決着
ニヴルヘイムを囲む崖の上には無数の魔物が群がっていた。
まるでニヴルヘイムに雪崩れ込むのを今か今かと待つように。
「一体どういう事だ?今はまだ空に月が昇っているというのに……」
スクルド達に続いて外に出て来たウルドやレギンレイヴ達も、その光景に唖然としている。
「ロキ……」
苦々しく吐き出された声にスクルドが振り向くと、ウートは顔をしかめ、ある一点を凝視していた。スクルドがウートの視線の先を辿ると、群れる魔物達の中に人影が見えた。
それは紛れもなくロキとその仲間達だ。ロキの手は何やら黄緑色に輝いている。
「ロキが持っている黄緑色の光は太陽の石です」
「あれが……」
ロキの手の中で太陽の石は炎の様に黄緑色の光が揺らめいている。その輝きはウートの瞳の色と同じだ。
ロキの周りは光に誘われるかのように次々と魔物の数が増えていく。
すると突然、辺りにエインエヤルの声が響いた。
「つ、月が!月が消える!」
その声にスクルドとウートは空を見上げた。細い三日月となっていた月は更にその姿を細くしていた。
僅かに残っていた姿が完全に闇に染まった時、辺りに凄まじい雄叫びが上がった。鼓膜が破れそうな程の声に皆は耳を塞ぐ。
雄叫びが収まったと思うと、今度は地の底から涌き出て来るような地響きが聞こえてきた。
それは崖の上にいた魔物達がニヴルヘイムの中へと入って来ようとする足音だった。
ウルドは辺りにいるエインエヤルに聞こえるように声を張り上げる。
「全エインエヤルに告ぐ!直ちに住民をエーリヴァーガルに避難させ、魔物達を排除せよ!奴らに侵入を許すな!!」
ウルドの声に、今まで唖然としていたエインエヤル達が一斉に動き出す。
そして駆け出そうとしていたウートをウルドが呼び止める。
「アルヴィド!」
ウートが振り返った時、何かがウートに向かって投げられた。ウートが慌てて受けとると、それは黒い爪に変化する腕輪だった。
捕まる前まで使っていた武器を手にし、ウートは驚いた様にウルドを見上げる。
「行けアルヴィド。奴を止められるのはお前だけだ」
「……はい!行きましょうスクルドさん」
「うん!」
腕輪をはめたウートはスクルドと共にロキの元へ駆けていった。
ウートとスクルドの二人が走って行くのを見届けた後、ウルドはエインエヤル達に指示を出すべく、エーリヴァーガルに戻って行った。
この場に残ったのはレギンレイヴとスリヴァルディ達三人だ。
「……あんた達はアルヴィドに付いて行かなくていいのかよ?」
「俺達が行っても足手まといになるだけだ。……それにお前達と共に戦うと約束したしな」
ヒルドが聞くと、スリヴァルディがニヤリと笑って答える。
「こりゃ暴れがいがありそうだな!」
「あれを全部掃除すればいいんだろう?さっさと始めようじゃないか」
既に戦闘体勢を整え、歩き始めているスリヴァルディ達にエイルが苦笑を漏らす。
「頼もしいわね」
「うん、まあ……敵じゃなくて助かったよな……。俺らも行きましょう、隊長」
「ああ。何としてでもニヴルヘイムを守るぞ」
シグルドの声を合図にヒルドとエイルは魔物の群れへと向かう。が、前方で自分達よりも先に魔物の群れへ向かっていた筈のスリヴァルディ達が何故かそこで立ち止まっているのにヒルドとエイルは顔を見合わせた。
「おい、何かあったのか?……お前ら……」
スリヴァルディ達に声をかけると、ヒルド達は三人の前にロキの仲間達が立ちはだかっているのに気付いた。
「あんたらも裏切り者だったんだな。どけよ。邪魔するならあんた達も容赦しないぞ」
「我々もここを退くわけにはいかないのだ。ロキの邪魔をさせる訳にはいかないのでね」
「気を付けろよ。こいつらただの人間じゃねえぞ」
「それでも、やるしかないわね」
「ここで時間を潰してる暇はないよ」
