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元の理考察  作者: 東雲之東風
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第一部解釈篇  【段落・二】

  【段落・二】

『そこで、どろ海中を見澄まされると、沢山のどぢよの中に、うをとみとが混つている。夫婦の雛型にしようと、先ずこれを引き寄せ、その一すじ心なるを見澄ました上、最初に産みおろす子数の年限が経ったなら、宿し込みのいんねんある元のやしきに連れ帰り、神として拝をさせようと約束し、承知をさせて貰い受けられた。』


 【段落・二】で先ず重要なのは「そこで」である。

続いて二回目の「どろ海」が出て来るのであるが、初めの「どろ海」とは時間差及び場面が違うことが解るのである。

 ビッグバン以降、時間や空間、素粒子が発現し、素粒子が集合し種々の原子が形成され、原子が集合し分子となり、分子が集合して様々な物質へと変化し、その物質同士が集合分散を繰り返し、原初の銀河、どろどろとした灼熱のマグマの流動体の塊のような原初の惑星を形成し、その惑星の地表に原初の海及び生命が誕生するまでの時間が「そこで」の間に経過していると考える。人間の感覚からすると途方もない時間経過であるが、神から見るとその程度の時間なのである。

「そこで」とは❶前述の事柄を受けて、次の事柄を導く。そういうわけで、それで、だから。❷話題を変えたり、元に戻したりすることを示す。さて、ところで。とある。

 時間差があるとしたのは、神が人間の完成した姿を想像するのにかかった時間と、「見澄ませば」にかかる時間である。見澄ますとは、辞書に❶気を付けて見る、心にとめて見る。❷見て確かめる、見届けるとある。神の目をもってしても、気を付けて見なければならない程であるという事は、それ程それらの生命体が小さかった訳であり、また、時間をかけて見届けなければならない程の種々の不確定要素を含んでいたと考えられる。不確定要素とは、突然変異とそこから発生する進化である。 

 場面が違うとしたのは、「どろ海中を」としており、「中」と言う空間の認識が発現している点である。空間が発現していると言う事は、原初の地球に生命体が誕生できる空間が出来ていた訳である。

つまり、神の想像は現実の創造となるという事である。人間の創造を想像した事が生命誕生へと繋がっている訳であり、平凡な表現になってしまうが、この生命誕生こそが、神にしか出来得ない奇跡である。只の物質の集合体であったものが生命をもつ生物へと変化したのである。

そして、これら以降の生命体を理解する上で必要なのは、これらの呼び名が原初生命体の形態、生態、性質等を喩えて示されているという事である。つまり「うを」も実際の魚ではない。「み」も蛇ではなく、「どぢよ」も泥鰌ではない。これは冒頭に示した理由による。

また、以降登場する生命体が、人間を創造する上で不可欠な元となるものであったと言う事が解る。

 続いて、「どぢよ」、「うを」、「み」、各生命体の個体数の差である。

「どぢよ」は沢山である。神から見て沢山という事は、どろ海中はほぼどぢよで占められていたという事である。

この沢山居た「どぢよ」が光合成を行い、現在の地球に酸素をもたらしたのである。ここから見られる様に、個体数の多い順に示されていると思われ、うをとみはほぼ同数で極少数であろう。更に、これらの生命体の発現順序でもあるかも知れなが、ほぼ同時に発現した可能性もある。これは私には解らない。

 次に、夫婦の雛型とするため、「うを」、「み」を引き寄せている。ここで、既に「夫婦」とある事から、雄性・雌性の区別と、それらによる有性生殖により増殖してゆく事が確定づけられている。

二種類の生命体を合わせることにより、次々と色々な種類の生命体が発現及び進化、成長をしてゆくという事である。雛型とは、❶実物を小さくかたどったもの、模型。❷様式、書式、手本とある。

 続いて、両者の性質を神は見ている。前回同様「見澄まし」ている。時間がかかっているのである。極小のものの更にその中を隈なく見たのであろう。そして性質を「一すじ心」と言っている。ひとすじとは❶細長いものの一本。❷それだけに専心するさま。とある。ただ一筋ではなく「一すじ心」としている。

つまり、両者の生命活動が永遠に単一的な動き及び、分裂等により同じものが繰り返し複製され続けるだけであったと推測できることに加え、心も存在していた訳である。

 ここで、私は一つの疑問を持つ。何故沢山居た「どぢよ」ではなく「うを」と「み」を雛型に選んだのかである。

私の考えとしては、両者には、現在総ての生物の中に存在する二重螺旋構造、遺伝子・DNAの前進である一本鎖構造、RNAの元を持っていたのではと「一すじ心」の言葉より推測するのである。これこそが、雛型として「どぢよ」ではなく「うを、み」を選んだ一番の理由と考え、更に、両者がある程度の機動性も備えていたためではないかと推測する。根拠は、「引き寄せる」である。動かすことが可能であったという事が解り、動物細胞への変化が可能であったと考える。

 そして、呼び寄せた両者に対し説得を行っている。神であるからその心までも思い通りに支配するのは可能である筈であるが、説得をしているのである。つまり、心は自由のままなのである。

この理由は、神にも心がある以上それらの生命体にも心の自由を与えたのだと考える。また、育んでゆく過程も親として楽しむためとも考えられる。

ここには記されていないが、その説得に対し、両者は断りの返答を幾度も神に対してしている。幾度も断ったとする理由は、「引き寄せ」「承知をさせて」である。両者の意思とは関係なく、引っ張って来られ、承知をさせられたのである。また、教祖の道中を記した各書物に、神が最初にこの世に現れた天保九年十月二十三日から二十六日までの神と家人達との遣り取りと、神の社となった教祖が、自ら命を断とうとした事が幾度かある事が記されているからである。つまり、度重なる神の説得に承服させられたのであると推測する。「承知をさせて」ということから、説得も「はい」と言うまで続けられるのである。

神は、「最初に産みおろす子数の年限が経ったなら、宿し込みのいんねんある元のやしきに連れ帰り、神として拝をさせよう」と説得をし、承知をさせた両者を貰い受けたのである。

また、ここより物事の順序が定められ、「順序の理」という事が発現したものと理解できる。

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