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杞憂の猫

作者: エカMo

「――試験内容はこうだ。まずはこの一時間で十回、時を止めてみることだな」


 高校のトイレなんて場所にはにあわない、しゃがれれた声がそう言う。

 僕は不審者かと思ってとっさに身を隠したが、結果としてその判断は間違ってはいなかった。恐るおそる顔を覗かせると、いかにもといった格好をした老人がいる。あからさまに怪しい。そしてもう一人の彼は確か、同じクラスの佐藤のはずであった。

 ここのトイレは僕以外のだれも使ったのを見たことがなかったので、人と話すのが苦手な僕は絶好の隠れ家としてつかっていたのだが、まさか先客がいたとは。そんな状況と、老人が先ほど漏らしていた『時を止める』ということに若干の興味を覚えて、俺は引き続き身を隠して聞き耳を立てることにした。


「――、わかりました。それさえできれば合格なのですね」

「そうだ。なに、難しい話ではあるまい。今まで教えたことを実践すればいいだけだ」

「そうですね。やります。やらせてください」


 その目にやる気を燈して佐藤はこたえた。老人は深くうなずくと、そのとたんにふっ、と唐突に消失した。なんのまえ触れもなく、忽然と僕の目のまえから消えたのである。

 トイレに入ってからというもの、僕は二人から目をそらさずにいたし、見失う瞬間なんて僕は老人を凝視していたというのに、それでいてなお老人は、僕が全く気づけないままに消え失せたのである。

 一体どうやったのだろうか。僕にはとんと見当もつかなかった。しかけといったものは見あたらなかったし、はっきり言ってあの老軀ではそんなに機敏な動きができるとも思えない。ワープ……、いや、瞬間移動(・・・・)ということばがしっくりときた。話題から照らしあわせても、時間をとめての瞬間移動のほかに言いようがなかった。

 僕は愕然とした。時をとめるだなんて不可能だと言われていると小耳にはさんだことがあるし、そんなことありえないと思っていた。しかしこうしてその怪異を目のあたりにしてしまうと、むしろどうしてそれを不可能だと言いきってしまうのか、現代科学そのものに対する不信感すらわいてくる。

 とにかくこのときの僕は、その謎を――、つまり、佐藤や老人がほんとうに『時止め』をできるのか、それを究明しようと躍起になった。

 さっきの佐藤にもまけないほどのやる気の炎を両目にともして、僕は踵をかえすと大股で教室までむかっていった。まだ佐藤には僕が『時止め』に興味があると悟られてはいけない。あやしまれてしまえば、よけいに僕が遠ざけられてしまうかもしれないのだ。時間がとまるだなんて文字通りの超常現象をみられるチャンスを、みすみすのがしてしまおうとは思わなかった。

 トイレから教室の距離はそこそこ遠いのだが(だからこそ僕はひとりでいられたのだが)、その道のりがちょうど、僕にとって探求の欲望と重なった。とにかく、先へ先へ。本のページをめくるように、僕は歩みをすすめた。

 扉に手をかけた。まっすぐに自分の席へと座った。なにごともなかった風を装い、片肘をつきながら小説をひらいた。ウェルズの『タイムマシン』だった。僕は奇妙な運命を感じながら、ほころびそうな頰を表情筋自身でおさえつけた。

 数分待つと、佐藤も教室にはいってきた。恋をしているのかと錯覚するほどにまで心臓が跳ね上がった。彼自身も、落ちつかないようすをかくすように、どこかぎこちなくみえた。僕は気づくと固唾をのんでいた。荒野の決闘を彷彿とさせる緊張感を、すくなくとも僕は感じていた。

 ――もうすでに、時間がとめられているのかもしれない。僕は目を皿にして、どんな微細な違いですらも観測しようとした。しかしすべては刻一刻と変化していた。そのどれが『時止め』によるものなのか、まったく見当がつかなかった。

 教科担任がはいってきた。彼が教壇に足をぶつけたとき、あれこそが、と思った。どっと笑う教室の中で僕だけが笑っていなかった。「いや……二日酔いですかねぇ」と先生が言うと、再び教室が笑った。それのなにが面白いのかわからないほど、僕は僕の中で勃発した、僕と佐藤との『時』を巡る戦いに没頭していたのだ。僕は一瞬の思考の末、佐藤のせいかどうかの判断を保留にした。考えている隙に時間を止められていたら目も当てられないからだ。

 神経を研ぎ澄ましていた。チョークを黒板に打ち付ける音も、換気扇のファンの音も、蚊の鳴くようなか細い声も、誰かのくしゃみの音も、とにかくなんでも『時止め』の証拠になるかもしれないと思うと聞き逃してはいられなかった。脳が焼け切れそうだと思った。からだ中の穴という穴から、汗がところてんのように出ていくのを感じていた。

 吹き出た汗は、僕の頬をくすぐった。焦らすように輪郭を伝うのを、僕は耐えきれずに指先で拭った。

 せわしなく情報が錯綜していた。六つの感覚を総動員していた。教室に渦巻く空気。音が鳴っている。長針が動いた。光が入る。長針が動いた。身体が振える。長針が動いた。拍動が煩い。短針が動いた。息苦しい。長針が動いた。渦巻く狂気。長針が、滑った。鐘が鳴った。鐘が鳴った。


 鐘が鳴っている。


 まさしく僕と佐藤との対決の終焉を示すように、鐘は僕のなかで鳴りつづけていた。


 僕は授業もそっちのけで、大きな音を立てて佐藤のほうを向いた。周囲の驚く声。そんなものはおかまいなしに、僕ははじめて、佐藤の顔を正面から見た。

 彼もこちらを一瞥したが、その表情は僕の必死の形相とは対照的に、まるで僕のむだな努力をあざ笑うかのようにみえた。『時止め』のとっかかりをなにもつかめていない僕を馬鹿にするような表情。あるいは――、あるいは、ハナからそんなものなどないというのに、必死になって探っていた僕を哀れむようにも見えた。佐藤が僕の思惑なんて知るよしもないので、これは僕のまったくの被害妄想のはずなのだが、一時間にもわたる神経衰弱によって僕は正常な判断能力をうしなっていたにちがいない。

 そうだ。意味もなく、(あだ)として疲れているのだ。僕はふと、そう悟った。現に、証拠なんてひとつもあがっていないではないか。一時間のうちに十回も『時止め』があったはずなのに、ただの一度もそれが起こったと気づけなかったのだ。そんなことおかしいだろう。

 僕の酷使された脳細胞が最後にカッと光った。そのおかしさに順応するように現実が構成された。


 なんだ。時止めなんてないじゃないか。


 嘲笑が漏れた。

 そうだ。もとより科学は正しかったのだ。それをわざわざ疑ぐる僕に対して、あまりにも滑稽だという感想を抱いた。

 そう思うと、肩の力が抜けてしまった。考えてみれば、彼はトイレであの老人と演劇の練習でもしていたと考えたほうがまだ現実味があった。あるいは元からあそこには老人などおらず、僕の見間違いだったのかもしれない。なんなら僕の記憶が混濁しているだけで、もとより僕はトイレに行ってすらいないような気すらしてくる。

 とにかく、そんな馬鹿らしいことに精神をすり減らしていたなんて、それこそ馬鹿らしいと感じた。僕はひとつため息をついてかぶりを振ると、さっきまではそれどころではないと思って進まなかった板書の続きを写していった。


「……あれ、蛍光ペン、どこに置いたっけ」    

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