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泡吐き姫

作者: ととのえ
掲載日:2012/09/23

 泡吐き姫

 


 辺りはしんと静まり返り、銀色の月が遥かな海の水面を照らす、小さな小さな夜でした。 近くには黒い岩が一本だけ突き出ている、浜辺まではうんと遠くに泳いでいかなければならないような場所で、泡吐き姫はひとり、かぷかぷと泡を吐いていました。水の中から見る月はぐにゃりと歪んでいて、その歪んだ全てから発せられる幾筋もの光が、海の中へと運ばれて行きます。春の暖かい海はどこまでも穏やかでたおやかで、そして力強い波をひたすらに打ち続けていました。

 泡吐き姫が十五回目の泡を吐いたとき、ふいに海の中が暗くなりました。驚いて水面の方に近づいてみますと、一人の青年が灰色の髪を静かに揺らしながらこちらを覗き込むようにして、黒い岩に腰かけていたのです。

 事実覗き込んでいたのでしょう彼は、泡吐き姫と目が合うと優しく微笑み、「こんにちは、泡吐き姫」とささやかな挨拶の言葉をかけました。


「今は夜だから、こんばんはだね。でも、私はこんにちはの方が挨拶っぽくて好きなんだ」


 そう言って彼はくすくすと笑います。


「あなたはだれ?」


 泡吐き姫は泣きそうになり、水面から少し離れてそう問いかけます。近くを漂っていた子供のイカが、彼女を守るように少ない墨を吐きました。


「はじめまして、私はうんと遠くの地で君の噂を聞いて、はるばるこの南の海まで歩いてきました。最果ての地から三年、ようやく君と声を交わすことができて嬉しいよ、泡吐き姫」


 青年は海の中にいる泡吐き姫に手を伸ばし、こう言いました。


「私は北の国から来た、狼です」


 泡吐き姫は、その手を取ることができませんでした。



 普段泡吐き姫がいる所からずっと下に潜った所に、小さな図書館がありました。泡吐き姫が深海に漂うチョウチンアンコウの光を目指して下に下に泳いでおりますと、ふいに目の前を散り散りになったコンブ博士が横切ってきました。


「おはようそしてこんにちはこんばんは泡吐き姫。いやはやどうにもここには朝と昼と夜の区別がないようだ」

「こんにちはコンブ博士。あなたは一体何をしているの」

「どうにもこうにもヌタウナギが私をばらばらに千切ってしまってね。こうやって上まできてしまったわけさ」

「ここも十分に深いわ」

「君にとってはそうだろう。しかし私が普段生活しているのはもっとずっと深くに沈んだ所なんだよ。さあ、よろしかったら一緒に連れて行ってはくれないか。君は図書館に行くんだろう」


 泡吐き姫はコンブ博士をくっつけた後右手で持ち、チョウチンアンコウの光の近くにある図書館を目指しました。段々と深みと厚さを増していく水の中、海の水に溶けてしまい、見ることのできない足をただひたすらに動かしていますと、大きなクラゲが海藻で作られた図書館を飲み込んでいるのが見えました。クラゲの周りには数匹のチョウチンアンコウが電球をチカチカと光らせていて、暗い海を次々と照らしてはまた暗闇に戻していました。

「しかし一体全体」コンブ博士は笑います。


「一体全体、こんな深くて寒くて暗い所に、一体全体何をしにきたんだね」


「知りたいことがあるの」泡吐き姫は答えました。「灰色の髪の毛を持った狼さんについて、何か書かれた本はないかしら」


「狼!」コンブ博士は真っ二つに裂けました。


「狼、狼、狼とな! そんなのはあいにくとってっちゃありゃしない。ありゃしないったら、ありゃしないんだよ。なんてったって――なんてったって、ありゃしないんだ、ここは海の図書館だからね、ありゃしないんだ、なんてったって、海の、図書館だからさ! 陸の、森の、林の、雲の、空の、太陽の、月の生き物について書かれた本なんかありゃあしないんだ、なんてったって、海の――」


