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アパートの前の道路で信号待ちをしながら、僕は頭を振る。
ダメだ、どうやったって思い出せそうにない。こういうことは時間に任せよう。いつの日かひょいっと思い出したらいい。
割りきってふと前を見た。周りの家屋より少し背の高いアパートがここからでもよく見える。
その屋上に、僅かに違和感を感じた。目を凝らし、その違和感の正体に気付いてしまった僕は危うく悲鳴を上げかける。
人が立っていた。
普段僕はこんな光景に遭うと人か幽霊か見極める間ハラハラするのだが、今回はそんな必要は無かった。
髪が異様に白かったのだ。
歳をとって白くなったという感じではなく、まるで元からのような色。風で揺れるそれは息をのむほど美しかった。
よくよく見ればその人は着物を着ていた。首に青い布を巻き付け、藤色の着物の上に白い上衣を引っかけている。今の時代からそこだけすっぽり抜け落ちたように、その人は背筋をしゃんと伸ばし立っていた。
遠くても分かる凛とした横顔。人とも幽霊とも違う雰囲気。あの人は一体何だろうと見惚れていると、ふっと顔がこちらを向いた。
深い紫色の目がしっかりと僕を捉えた気がした。
真っ白な髪をなびかせ、その人は屋上から飛び降りた。僕は声を上げる暇も無かった。
姿が消えた後、何の音もしなかった。対して僕の心臓はばくばくとうるさいくらい鼓動を刻んでいる。
落ちた。
口の中が異常に渇いている。冷や汗が伝う。
あの人は本当に人間じゃなかっただろうか。人間だったらあんな高さから落ちて平気なはずがない。良くて骨折。悪くて…
想像したのが間違いだった。悪寒が背を這い上がる。
信号が青に変わった。僕は急いでアパートへ駆け出す。
今から救急車を呼んだら間に合うだろうか。間に合ってほしい。もしかしたらあれは幽霊やその他でも何でもなくただのコスプレイヤーかもしれないのだ。コス
プレをしたまま死ぬという精神があるのかどうかは知らないが、命は粗末にするものではないし助かるなら助けたほうが良いに決まっている。
念のためすぐに電話が出来るように準備して、敷地に飛び込んだ。さっきの人が落ちた辺りに走る。
死体も怪我人もそこにはいなかった。とりあえず安心した。植えてあった木がクッションになったかもしれないと見上げるが、枝は折れていなかった。まるで何事もなかったかのようだ。
さっきの人はやはり幽霊だったのだろうか。数年前まで僕の部屋に住んでいた住民かもしれない。
よくよく考えてみれば、僕があの人の顔を認識出来たのもおかしい。
道路からアパートの屋上までは距離も離れているし高低差もある。
それなのに僕はあの人の視線をはっきりと感じたのだ。あの鋭い、射抜くような視線を。
じわりと薄気味悪さが沸き上がってきた。忘れることにしよう。軽く頭を振った。
《殺してやる》
声がした。
「今は相手する気分じゃないよ…」
僕は誰にともなく呟いた。