五人はそれぞれ武器を構え、目の前に立ちはだかるフェンリル、ヨルムンガンド、ヘルに立ち向かって行った。
***
ニヴルヘイムの外へと出たウートとスクルドは次から次へと襲いかかって来る魔物を倒しながらロキの元へ向かって行く。
するとあれほど魔物で溢れ返っていた場所から突然魔物の姿が途切れた。
前方には太陽の石を手にしたロキの姿がある。
「来ると思ってたぜ。ウート」
「ロキ、お前が魔物達を呼んだのか」
「ああ、そうだ。炎を出す以外にも出来るんだぜこの石」
ロキはこの場に似つかわしくない程、楽しそうにケタケタと笑っている。
その様子にウートは拳を握り締めた。
「……太陽の石を渡せ」
「心外だな。俺とお前はそこそこ付き合いが長いと思ってたが……お前は俺が素直に物を渡す奴だと思ってんのか?」
ロキは手の平で黄緑色に輝く太陽の石を遊ぶ様にコロコロと転がしている。
ウートは黒い爪を構え、ロキに向かって走り出した。
「そうだ!殺す気で来いよ!」
ロキは黒い爪を湾曲した刀身の剣で受け止める。ニヴルヘイムでは見たことのないその剣はムスペルヘイムでの武器だろうか。
「昔から変わってねえな。慎重すぎて力を出し惜しみする所がよ!」
ロキが黒い爪を受け止めた時、ロキは左手から炎を放った。
「!」
ウートは咄嗟にロキから離れたが、炎は容赦なくウートを包み込んだ。
しかし炎が勢いを無くすと、炎に包まれた筈のウートの体は氷に覆われていた。氷は水となり、地面に落ちる。
「ああ、すっかり忘れてたぜ。あんたが月の石の主だったな。スクルド・ノルン」
ロキは薄く笑みを浮かべ、ウートの隣で青白い光を放つ石を携えたスクルドに目をやる。
「なあ、スクルド・ノルン。大人しく月の石を差し出したらこの魔物の大軍を今すぐ消してやるぜ」
「誰があんた何かに渡すもんですか!あんたは石を手に入れてどうしようって言うのよ!世界を征服しようとでも思ってんの!?」
「世界を征服ねえ……そんなつまんねえ事よりもっと面白い事を俺はしたい」
「面白い事……?」
ロキの言葉にウートの表情は険しくなる。その表情を見て、ロキは禍々しいまでの笑みをその顔に刻む。
「終焉だ。この世を終焉に導くんだよ」
終焉、つまり世界の終わりを意味している。ロキはこの世の終わりを望んでいるのだ。
「そんなことは……させない!!」
ガキンッッ
ウートは黒い爪をロキに向かって繰り出した。黒い爪には氷の膜が張られている。ロキは剣で黒い爪を受け止めた。
「お前は間違ってる!世界が滅べばお前も死ぬことになるんだぞ!」
「それでいい。何もかも滅んでしまえばいいんだ!人も国もこの石も!」
ロキは黒い爪を弾くと、ウートの首に目掛けて剣を振るった。
だがそれは目の前に現れた氷に覆われた拳によって阻まれた。
「そんなこと絶対にさせない。この世界はあたし達が守る!!」
ロキの剣を止めたスクルドから青白い光が溢れた。
光は辺りを真っ白に染め上げようとしていた。
「くっ……負けるかよっっ!!」
目の前にかざしたロキの手に氷が張り付いて行く。しかしその氷は直ぐに溶かされ、蒸発した。
ドオオオオオオオンッッ
月の石の氷の力と太陽の石の炎の力が渦となってぶつかり合った。
「くっ……」
凄まじい力のぶつかり合いに耐えられず、スクルドの体が後ろへ押される。思わず顔を苦しげにに歪めると、その背に手が添えられるのに気付いた。
「大丈夫です。僕もいますから……一緒に戦いましょう」
スクルドはウートの声に頷くと、全身に力を込める。
「いっけえぇぇぇぇぇぇ!!!」
青白い光は更に膨れ上がり、ロキの体ごと包み、辺りに広がった。
「何だと!?あああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
光はスクルドの視界ごと真っ白に染め上げていった。
