて姉らしさを失った楓は薫に笑われた。その笑いが大いに楓を傷つけるのだった。
そのころ、武志は尋常ではないほど困り果てていた。階上の寝室から赤子の鳴き声が聞こえていたのである。彼は恐る恐る階段を上って行った。
扉の前に立つとそこはこの宮島家にやって来た時に見せられた両親の寝室で赤子となった母親がいた部屋だった。