彼が神戸に帰って来る
神戸市灘区に住む葉原葵は、三十代半ばで、彼氏もいるのに、未だ、独身。
学生時代からのボーイフレンド、笹林海斗は、ずっと煮え切らない態度。一体なぜ、プロポーズしてくれないのか……
神戸を舞台にしたショート・ヒューマンドラマです。
神戸を舞台に小説を書いてみたくて、筆を進めています。
更新はゆっくり目ですが、宜しくお願いします。
「うん!じゃあ、JR三ノ宮駅前で……中央口の……そうそうOPAの前……けどまあ、あそこ最近、閉店しちゃっだけどね」
JR六甲道駅から、山手に延びる緩やかな上り坂。
残業を終えて、葉原葵は、小学校の同級生でーーそして今は葵の彼氏でもある笹林海斗に、電話で、週末のデートの約束について、話しながら、上り坂を、ゆっくりと歩いて、自宅へと向かう。
前に会ったのが……二人で、和歌山まで足を延ばして、お花見に行ったから……3ヶ月前になるのか……正月休みは、急な海外出張が入ったとかで、海斗は、神戸には、帰省出来なかった。
海外出張じゃ、神戸から会いに行くことも出来やしない。
ほんと、面倒くさい。遠距離恋愛、って奴は。
そもそもだ、あたしたちは、高2から恋人関係になったってのに、大学だってあいつは「京都で、学生生活を送ってみたい!」とか言って、それで、あたしじゃ、とても反対出来ないような良い大学に合格して、こっちは、神戸にも、たくさん大学があるじゃないの、と親に言われ、親の反対を押し返して、遠方の名門国立大学に入れるほど、頭が良い訳でなく……
結局、葵は、ポートアイランドにある大学に進学して、遠距離と言うより、中距離恋愛、みたいな恋愛を続けていた。
そして就活……これも結局、海斗は、東京に本社がある財閥系の商社から内定を貰って、東京本社にて研修。
そして、若手は地方営業所から鍛える、等とかの会社理由で、金沢配属。
海斗曰く、貴族文化の京都も良いけど、武家の文化の金沢も、なかなか趣きがあって良いよ〜とか、あたしじゃ、絶対感じ得ない感動とかしてるし……。
そもそも、あたしと一緒に居たくないの……と、今でも、海斗が何を考えているのか、葵は、捉えどころのない、ぼんやりとした不安を感じる時があった。
でも、やっぱり好き……なんだよね。彼のことが。
金沢営業所で数年間の新人修行が終わって、東京本社に栄転した海斗とは、今でも、神戸ー東京の、遠距離恋愛。
いつまで、待たせるつもりだよ……こっちは、もう、東京に行くこと、腹くくってんだぞ!
二十代最後の頃、あまりに、煮え切らない彼に業を煮やし、少しの間、別れてたものの、結局元サヤ……とはいえ、もう、あたしは、三十代半ばになってんだよ……察しろ!察しろ!
なんで、結婚とかの話が出てこないわけ?私たちの間に。
葵は、時々思い出す。
あの阪神大震災の時、小学生だったあたし達、ただのクラスメートだったあたし達は、友達になったと。
そして、恋人になったことを。
1995年1月17日。
この日の、夜明け前の時間……午前5時45分。
街全体が、寒さの底に沈んでいて、葵も、普通なら寒暖色の温もりの中に包まって、朝の目覚めの待合室にいるような、微睡みの中の時間。
しかし葵は微睡みから覚醒して、かすかな尿意を催し……1月の夜明け前みたいな寒い時間……出来ることなら、暖かいお布団から出たくない……
でもおしっこも行きたくなってるし、このまま二度寝して、うっかり、おねしょなんかしてしまったら……。
流石に小学校四年生で、そんな幼稚園児みたいなことになったら、みっともないな、ということで、程良い温もりのお布団から出るという一大決心を成し、自宅二階の寝室から一階のトイレへと、肌寒さを耐えながら降りて行き、便座に座っていた。
寒い、寒い、それに……やっぱり眠い、眠い、眠い、zzz
葵は、欠伸を嚙み殺しながら、学校に行くのに起きる時間は7時だから、もう少し、二度寝出来そう……とか考えてた瞬間、身体がストン……と、一瞬、エレベーターで、下の階に降りていったような感覚。
え……!?