気付くと目の前には真ん丸な月が浮かんでいた。起き上がろうとすると、身体中がズキズキと痛んだ。
意識が無くなる前、体が地面に叩き付けられたのを思い出した。
スクルドは痛みを堪えて上半身を起こし、ウートの姿を探す。するとウートはスクルドよりも後ろの方で倒れていた。
痛む足を引きずる様にしてウートの側に向かった。
ウートの隣に座り込むと、スクルドはウートの息を確かめる。口元に耳を近付けると、しっかりと息をしていることに胸を撫で下ろした。
「ウート、起きてウート」
スクルドはウートの肩を揺すってみるが、ウートは目を覚まさない。今度は頬をつねってみる。
「う……ん……?いてててててっ!あ、あにふるんれすか!」
「あはは!あんたが起きないからよ」
赤くなった頬を擦りながらウートが体を起こす。
「ロキは……ロキはどこに……?」
辺りを見渡しながらウートはロキの姿を探す。しかし先程まで戦っていた場所にはロキの姿どころか、血の一滴でさえ見つからない。
「……すみません、ロキを逃がしてしまいました。多分、あいつはまだ生きている。僕は最後にスクルドさんから手を離してしまったんです」
ウートが手を離したせいでスクルドは力に耐えきれず、地面に叩き付けられた。そして月の石の威力が削がれ、ロキは逃れる事が出来た。
「……僕はロキを殺す勇気が無かったんです。だからスクルドさんからわざと手を離した……」
そう言ったウートの顔が何だか泣きそうに見えて、スクルドは堪らずウートを抱き締めた。
「ロキはウートの友達だったんでしょ?あたしはウートが友達を死なせないで良かったって思うよ」
「え……?」
「だって友達を自分の手で殺すなんて……悲しいよ」
「でも!ロキは取り返しのつかないことをしてしまったんだ!」
ウートの言う通り、ロキは太陽の石を奪い、世界から太陽を奪った。そして太陽を失った事によって魔物が出現し、多くの命を奪った。それは友達だったからと言って許されるものではない。
「うん。でもウートはロキを嫌いになりきれてないんでしょ?」
「……」
ふと、嗚咽を飲み込む気配を感じて、スクルドはウートが泣いているのだと気付いた。
たった一人でムスペルヘイムから遠いニヴルヘイムにやって来たこの少年は、きっと自分の心を隠してここまでやって来たのだろう。
一国の王として、石を奪われた責任を強く感じながら戦ってきた少年は、きっと苦しかったに違いない。
だからせめて今だけは、とスクルドはウートの気が済むまでこのままでいようと思う。
しばらくして、時折漏れ聞こえていた嗚咽が止み、ウートはスクルドから体を離した。
鮮やかな黄緑色の瞳はまだ赤くなっていたが、その表情は大分スッキリしたようだった。
「僕はやっぱりロキを許せません。……でもどこかで以前のロキに戻ってくれると信じてる自分もいます……。だから、この手であいつの命を絶つのではなくて、生きて……一生かかっても罪を償わせる事にします」
何かを吹っ切れた様な表情で言うウートに、スクルドは笑って頷いた。するとウートはスクルドの顔をじっと見つめる。
「……やっぱり好きだなあ」
「へ?何が?」
「スクルドさん、僕と結婚してください」
唐突に言うウートに、スクルドの顔はみるみる間に赤くなっていく。
「あ、あんたねえ!そう言う変な冗談は止めなさいよねっ!!」
「冗談じゃないですよ。ムスペルヘイムでは十五歳から結婚出来るんです」
「そ、そういう事言ってるんじゃないわよっ!折角励ましてやったのに……!」
「うわっ冷たっ!スクルドさん!凍ってます!腕がめちゃくちゃ凍ってますっ!」
ウートの手がスクルドの腕に触れている場所から氷が張っていく。ウートはあまりの冷たさに声を上げるが、スクルドは更に凍らせようとしてくる。
「アルヴィド!スクルド!」