「もういいわ、わかった、わかったから!」泡吐き姫は叫びました。それから二つに裂けたコンブ博士を、元に戻してあげました。


「ねえ、それじゃあ狼さんを知ることはできないの?」


 泡吐き姫は問いかけます。彼女と博士はいつの間にか海の図書館の中に入っていて、様々にたゆたう本の群れを眺めていました。

「いや、そんなことはないさ」コンブ博士は天井まで登っていき、他の海藻達と同じようにぺたりと張り付きました。


「ないさったら、そんなことはね。浜辺に上がる生き物に聞いてみれば、なにかわかるかもしれないよ」

「浜辺に上がる生き物?じゃあ、ヒトデとか、ウミヘビとか……」


 泡吐き姫の言葉は、コンブ博士の大きな咳払いでかき消されました。「それと、ウミガメもな。いや、ウミガメがいい。アイツは、ヒトデは堅い。硬い。固い。かたすぎるんだ。ウミヘビは、柔らかい。軟らかい。柔かい。やわらかすぎるんだ。だから、ウミガメがちょうど良い」

「そう、わかったわ。それじゃあ、ウミガメさんに聞いてみるわ」


 博士はにっこりと笑いました。泡吐き姫も笑いました。



 普段泡吐き姫がいる所よりずっと上、海の色が透き通った水色をしている、暖かな太陽の光と冷たい海

の水が混じり合う場所に、ウミガメはいました。

「こんにちは、ウミガメさん」泡吐き姫はブクブクと泡を吐きだしました。「聞きたいことがあるの」

「あらねえどうしましょう嬉しいわだって大好きな彼と私との子なのよ」ウミガメは踊っています。「きっと可愛い子に決まっているわそれで聞きたいことって何かしら子供は何匹生まれるかしら?」


「ウミガメさんは陸に出たことがあるの?」


 泡吐き姫は問います。


「もし出たことがあるのなら、そしてそこで狼さんに会ったことがあるのなら、教えてください、彼の事を」


「ううん知らないわ愛しい赤ちゃん早く生まれてきて」ウミガメの答えに、泡吐き姫は苦しくなりました。「彼もすごく喜んでいるのでももし今度陸に上がった時狼がいたのなら話を聞いてみるわそして私は赤ちゃんの為に涙を流すの!」


 泡吐き姫は嬉しくなって、ついウミガメに抱きついてしまいました。ウミガメは赤ちゃんに悪いと泡吐き姫をひとしきり怒った後、「素敵な人ができるのはいいことよ私と彼みたいにね」と微笑みました。

 泡吐き姫はそのウミガメの笑顔があんまりにも眩しかったものですから、コポコポと泡を吐きながらいつも漂っている場所へとゆっくりと沈んでいくことしかできませんでした。

そうしてその後で、別にウミガメにきつく抱きついたところで何ら赤ちゃんに悪くはないのではないかと気付きました。



 コンブ博士とはなし、ウミガメとはなしたその夜のことです。泡吐き姫は狼をほんの少し恐れる気持ちと、それでもやっぱり彼に会いたい気持ちを掻き混ぜながら、昨日より少しだけ深い海の部分で泡を吐いていました。彼女を心配して起きてきたイカの子供が、母親に咎められゆっくりと沈んでいきます。名残惜しげに吐かれたイカ墨は透き通った青と溶け込み、例えることのできない特別な色となって誰かの夢の中へ流れ込んでいきました。

 カニの子らは浜辺の砂を愛おしげに撫で、そして砂たちもカニの子らを愛しく思っていますと、不意に訪れた大きな足によって砂粒達の命が絶たれました。狼がやってきたのです。死んだ砂をかき集めポロリ、涙を流したカニのうめき声が、波にさらわれ霧散します。月に届いたカニの思いは、夜を、海をいっそう、青白いものへと変化させました。


「こんにちは、改めて、こんばんは。泡吐き姫」


 浜辺から狼がそう叫びますと、泡吐き姫が返した言葉を波が彼の元へと運んできてくれました。 


「あなたは罪深い人間だわ」

「罪深いから私は人でありながら狼を名乗らざるを得ないんだよ」

「昨日みたいにまた、黒い岩の上まで来てくださいますか」

「ええ、喜んで」


 空と陸を繋ぐ海を飛び越える一瞬。その時だけ、青年は狼になります。体がゆっくりと空気に溶け込み、代わりに灰色の煙をくゆらせて獣となった彼が通った道には、錆びて赤くなった鉄の破片があちらこちらに散らばります。鉄は海へと落ちた後、まるでいままでそんなものなど無かったとでも言うようにして、消えてしまいました。

