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めたもるふぉうぜ!!  作者: 覆水
2/11

第1部その2

 中学校は遠くなかった。


 グラウンドでは野球部が練習をしている。掛け声は武志には慣れ親しんだものだった。そうした馴染みを感じると知った通りの現実がそこにあるはずだという真実を再び取り戻すのだった。



「どこからいく?」


「どこからにしようかな。遠征にそのまま付いて行ってるってことはないかな?」


「どうだろう?」


「妹さんはスマホ持ってるの?」


「もってるはずなんだけど」



 言葉尻が弱々しくなって最後の方は武志の耳に届かなかった。この状況で一向に事態を掴めていない情けなさが厚い壁となって彼女を取り囲もうとしていた。



「よし、ここから探そう。大丈夫、見つかるさ」



 そんな彼女の落ち込みを持ち前の前向きさで支えると武志は言葉通りに辺りをくまなく探そうと首を動かし始めるのだった。


 そんな彼を下から見上げる楓の瞳の美しさは比類ないものだった。涙で潤んだ瞳に陽の光が瞬いているとさながら一種の宝石だった。


 2人は職員駐車場へと向かった。ほとんどの場合、部活動の遠征では職員駐車場でバスが停められており、生徒たちは乗り込んでいく。きっとそこに楓の妹がいた痕跡が見つかるはずだった。


 駐車場に着いて2人が見たのは殺風景な沈黙する車ばかりだった。校舎の周りに植えられた緑に光る木々に停まった鳥さえもこの時ばかりは口を閉ざしていて痛みを感じるような鋭い沈黙を漂わせていた。事実、この痛みに耐えかねたように楓は狼狽え始めた。



「どうしよう」



 「ほんとうにどうしよう」と加えて呟きながら隅々まで妹の姿をそこから見つけ出そうと駆けだした。武志はそんな楓を支えようとまるで沈黙を破るために声を張り上げて言った。



「待って!」



 武志の言葉など耳に届いていない様子で楓は辺りを探してゆく。薫の姿はなかった。そもそも姿形が変わってしまっている可能性のある者を見た時に妹と認識出来るだろうかという疑問が武志の胸中に湧きだしたが振り払うように楓の傍へと走り寄った。


 彼女は懸命になって妹の姿を探している。


 朝の6時となるとすでに4時間も経過している。何かが起こったとしても不思議ではない時間だった。


 武志は駐車場には居ないと判断して幼い楓の手を掴むと校舎の方へと引っ張るようにして歩き出した。楓はまだ駐車場内をくまなく探していないのを気に病んでいるらしく駄々をこねる幼子のように武志に抵抗した。年相応に見えるがそうと考えていては事が進まないので武志はぎゅっと力強く彼女の手を握って「大丈夫だから」と励ますのだった。


 学校には薫の姿はなかった。手掛かりはなくなった。唯一と言っても過言ではなかった微かな手掛かりだった。きっと掴んだ瞬間に千切れてしまったに違いなかった。楓の手はその千切れた片側を握っているように固く締められていた。


 武志と幼い姿の楓は宮島家へ戻った。リビングにいると変わり果てた実父を見るのが余りに苦痛であるらしく楓は不本意ながら武志を自室へと招くのだった。



「ちょっとまってて。そうじするから!」



「分かった」



 宮島家の2階の廊下で武志は楓が言うように大人しく待っていた。扉の向こう側で幼い小さな手を突き出されて言われると武志は逆らえなかった。


 掃除すると言ったのに楓は部屋に籠ってしまった。見せたくない物を中で始末するつもりなのだろう。バタバタと小刻みに踏む足音が聞こえていた。



「ど、どうぞ」



 扉を少しだけ開けて楓が言った。その彼女の口の開き方は自信のない様子を表すように小さく僅かに開けられているだけで彼女が発したその言葉は辛うじてそこから出たと思えるほどか細かった。


 女性の部屋に入るという一大事を経験するに彼の覚悟はまだ足りなかった。掃除を終えた彼女に招かれるまで彼は浮き浮きとした調子で待っていたのにいざ呼ばれると彼は尻込みして浮いた調子は引っ込んでしまった。


 彼はなかなか入らなかった。そんな彼を楓は見上げて待っていた。「どうしたの?」とは聞かない。聞かないでも彼女の表情がそれを十分に伝えていた。


 ところで武志は考えすぎていよいよ彼女の部屋へ入るのが恐ろしくなっていった。彼は容易にそれへと辿り着いたし、それを自覚した。


 彼はこうした経験には慣れている。大チャンスの時にバッターボックスへ入る前の感覚がそれに近かった。と言ってもその感覚はこれまでにも数十回と経験している。そして今この恐ろしさは質が違っていた。


