葵は、ドキドキしたかった
1995年1月22日。日曜日。
避難所の入り口に設置されたテレビに、たくさんの人が集まっている。
震災関連ニュースや、競輪選手がニタッと笑って「ポイ捨て、禁止」とか言ってるAC公共広告機構のコマーシャルの繰り返しに、飽き飽きして来た避難所でも、今は、大相撲平成八年 初場所、千秋楽結びの一番、貴乃花と曙の取り組み。
集まった人は皆、その勝負の行方を、固唾を飲んで見守っていた。貴乃花が、曙を寄り切りで打ち勝つや、避難所の群衆から、うおお、やったあ、などと歓声に包まれた。
相撲中継が、終わり、その場から、退散する人、そのままNHKニュースを見る人、その場で、さっきの取り組みについて語る人……そして、海斗と葵。
避難所には、既に救援物資がいっぱい届けられ、新鮮な野菜や果物は、まだ無理だけど、無理だけれど、保存食なら、コンビニで物を買うような感じで、色々食べたい物を選ぶことが、出来るようになっていた。
野菜ジュースもあるので、ここ数日間の野菜不足も、補うことが出来るようになっている。
下着や紙おむつ等、食べ物以外の生活必需品も、かなり揃って来ている。
前日から降り続いていた冷たい雨も、夕方には暗い雲だけとなっていた。葵と海斗は、気晴らしに体育館脇に出て、運動場の様子を眺めている。暗闇になっている運動場で、テレビ局の放送用車両から、明るい光が漏れていた。
「避難所で、テレビ局のインタビュー受けた時さ、俺、かなり頑張ったんだぜ!食べ物も…飲み物も…着る物も……全部足らないです……一日一食しか、食べられないので……今もお腹が空いています……って、俺、出来る限り、悲しそうな顔をして言ったんだよ!」
テレビカメラの前で、懸命に、悲しげな表情を浮かべようと努力する、困った顔の海斗の姿を想像して、葵は、笑いそうになる。
海斗は、話を続ける。
「本当は、もう、かなり救援物資は届いてたけど、テレビ局のインタビュー受けたら、そう答えなさい、て父ちゃんから言われたからな……確かにさ、父ちゃんの言う通り、足りてる、十分です、なんて言ったら、直ぐに救援物資が途絶えちゃうもんなあ……」
大人たちからは、もしテレビ局や、新聞社から、インタビューみたいなものを受けたら、絶対に「物が足りない」と答えろ、と注意されていた。
一見、物が潤沢に揃っているように見えても、定期的に救援物資が、届いているからで、誰かが、「もう、救援物資は、いっぱい有るので、ここには、送らなくて良いです」なんて言っちゃったら、途端に、物不足で、避難所がパニックになってしまうだろう。
「葉原、一緒にゲームボーイやろうぜ。俺のおもちゃの中で、生き残ってくれた大切な相棒だ」
海斗が、カバンの中から、ゲームボーイを取り出した。
「笹林くん、いいな。あたし、そういうの、持って来てないし、あたしの相棒だったパソコンは、地震で吹っ飛ばされて、多分、何処か壊れてるだろうし」
「葉原、それはまだマシだよ、俺のクリスマスプレゼントだった、プレイステーションさあ……まだ、ほとんど遊んでなかったのに、この地震で見事に、倒れて来た桐箪笥に挟まれ、お陀仏。ナンマイダ、ナンマイダ〜」
合掌して、ポクポクポク……と、お坊さんのモノマネをしながら、その場で、ぐるぐる歩き回る海斗。
その姿を見て、葵が笑う。
体育館脇で、煙草を吸っていたおじさんたちも、海斗のふざける姿を見て、微笑ましい笑顔になり、安らぎのある表情を浮かべている。
「笹林くん、家族を失った人もいるんだから、そういう冗談は、ちょっと不謹慎よ」
葵は、注意して見たものの、実のところ、葵はそんなに怒ってないし、周りの大人たちも、海斗の行動を見て楽しんでいるようだ。
海斗は、避難所の小学一年生くらいの男の子と、ゲームボーイで遊び始めた。
海斗は、いつものように、面白い話をしたり、テレビで流行っていたタレントのモノマネをしたりして、自分の弟のような年代の子が、ゲラゲラ笑うのを、楽しんでいる。
ほんと、不思議。笹林くんがいると、こんなに、周りが、明るくなるんだ……
ただの面白い子、としか思っていなかった葵。
この時、海斗に、少し、尊敬の念を抱いた。
校門の前に、新しいトラックが入って来たようだ。
すぐにボランティアの人達が、外に出て、荷物を降ろしにかかる。
ボランティアの人達が、全国から来てくれているので、家屋倒壊や、地震後の火災で、家を失った人も、最低限の衣食住は、保障されるレベルになっていた。
海斗が、葵のそばに、戻って来た。
ゲームボーイは、小学一年生に占領されてしまったようだ。
二人の前を通り過ぎる、ボランティアの人の流れ。