 無事黒い岩の上へたどり着いた彼は獣から青年へと戻り、泡吐き姫と視線を合わせます。優しい緑色の瞳はお伽噺で聞いた森を思い起こさせ、彼が今まで見てきた世界の一滴が凝縮されていました。泡吐き姫は自分には無いものを持っている狼を羨ましく思う反面、それらを美しく思える自分がいることを嬉しく感じます。


「泡吐き姫。君はどうして泡を吐いているのかな」

「泡を吐いていれば、生きていないことになるからよ」

「君は今生きているじゃないか。ここにいる」

「ここにいなくて、生きていないことにしたいから、泡を吐き続けているの」


 泡吐き姫は涙を流しましたが、その滴はすぐに海に溶けてしまい、ついぞ狼が確認することはできませんでした。


「狼。あなたはどうして獣として生きているの」

「人間ではないからさ」

「人として生きているのに?」

「それでも人になりきれないんだよ」

「あなた、わたしが死んだら泣いてくれる?」

「どうだろうね」

「きっとわたしが死んでも、誰も悲しまないわ。海にいるものは全員獣だから。もしあなた、私がいなくなって涙するようなら、きっとあなたは人間よ」

「そうかい」


 月が哀れな二人を想い涙しました。雲も切なげに空を覆います。彼らの運命を嘆く者全員の気持ちを表すように、海の水が燐光を放ちました。


「君はこちらには来ないのですか」


 狼のふとした問いに、泡吐き姫はゆっくりと首を振りました。「私は海の中からでることはできないの」そう言って、彼女は目線を下げます。身に纏った服から見えるであろう泡吐き姫の両足は深い海の色に溶けてしまっていて、おおよそ陸に上がれそうもありませんでした。「いつになったら、足が生えるのだろうね」灰色を棚引かせながら言う青年が、憐れんだのは彼女ばかりではありません。彼とて、海に漂う姫と隣り合い、何か言葉を交わしてみたいのです。

「私の足が生える頃」泡吐き姫が言いました。「きっとわたしは、幸せになることを許されるんだわ。死んだときに、誰かに泣いてもらえるのよ」

 星たちが、放つ光の冷たさに身震いした夜です。どこから遠く、高く澄んだ鳴き声が聞こえてくるようでした。



 泡吐き姫が狼と出会ってから、いくつかの昼と夜が過ぎました。日に日に温度を上げていく太陽から熱を受けとりすっかり暖かくなった海は、新しい命の満ちた濁りを湛えていて、しばらく透明とは疎遠になっています。夜になると沢山の卵が月光に照らされて、海はそれはもう美しい銀色に輝きます。まるで、触ることのできない月を真似ているようでした。泡吐き姫も、いつもより見えにくい姿でかぷり、かぷりと泡を吐いておりました。白いお月様が今いる世界の唯一の光源となる中で、波はひたすらに穏やかに、遠くの浜辺で砂と語らっているカニ達のはなし声を泡吐き姫の元へ届けていました。狼の王子を待つ、いつも通りの小さな夜です。

 空が少しだけ回った頃、彼が来ました。狼が獣から人へと戻り岩に腰かけると同時に、鉄の破片が水面を割って海の中へと入っていきます。泡吐き姫はそれを捕まえようとしましたが、独特な臭いを放つ破片はついぞ、捉えられることなく濁った水と混じり消えていってしまいました。

 狼と出会ってから、泡吐き姫はいろいろな、綺麗で美しいものの話をいっぱい聞きました。青から黄を経て赤に染まる空の話を。太陽が沈む直前、一瞬だけ黄緑をした光がどこまでも遠く、澄んだ音をたてながら届くはなしを。誰かと誰かを繋いでいる海原は今はもう会えない人へと、唇を落とすよりも先に愛しさに涙を流してしまう程の言葉を届けているということを。それは普段深い海に沈んでいる泡吐き姫にとって、まったく新しいことやものでした。たまに海全体が普段の水を忘れ、代わりに橙色をした水を持ってくることも知っていましたし、散り散りになってしまった大陸を繋ぎとめている海の、立派な様子もまた幼い時から見てきていましたが、まさか太陽によって水が彩られているとは思いませんでしたし、広い海洋が誰かひとりの為に一つの、かけがえのない言の葉を運んでいるとは、夢にも思わなかったのです。泡吐き姫はそういった煌びやかな事実を知るたびに、この世界が前よりもっと愛おしく思えてなりませんでした。