懸命に、今起きている現象を把握しようと、神経を集中させていたその時、激しい横揺れで、トイレの中が、左右に大きく揺さぶられた。
トイレのサッシが、ギシギシと音を立てる。
ーーえええ!!何なの!?一体何なのよ、これ?
トイレに吊るしてあるタオルが、公園のブランコのように、左右に大きく揺れる。
激しい揺れで、上の戸棚が、バタン!と大きく開き、予備のトイレットペーパーやら、詰め替え用便座クリーナーやらが、葵に向かって降ってきた。
ーー地震だ!!!
学校で習った通りに、身を隠したいけれど、トイレで地震に遭遇した場合なんて、学校で習わなかったぞ……。
仕方なく葵は、両手の手のひらを、トイレの左右の壁に押し付けて、体のバランスを保とうとした。
家が破壊されそうな、まるで、巨人が家を持ち上げて、戯れに家を振っているんじゃないかと思うような凄まじい揺れだ……
暫くすると、パッパッと電気が点滅した後、明かりが消えて、トイレの中は、真っ暗になった。
が、地震の揺れは一向に収まらない。
トイレの中は、漆黒の闇に包まれ、葵は、一段と不安感を感じる。
やがて、その揺れは徐々に収まり、キィキィと、トイレのタオルホルダーが、左右に揺れる時に発する不協和音だけの空間となり、程なく、暗がりだけの世界になった。
(助かった……みたい……)
葵のいる場所は、真っ暗闇。
電気の落ちたトイレの中。
たまに、ママが、私がトイレにいることに気が付かず、電気を、消されちゃったりすることもあるけど、その時でも、窓から街灯の光が入ってきて、真っ暗闇、ってことはなかった。今は、外の街灯も、全部、落ちてる。
でも不思議なもので、怖いとか、そういう感覚は全く無かった。
パパとママは、大丈夫だったんだろうか……
怖さより先に、パパとママの事が心配になってくる。
葵は、トイレから出て、二人の安否を、確認しようとした。
トイレのドアは、地震で歪みが出来たせいか、少し開け難い。
「パパ……ママ……大丈夫?」
ドアを開けて、トイレから出ようとすると、ママは、リビングの中から、大きな声で、葵に呼びかけて来た。
「まだトイレから出ちゃ駄目!」
ママも、取り敢えずは大丈夫そうだ……と思うも、普段、穏やかな母が、叫ぶように葵にトイレから出るな、と言っているので、一瞬、葵は、動きが止まる。
「葵ちゃん、食器棚のグラスやお皿が割れちゃって、床のあちこちに、破片が散乱してる!ちょっと待ってて、直ぐに、そっちに、スリッパを、持って行ってあげるから」
普段の、優しい口調のママの声になって、葵は安心した。
しかし……ママ、今、そこにいるって、またリビングで寝ちゃってたの?
