はじめに
〖第一部・分割解釈篇〗
《はじめに》
今からお話しするこの「元の理」とは、天理教教理の根幹をなす最重要部分です。ただ、私は、決して信仰や神を皆さんに押し付ける意味でこれを記したのではありません。この世、自然界の人間が平穏に生きて行ける法則を知って頂きたいと思ったのです。この話しに触れ、その一端でも心に納まって心を入れ替えた時「人間は生きながらにして生まれ変わる」と教えられています。その入れ替えた心を神が受け取り、人生を切り替えてくださるのです。
この話は、一般の方々からすると、荒唐無稽とも嘘であるとも思われるかも知れません。物質的、教育水準的にも豊かになった現代社会においては宗教を大変否定的に捉える方々が多くなりました。しかし、その一方特に先進国においては心の病を抱える人々や、人生の指針となる心の拠り所を求める人々が急激に増加しているのも事実です。こと日本においては毎年三万人以上の人々が自ら命を絶っています。これは、先進国の中で最多です。
実は、私も「人間は、何のために生きているのか」という疑問を漠然と持ち続けながら生きている一人です。多くの方々が私の様に、日々様々な疑問や問題を抱えながら現代社会を生きていると思います。
私も小さい頃より様々な神々の話に触れ、また、多くの指針となりそうな話や言葉を耳にして来ましたが、どれもその一時は感銘を受けるものの、心の中にしっくりといつまでも納まるものはありませんでした。しかし、この話を聞いた時は違いました。理解出来ないにも関わらず、心の中に残り続けたのです。
そして、やっとこの話がある程度理解出来るまでに至った時、この話こそその様な日々を生き続ける方々の疑問解決の一つの糸口となると確信し、これを記してみようと思い立ちました。私自身、疑問が全て解決している訳ではありませんが、自身の心の整理の一端としても始めた次第です。
このお話は、宗教、信仰と捉える以前に、この世自然界の真実の摂理として世界の多くの方々に知って頂きたいと只々私は考えています。
何故ならば、人間は何故この世に生まれたのか、また、こうして生きてゆけば日々満ち足りた平穏な心で生きてゆけるのだと言うことを明確に示してくれているからです。その様な話は、この話以外には無いと私は思っています。
この話は、「こふき」「この世元はじまりの話し」「泥海古記」などとも言われ、教祖の「こふきをつくれ」との言葉より、教祖が話していたこの世人間の元始まりに関する話を、教祖に近い信者者達が書き留め、それらを集成し出来たものです。 これは、当時信者となった人々に教祖が聞かせた話で、読み書きが出来ない人々にも理解できるよう、解り易く喩え話しとして聞かせた話しでした。
最も重要なのは、この話を教祖がをその当時に語っていたという事実で、片田舎の一老婆が、当時の最先端の学者でさえ知り得ない事をこうして語っていたのです。この話において最も驚愕するのは、他の宗教に見られる様に、いきなりこの世や人間が創造されたのではなく、人間が水中に生息するほんの小さな生命体から段々と成長、進化をし、その進化に合わせてだんだんと世界も形作られたと明言している点が挙げられます。
教祖が在世の時代、チャールズ・ロバート・ダーウィン、アルフレッド・ラッセル・ウォレスの共著により「種の起源」が発表されたのが1859年の事で、片田舎の一老婆がこの様な事を語っているのが不思議としか表現出来ず、教理としての最重要部分がこの「元の理」であると私は感じました。つまり、この「元の理」こそが、この世人間を創った真実の神である証拠なのだと理解できたのです。
私は、他の宗教を否定するつもりは決してありません。全ての神は元は一つであると思っています。それと言うのも、神の言葉の中に、その時々の人間の成人に応じて、人間が理解できる範囲の教理を時の賢聖と呼ばれる人々に説き聞かせて来たが、最後の「元の理」はこの世の表に現れ出るまで語らなかった。「元の神、実の神」がこの世に現れた証拠として、この話を説き聞かせ、世界一列を助ける。と言われているためです。
特に起源の古い宗教では、文字や言語も現代のように完成されておらず、時代を経るにつれ筆記、転写に際しての誤字、誤植や誤訳、後世に受け継いだ人々の考え等が付与されて現在の教理になっていると容易に考えられるためです。なので、現在は種々に分かれている宗教も元は一つと私には考えられるのです。
最後に、宗教とカルトは全く別ものであることは断言しておきます。カルトは断じて宗教ではありません。偽物ほどいかにも入り易く間口を広げているのです。また、御利益信仰も信仰ではありません。
更に、いかな理由であれ、他者を傷つけて良いなどと説くものは教理を自分勝手に曲解した紛い物、異端に過ぎないことも付け加えておきます。
しかし、現代の人々に宗教とその他を明確に区別できるよう説明出来ていないのは全ての信仰者の責任でもあると私は考えています。
前置きが長くなりましたが、先ずは現在語られている「元の理」の原文をそのまま掲載したいと思います。