 無論彼女とて、手放しに喜べられる綺麗事ばかりを率先して聞いていたわけではありません。疫病みや血で血を洗う戦、母を亡くし、歩くための足も失い、全てを醜く憎く思いながら、呪詛を吐いて自らの舌を噛みちぎり死んだ少年の話を、言葉が通じないために起きてしまった、殺された蝉と殺めてしまった猫の会話を、泡吐き姫は耳を塞ぐことなく、ただただ、涙を流しながらも聞いていたのです。

 そうして、狼の唇が動き終わると同時に、彼女は考えます。この世界のことを、自分のことを、神様のことを。

 人も獣も草木も土も、何もかもすべてが神様によって創られたものです。姿形が違うだけで原点を辿れば皆、同じ存在としてどこか深い意識の底、眠りにつくときに見るおだやかな場所で、複雑に絡み合い繋がっているのです。ですから木は水で命を育み、枯れた木は土をたくましいものにし、その土で育った新しい草花を食べることで、血の流れる生き物が鼓動を打ち続けられるのです。赤と紫をどこまでも続かせる空を美しいと思うものが沢山いるのも、水底から溢れ出る音に心洗われるのも、互いを自分よりかけがえのないものと感じられることも、深い蒼を湛えた、意識の根本。そこで繋がっているから感じることができるのです。もし私たちが本当の意味で唯一の存在となってしまったら。きっと、それこそが孤独でしょう。美しさも綺麗さも、何か別の存在があってその者と同じ感情を抱けるからこそ、初めて認識できる、特別なものなのです。

 ならば何故、と、泡吐き姫は考えました。


「わたし、綺麗なものを綺麗と感じれるわ。笑ったり泣いたりもできるわ。あなたから聞いた話に胸を痛めることもできる。それなのにどうして、いないはずの泡吐き姫であり続けるのでしょうね」


 泡吐き姫の問いかけに、狼が答えることはありませんでした。カニの声が波にゆられ、果てない旅を始めた夜です。


 五日後の話です。濁りの抜けた海は暗く終わりがありません。煌々と照らされた水面はどこか物憂げに揺らいだかと思えば、またすぐにツン、と澄まして静かになり、まるで本当は構って欲しいのに素直にそう言えないもどかしさを、泡吐き姫へと訴えかけているようでした。

「北の国はどういうところなの」泡吐き姫のその問いに、青年は目を瞬かせ、驚いた顔をしました。当然です。今まで彼女が知りたいと願ってきた事柄は、広い空や海、陸などのことばかりでしたから。少しでも自分――狼――と関わりのある質問をされただけでも、彼は顔を真っ赤にしてしまったのです。


「私はここから出たことがないから、何も知らないの。あなたのことさえも。狼さん、わたしあなたと出会ってようやく、外の世界のことを知れたのよ」


「北の国は寒いところさ」狼は頬の赤いうちに、歌でも口ずさむかのように答えました。「短い春以外は、ほとんどが雪で閉ざされているんだ」

「雪?」泡吐き姫は水の中で首を傾げます。


「わたし、雪はみたことないわ。でも、サンゴの産卵みたいに一面に白い粒が飛び交うって、本に書いてあったの、知ってるのよ」


「そうなんだ、私は、サンゴの産卵は見たことがないよ」狼は続けます。「でも、きっと綺麗なんだろうね。なんていたって、雪に似ているというのだから。雪そのものがとても綺麗なのだから、きっとそれも、とても素敵なものなんだろう」

 狼は水の中に手を差し込みました。辺りをスイスイと泳いでいたウミヘビが、人差し指に絡まります。泡吐き姫はそのからまってしまったウミヘビをゆっくり解いてあげながら、小さな泡を吐き続けました。


「何も知らないことは私も同じさ。どうして波が起きるのか、どうして季節は回るのか。きっと一生分からないまま、私はいつか死んでしまうのだろう。でも、だからといって分かるものも分かろうとしないのは嫌だよ。一つでも多く、この世界を知っていたいと、そう思うんだ」