ほどなくして、ママが、暗がりの中をゆっくりと歩いて来て、スリッパを葵に手渡した。
スリッパを履いて、廊下に出る……キッチンのあたりを歩くと、確かに、ママの言った通りのようだ。
コップやお皿が破片が、床一面に散らばっているようで、一歩一歩、歩くと、スリッパを通しても、足の裏で、その破片らしきものを、感じることが出来る。
ママが教えてくれなかったら、グラスやお皿の破片で、足の裏をグサリと、やられてただろう……
パパが、防災用のラジオを片手に持ち、もう片方の手で、懐中電灯を照らしながら、2階の寝室から降りてきた。
「おお、葵、そこにいたのか、ちょっと待ってろよ。もう一つ、懐中電灯があるから、ちょっと待ってろな」
パパも、怪我とかしていないようだ。
パパが持ってきた懐中電灯の明かりで、家の中の状況が、うっすらと、確認出来るようになる。
食器棚は、キッチンの真ん中で、扉が開いた状態で、横倒しになっていて、全ての食器類が、飛び出したようだった。
リビングにあるテレビも、前向けに倒れ、本棚も横倒しになって、本棚のガラス扉に、ヒビが入っている。
トイレの中での揺れで、大きい地震だということは、分かっていたけど……こうして部屋の中の状況が分かると、かなりの規模の地震だったことが、わかる。
「ちょっと、あたしの部屋、見て来る」
葵は、自分の部屋がどうなっているのか、気になって、パパの懐中電灯を借りて、足元に気を付けながら、階段を駆け上がり、自分の部屋に戻ってみた。
ーーえええ!!
ここになって、葵は、初めて悲鳴らしきものを、あげた。
それまで、何が起こっているのか分からずに、悲鳴を上げるのも忘れていた葵。
自分の部屋を見て、驚きで、悲鳴に近い声が、喉元から出てしまった。
キッチンとリビングが、相当酷かったので、自分の部屋も予想は出来たものの……。
実際に確認すると、部屋の中のメチャクチャ度合いに、心底、驚かされる。
激しい横揺れの影響だろうが、自分の勉強机が、部屋のど真ん中にあって、机の棚においてあった教科書やら、参考書やらは全て、部屋の床に散らばっていた。
勉強机の傍に置いてあったパソコンとディスプレイが、何故か葵のベッドの上に、ごろん、と転がっている。
パソコンラックから、ベッドまで、飛ばされて来たらしい。
寝ている時に、パソコンとブラウン管モニターが、飛んできて、頭に直撃なんかしてたら、頭を縫わなきゃならないような、大怪我だっただろう。
部屋の惨事を見て、思わずぞっとする。
パパとママは、災害に備えて前に買っておいたトランジスタ・ラジオをつけて、この地震の情報を、得ようとしていた。
ーーこの……地震による……津波の心配は……ません…震源は、淡路島で、大阪で最大震度4を記録し……ります……
アナウンサーの、抑揚のほとんど無い読み上げだけが、部屋の中に響いている。
淡路島……ここは神戸市の長田区という、淡路島からは、少し離れているはずなのに、ここまで揺れが凄いって、神戸全域で、かなり被害が出てるんじゃないだろうか……などと考えていた時ーー
ガスの臭い!?
今、鼻をついた臭いは、ガス漏れの時の臭いだ。
蝋燭を準備しようとしていたパパも、思わず手を止めた。
「おい、ガスが漏れているぞ、あぶない!直ぐに窓を開けて、換気するんだ!!」
パパの慌てた声に、思わず驚いて、直ぐにリビングの窓を勢いよく開けた。
ーー!?えっ?……えええ?!
窓を開けると、もっと酷いガスの臭いがする!!
このガスの臭いの元は、家の中のじゃない!家の外の方のが、ガス臭いんだ!
家の外の、ガスの充満した臭いを嗅ぎ取って、みんな、これは極めて、危険な状況に置かれていて……そして、パパとママも葵も、その恐怖を感じ始めた。
パパが、はっとして、口を開いた。
「二人とも……すぐに上着を着て!避難するぞ。ここにいちゃ、危ないんだ」
パパ、葵も、もう状況は分かってるよ!
葵は、再び、二階の自室に戻った。
ベッドの側に置いてあったカーディガン。
取り敢えずの防寒用にカーディガンを羽織って、パパは、避難袋を持ち、ママも、ボストンバッグに、急場を凌ぐようなものを詰め込んで、葵の家族は、一旦家から避難した。
遠くの方で、火の手が上がり始めていた。