すると、二人の元へヒルドとエイル、そしてスリヴァルディ達三人がこちらへ駆けつけて来るのが見えた。
「突然辺りが真っ白になったかと思ったら魔物達が突然消えて、ロキの仲間もさっさと逃げちゃってさ……って二人で何やってるんだよ?」
「ああ!てめっ、ウートに何してやがる!」
ウートの体が氷漬けにされているのを見て、スリヴァルディが血相を変え、ウートをスクルドから引き離した。
するとウートの体から氷がガラガラと音を立てて崩れ落ちた。
「た、助かった……」
「あんたが変なこと言うからでしょ!」
「お前はもうウートに近付くんじゃねえ!」
三人のやり取りに笑い声を漏らしながら、エイルは言う。
「さあ、帰りましょう。ニヴルヘイムに」
「……うん!」
「はい」
スクルド達はニヴルヘイムに向かって歩き出した。
それを見守るように、空に昇る丸い月は優しく地上を照らしていた。
***
「はあ……はあ……はあ……」
暗い森中、重なりあった葉や枝の隙間から月の明かりが射し込む。
ロキはその明かりを避ける様にして闇に溶け込んだ木にずるりともたれ掛かった。
ジュウゥゥゥゥ
二の腕に滲む血が蒸発して音を鳴らす。ロキは皮膚が裂けた腕に手を当て、傷口を焼いた。焼いた傷口は酷く焼けただれた。
ロキは血が地面に落ちて追跡されるのを防ぐ為に自ら傷口を焼いて出血を止めた。傷口を切り裂く様な痛みと皮膚を焼く熱に口から呻きが漏れる。
「ねえ、本当にこっちにロキがいるの?全然見つからないけど」
「うるせえな!俺はお前の何十倍も鼻がきくんだよ!確かにこっちからロキの匂いがするんだ!」
「……ロキ、そこにいるのか」
「あ、いたいた!こんな所にいたのね……あらやだ、この子自分で傷作ってるわよ!」
自身の腕を焼いているロキを見つけて、長い髪を肩に垂らした女……ヘルが慌てて側に駆け寄る。
「ねえヨルムンガンド!あなた携帯用の医療品は持ってないの?」
「待て、今出す」
眼鏡をかけた目の細い男……ヨルムンガンドが懐から消毒液と包帯を取り出し、馴れた手つきでロキの火傷に消毒液をかけ、包帯を巻いていく。
その様子を後ろから見ていた、口から長い牙がはみ出している男……フェンリルが呆れた様子で言う。
「人間は体が脆くてしょうがねえな。おいロキ、お前も俺達みたく人間の体を捨てちまえよ!」
「確かに人間の体って不便よねえ。でも犬の体にはなりたくないでしょ?」
「おい!俺は犬じゃねえ!狼だ!」
フェンリルとヘルのやり取りにロキは思わず吹き出した。火傷に消毒液が染み、痛みに堪えていたが、それを忘れてしまう程ロキは腹を抱えて笑った。
「狼の体も悪くはないが、俺も十分人間からかけ離れてるぜ。こいつのお陰でな」
ロキはしまっていた太陽の石を取り出し、手の平に乗せて見せた。
強い光は発していないが、太陽の石は黄緑色の輝きを帯びている。
ロキは丸い形をした石の中心でゆらりと揺れる光を眺める。
ロキがスクルドの持つ月の石の力に押し潰されそうになった時、月の石の力は少しだけ勢いを失った。しかしそれでも逃れる事は難しかった筈だった。
だがロキの体は黄緑色の光に包まれた。それは太陽の石の光だった。
黄緑色の光に包まれたロキは月の石の力から逃れる事が出来た。
「おいスルト、俺を助けるなんざどういう風の吹き回しだ。俺を石の主とは認めてないんだろ?」
ロキは太陽の石に向かって話しかけた。石はゆらゆらと光を揺らす。
「……けっ、勝手な事言うな。もういい」
ロキは突然、不機嫌なって太陽の石をポケットにしまった。
スルトの声は聞こえない。だがロキにはスルトが何と答えたのか分かった様だった。
「さっさと行くぞ。もうニヴルヘイムに用はない」
ロキは立ち上がると森の奥へと歩き出した。その後ろを当然の様にフェンリル達が付いて行く。
四人の姿は月の明かりも届かぬ樹海の中へと消えていった。