「私も」泡吐き姫は笑います。「私も、色々なことを知りたい。だって、新しいことを覚えるたびに周りが今まで以上に輝いて見えるんだもの! 『月が光っているのは太陽の光を反射しているからだ』ってあなたに教えてもらったとき、すごくドキドキしたわ。結局、しばらく夜は興奮して寝れなくて、ずっと月の光を見ていたの」


 月が輝いています。見えない太陽も輝いています。泡吐き姫のことが大好きな子供のイカはもうお母さんの足の中ですやすやと眠っていて、ゆらゆらと波間を泳いでいたウミヘビももう皆眠りについてしまいました。遠くの浜辺のカニ達はまだ砂とおしゃべりしているのでしょうか、それとも眠ってしまったでしょうか。どちらにしろ、ここからはわかりそうもありませんでした。


 上に行くにつれて、水の色は光と混じり合い透明になっていきます。泡吐き姫は周りが薄い水色に包まれた場所で仰向けになりながら、生まれたばかりの子ガメ達の泳ぐ様をぼんやりと眺めていました。

「ああなんて可愛いの私のこどもたち」巣にもぐって休んでいたウミガメが顔を出しました。「なんてかわいいのでしょうこどもたちそして泡吐き姫、」ウミガメは泡吐き姫のそばにやってきました。「子供たちを生んだあと狼のことを小鳥から聞いたわ愛しい彼は今魚を食べているの」

「本当に?」泡吐き姫は目を見開き、嬉しさのあまりウミガメに抱きついてしまいました。「お願い、聞かせて。全部、狼さんのことを」

「もちろんお安い御用よ泡吐き姫でも後悔はしないで」ウミガメは言います。泡吐き姫はもうどんなことでも構わないと、水中でもわかるくらいに顔を真っ赤にして、若い母親が何かを言うのを待っています。

 ウミガメは狼のことを全て、話しました。

 そして、

 そして、

 泡吐き姫は、


 彼女は、泣き崩れました。



 新月の夜の事です。


「春になると、花が咲くんだ」


 狼は黒い岩の少し出っ張った所にもたれかかりながら、真っ暗な海を見つめていました。いつもはあたたかく感じるはずの海も、今日はなぜか、とても冷たいもののように思わざるを得ません。


「薄く紫付いた、とても小さな花が野原に沢山咲くんだ。その花の周りだけは、どれだけ雪が降り積もってもいつの間にか溶けていて、白い雪と薄い紫の色がとても綺麗で……」


 狼はこちらを伺い見るかのように首を傾けます。けれども泡吐き姫はどうしても視線を合わせることができず、ついぞ、俯いたまま黙りこくってしまいました。

「どうかしたの?」狼は優しく問いかけます。彼が紡いだ言葉は、空気となって世界に溶けていきました。

「聞いてしまったの」泡吐き姫は、やっとの思いでそう答えました。「聞いてしまったの。ウミガメから貴方のことを、すべて聞いてしまったの」

 途端、狼の顔から優しげな表情が消え去ります。代わりに悲しみとも諦めともつかない、いたたまれない感情が、彼のすべてになってしまいました。

「そう、か」彼はそう一言だけ言うと、またいつもの優しい笑みを浮かべました。けれども狼のことをすべて知ってしまった彼女にとっては、それはとても切ないものにしか思えませんでした。


「どうして。どうして、貴方は……」


 聞きたいことが沢山あります。話したいことが沢山あります。けれども、そのすべてが言葉にしようとすると喉の奥でつかえてしまい、泡となって消えてしまいました。もどかしい思いを抱きながら、泡吐き姫はただ、成す術もなく泡を吐き続けます。


「わたしも、貴方と同じよ」

「私と? 君が?」

「嘘をついたの」


 泡吐き姫は、泣きそうになりました。


「わたしは今も、嘘を吐き続けているの」


 月の無い、暗い夜のことでした。



 それからずっと、泡吐き姫は図書館の中に籠りきってしまいました。何をするわけでもなく、ただたゆたう本の群れを見て、時折、かぷりと泡を吐きだすだけです。泡は浮かぶことなく、静かに沈んでいきました。