 長い時間が経ったように思われた。緊張と恐ろしさと今朝からの困惑が彼の四肢の末端から熱を奪っていたのが治りだしていた。


 そして彼は全身に力が漲るのを感じるとこの困難を乗り越える覚悟を決めるのだった。彼女の招きに応じてこの理解不能な事態を乗り越えた時に改めて彼女と過ごす時の事を考えた。そうすると彼は口を開いた。



「うん」



 武志は彼女の部屋に入った。


 彼に姉妹はいない。いわゆる年頃の女性の部屋に入るのは初めてだった。野球しかして来なかったこの純真無垢な青少年はこの大打撃に心が打ち震えていた。


 彼はこの新たな、これまでに感じた事のない種類の打撃に感銘すら覚えていた。その感銘が彼の内側の全てを満たしていくように思われて彼が培った野球の全ての感覚を押し出していくのを感じていた。奪われるような、上書きされるような微妙な感覚こそ彼が恐れているものだった。


 楓もまた男性を部屋に入れるのは初めてだった。彼女は思った。男性は女性の部屋に入る際にこれだけ戸惑うのだろうかと。その戸惑いが拒否のように思えて自身の言ったわがままを悔やんだ。


 それだったが言わない訳にはいかないわがままだったのをどうにか武志に理解して欲しかった。


 汚い部屋だと思われたくないし、だらしのない女の子だと思われたくもない少女らしい願いだった。


 楓の部屋は整頓されていた。今、この短時間で行なわれる整頓とは思えない。


 カーテンは開けられていて午前の陽ざしがふんだんなく射し込んでいる。空気中を漂う塵や埃が煌めいていた。武志はそれすらも綺麗だと思って彼女に招かれたままその部屋の中で佇んでいた。


 部屋の片隅にベッドが置かれている。ちょうど陽ざしが当たらない場所だった。ベッドの上の掛布団やシーツには皺ひとつない。


 武志はあるていどは自分の部屋を整頓しているが彼女のこの様子には負ける。



「す、すわっていいよ」



 彼女は座布団を勧めた。ウール製のウィルトン織りの絨毯の上に小ぢんまりと載っているその座布団はまさしく彼女に相応しかった。


 言われるままに武志は座布団の上に座った。ローテーブルを挟んで彼女も座ると2人はまるでこの事態を忘れてしまったように初々しさを見せ始めて押し黙ってしまった。


 沈黙がこの場所を支配していた。そこだけは侵されざる聖域のように確かだった。ただその清らかさは楓にとってか、武志にとってかは判然としなかった。


 沈黙を破ったのは楓だった。


 言葉を発しない武志に覚えた不安が、一挙に膨らんでこの事態を思い起こさせたのが彼女に口を開かせた。



「どうしよっか?」



 彼女の思わず出た促音は弾んだ調子を思わせた。沈みがちなこの状況を好転させようとしているのか、それとも武志が入って来てくれた事を喜んでいるのか、はたまたそのどちらもかは分からない。とにもかくにも彼女はこの弾んだ調子を場と状況にそぐわないような気がして悔やみだしていた。


 この浮き沈みは彼女の精神的不安定さを表していた。そわそわと落ち着かないので早く武志に言葉を発して欲しかった。安心したかったのである。


 そして武志はついさっき生まれた決心に従った。この事態を乗り越えた時に再び彼女と過ごす時を彼の希望と目的に据えたのである。野球の事や学校の事など疾うから頭になかった。