「偉いよね、ボランティアの人達。見も知らぬ私たちの為に、こんなに色んなことしてくれて…」
「うん、ああゆう大人になりたい」
なんだ…笹林くん、真面目なことも、言えるんじゃん…
海斗のことを少し見直す。
「葉原、今何時だっけ?」
唐突に、海斗が、時間を聞いてきた。
「ん…もうすぐ7時になるよ」
「ヤバ、今日、親戚の家に避難するから、7時前に、家の前に行かなきゃいけないんだった!葉原、俺、暫く西神の叔母さんとこに住むんだ。なんかあったら、連絡して来いよ」
そう言って、海斗はポケットの中のメモ帳を、ベリッと破って、電話番号を書いて、葵に手渡した。
海斗は、話し続ける。
「一人でも、孤独とか、不安とか、絶望とか、そんなの感じるんじゃないぞ。寂しかったら、また、俺が笑わしてやる。震災みたいな……震災みたいな悲しい出来事でも、それをネタにお前を……お前のお腹が、笑い過ぎて痛くなるほど、笑かしてやる。
俺のギャグで、笑い死にするなよ。折角、生き残ったんだからな……だから、俺が、ずっとお前の側にいると思ってろな!」
それを言い残して、海斗は、バッと振り向いて、校門の方向に駆け出した。
海斗の後ろ姿が、遠退いていく。
ずっと、側に……
さっきの言葉か、心の中で、何度も反復される。
その言葉、凄く……心に響いた、なんなのよ、この感情……
今まで……クラスの男の子とか、例えば、サッカーの凄く上手い子のプレーを見て、ハッとすることとかは、今まであったけど……言葉で、心が、こんなに暖かくなるのは、初めてだ。
海斗の姿が、完全に見えなくなるまで、葵は、その後ろ姿を、ずっと、見つめ続けていた……と、思ったら、引き返し走って来る海斗。
「いけねー!ゲームボーイ忘れてた!」
「もう……ゲームボーイは、笹林くんの相棒じゃなかったの!」
……結局、これが、初恋だと気がついたのは、あたしが、中学2年の国語の授業中。
気付いた瞬間、「えええ!!」と奇声を発してしまった時まで、待つことになるのだけど……。
2018年6月22日。金曜日 23時。
大人になって、今、小学生で、あんなこと言った海斗、可愛いじゃん、とか思ってしまう。
こうやって、小学生時代の思い出を、時折、思い出しては、その時の、暖かい気持ちを、思い出せるっていうのは、凄く贅沢なことなんだろう。
しかし……告白してくれたのが、かなり遅かったんだよな……
こっちも、初恋だって気がついたのが、中学2年の時だったけど。
恋だとわかって、海斗のことが、男として気になる存在になって、それとなく、彼の気持ちを確かめようと、色んな素ぶりをしてたけど、いっつも、彼は、冗談で、かわし続けた。
同じ高校に進学しても、以前と変わらない友情の関係。
結局、友達としか、見ていないのかな……でも、避難所での、ずっと側にいる、って言葉が、心に引っかかってたんだけどな……でも、当時のあたしには、直接、海斗に聞く勇気なんて、なかった。
気持ちを、確かめられないから、高1の時、柔道部の武藤くんが、告白してくれた時もーーまあ、全然タイプじゃなかったのだけどーー海斗の気持ちが分からないから、ゴメンなさい、で、返したくらいで……もう、正直、悩み疲れた高2の時、これまた唐突に、告白して来た海斗。
告白された時の気持ちは……ドキドキとか、深い感動、とかじゃなくて、やっと告白してくれたという、安心感。
安心感だけって、青春時代には、物足りないんだよ。
こっちは、ドキドキの告白を、夢見てたんだよって……それが、もう不安で、やっぱり、唯の女友達で、女として見れない、とか言われるのが、怖くて、怖くて、やっと、恋人として付き合って欲しい、と言われて、やっと、それまでの不安感から解放されたって……なんか違うんだ。
なんで、小学生の時のセリフが、一番カッコいいんだよ。
そんな気持ちのまま、彼との恋人関係スタート。
まさか、三十路になっても、小学生の時に聞いた彼の言葉を大事にしてるなんで、思いもしなかった。
恋愛関係になっても、海斗は、甘い言葉を発することはなく、こっちが「愛してる?」って聞いても、何か、冗談めかして、答えて来る。
だから、もう笑いを取らないでって。
友達みたいな恋人も良いかもしれないけど、やっぱり、ドキドキのある恋愛を、したいんだ。
それに……もう、私たち34歳なんだよ。
なんで、結婚とかの話を、全くしてくれないの?
両親も、海斗くんに、その気が無いのなら、お見合いしてみたら、とか言い始めているんだよ……もう、いい加減……疲れ……た……zzz
葵は、スマートフォンを握ったまま、ベッドで、眠りこけた。