「うん。妹さんを探すんだろ?」



 「心当たりはあるの?」と武志は続けて問うた。その温かみがこもった口調は楓を十分に安心させるには足りていた。彼女はそれにすっかりと安心してしまった。


 座布団の上で姿勢を正すと彼女は口を開いた。



「うん。それがね、わかんないんだ」


「そっか、仕方がないな」



 学校以外に心当たりはないようだと分かると武志の頭の中に案はなくなった。どうしたらいいか武志には分かっていない。


 ところでようやく武志は楓の妹の薫がどんな人物なのか知らないのに気が付いた。そうすると彼が行なうべき事が分かったような気がする。



「その、妹さんの事を調べたら分かるかもしれない」



 武志が提案すると楓は立ち上がった。



「うん。しらべてみよう」



 すると楓は早速、部屋を出て廊下を挟んだ対面にある部屋の扉を開けた。


 武志もその後に続いた。


 薫の部屋は楓の部屋の様子とは打って変わって雑然としていた。


 バレーの部活動で使うシャツや道具が片隅で山積みになっている。下着類さえも散らばっていて武志の眼の行く先を困らせた。


 ベッドの上は漫画や化粧品が投げられたように放り出されていた。


 なによりも暗かった。カーテンは閉め切られていて光はほとんど射し込んでいない。



「暗いな」



 武志が呟くと楓が灯りを点けた。


 露になった薫の部屋を改めて見るとベッドの上の掛布団やシーツはまさに今、跳ね起きたように捲られていた。


 少し前まで居たような痕跡がそこにはあった。


 武志はその部屋を歩くのを躊躇った。顔も知らない女の子の女性らしさを窺がわせる物が彼に躊躇いを生ませたのである。



「俺は入れないよ」



 薫の部屋の出入り口で廊下の先の楓の部屋の扉を見つめていた。


 楓は手掛かりを探していた。彼女の頭の中には「どこへ行ったのか?」という疑問ばかりがぐるぐると回っていた。



「宮島は起きた時、どう思ったんだ?」



 武志が尋ねた。



「わたしは、たいへんだとおもった。なにがおきたのかりかいなんてできなかったし、あわてた。まだゆめだとおもってねようとした」



 探す手を止めないで彼女は答えた。



「きっと、薫ちゃんも慌てただろうね」


「そうかも。きっとちこくするってあわてておきたのかもしれないけれど。ほら、このべっどのうえをみて。そんなかんじがするでしょ?」


「それで寝ようとしてどうしたの?」


「ねれなかったの。ぜんぜんね。へやをでるのがこわかったけれどでるしかなかったからへやをでた。リビングにおりたらしらないおじいさんがテレビをみてるし、おかあさんはいなくてあかちゃんだった。かおるのへやをみてみるといなかったの。それでふあんになっちゃって」


「薫ちゃんだけ何事も起きてなくてそのまま遠征に行ったって事は考えられないかな?」


「そうかもしれない。ううん、そうだったらいいな」


「調べる方法はないかな?」


「うん、たぶんおかあさんのスマホならできるかもしれない」


「やってみようよ」


「うん」



 楓と武志は乳児となっている母親が寝ている部屋に入った。枕元に置かれているスマホを楓が手に取るといつも母親がするようにパターンロックを外した。


 着信履歴が10件入っている。それは母親の友人の履歴が3件と薫が所属するバレー部顧問からの着信が7件だった。


 この履歴が信号となったのは少なからず間接的に楓と武志に薫がバレー部の遠征に行かなかった事を報せていたからだった。


 だが、彼女は最後まで確認したかった。言葉としてはっきりとこの着信の内容がどんなものだったのか確認しなければ納得出来なかった。それだったのに確認出来なかった。彼女はその履歴から折り返す直前に指が止まってしまった。バレー部の顧問が電話口に出た時に幼女の声だったら不審がる。母親を出すように言われてしまうだろう。武志を代わりに出すわけにもいかない。父親を演ずるには声が若々しいし、兄弟は居ないと知れている事だろう。


 スマホを見つめたまま固まってしまった楓を武志は心配そうに見つめた。どうにか自分が力になりたいと想った彼は寄り添う事しか出来なかった。



「どうしよう?」



 彼女はスマホに問いかけるように下を向いたまま呟いた。


 楓の傍に近づいていた武志は確かに彼女のその言葉を耳にした。その弱々しさたるや彼女を構成する全ての細胞が連結を失って崩れ去っていく音が聞こえるようだった。


 するとその音を聞いた途端に武志の頭にそれまでになかったかける言葉が浮かんできた。



「電話に出られない理由を適当にこじつけてメッセージで送ったらどうかな?」



「うん、そうしてみる」



 顔を上げた彼女の眼には涙が浮かんでいた。確かに彼女の頬を伝う雫を見ると彼はそれを拭く何かを持っていない事を悔やむのだった。ただハンカチなどを持っていたとしてもこの時に渡すほど格好いい事は出来なかっただろう。


 さて、楓は武志の助言に従ってそれらしいメッセージをでっちあげていた。母親の口調を真似ている彼女は素早い指捌きで入力していった。


 メッセージを送ると数分後にはその返事が来た。


 それを読んだ彼女は全く救われなかった。


 薫は予想通りに遠征には来ていなかった。30分だけ集合場所で顧問が待っていたのを教えられた上に他のチームメイトの保護者が薫を待っているのを申し出てくれたなど出発前に混乱があった事を教えてくれた。


 一通り謝罪して事を済ませたが彼女の失望は計り知れなかった。


 そうなるとやはり宮島薫はこの広い世間の中でさ迷っているに違いなかった。そしてまた遠征に行かなかったという事態が、いや、行けなかったという事態が示していたのは薫もまたこの異常事態の被害を受けているという証明に他ならなかったのである。


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