「一体全体、お前は彼の何をどうして一体全体、知ってしまって傷ついたんだい?」天井にへばりついたコンブ博士が呆れたような、諭すような口調でそう問いかけました。泡吐き姫は部屋の隅っこで蹲り、貝のように身をぎゅっと縮めています。図書館を飲み込んでいるクラゲが、チョウチンアンコウの鋭い光に何度か身震いをしました。

「まあ、なんとなくは、わからんでもないがな」と、コンブ博士はため息を吐きます。


「しかしまあ、その、わからんでもないがな、いつまでもそうやって、わからんでもないが落ち込んでいるのは、いけないことさ、なあ、一体全体、なあ」


「かみさまは」泡吐き姫はコンブ博士の言葉を遮って言いました。「かみさまはどうして、わたしをいないはずの泡吐き姫なんかにしたのかしら。どこにも存在していないのだから、わたしは誰とも繋がっていないわ。きっとわたしが死んだときも、コンブ博士は真っ二つに裂けて、ウミガメは子供たちと遊んでいて、他の海の仲間もどうやったって涙を流してはくれないの」

 コンブ博士は困り果てました。浮かぶことなく海底目指していく泡の、消えない様をみつめながら、辛うじて「泡吐き姫。そんなことは言わないでおくれ」とだけ言いました。


「そりゃ確かに君の言うとおりだ。神は君にいない存在である泡吐き姫としての命をお与えになり、そこで何故己が罰を受けたのかを考えなさいと仰った。誰とも意識の底で繋がらずに、孤独な存在としてそこにいなさいと。

だから当然、君とわしは繋がっていないから、アンタが死んだとてわしは悲しめないし、逆もしかりな筈じゃ。けれどな、泡吐き姫。考えてごらんな。君は笑う、泣く、怒る。良いものを素直に尊べる。ほうら、少しずつだが、繋がってきているんじゃよ。泡吐き姫と、わしという命が。これは無論、他のウミガメたちでもいえることじゃ。だからな、泡吐き姫。もうわかりつつあるかもしれんが、わしは言うぞ。ええい、いうぞ。一体全体見るまでもなく、言うぞ、喋るぞ、お前は今、わかりつつつあるかもしれんが、言うまでもないかもしれんが、苦しんでいる。そしてわしは今、お前が苦しんでいるのを見て、今、苦しんでいる」


 泡吐き姫が吐き出した泡が、一斉に浮き上がりました。かぷり、かぷりと、大きな泡が小さな泡の背中を押し、中くらいの泡が小さな泡と共に、罪深い狼がいるであろう遥か彼方を目指してゆっくりと、けれど確かに上へ上へと上がっていきます。泡吐き姫には、今まで聞こえないでいた自分の鼓動が、確かに耳に届いてきたようでした。


「恐れなさんな、神に許されることを。認めなさいな、自分をかけがえのない存在として想ってくれるもののことを」


 コンブ博士が、気持ちよく笑いました。



 水に溶け見えない足を懸命に泳がせて、泡吐き姫はひたすらに上を目指します。彼女が強く体を浮かせる度に、嘘ではない本当の泡が湧き立ち、弾け、新たな海の流れを作りました。たゆたうワカメは泡吐き姫の足に。古くから湛えられた水は狼へと続く階段に。変化し躍動する海の、なんと力強いことでありましょうか。ご自慢殻の模様を地図として案内する貝や光の届かぬ中唯一の光源となり暗い深海を照らすチョウチンアンコウも、ただひたすらに、泡吐き姫を上へ上へと押し上げていきます。「どうしよう、わたし、怖い!」泡吐き姫がそう叫びました。「でも、楽しいの! 怖くて怖くて仕方がないのに、このまま浮かずにはいられない!」


 深い意識の水底。遠くいつか聞いたお伽噺を思い出す一瞬見れる意識の世界で、海にて生命を育む尊いものたちの願いが、一つになりました。


 やがて、あと少しで水面を越え空気に触れるという距離にまで泡吐き姫がたどり着きますと、ふと、そ

の海全体がもたらした彼女を押し上げる力がなくなりました。振り返り下を見てみますと、ウミガメもワカメも子イカもチョウチンアンコウも皆一様にして、泡吐き姫が自ら狼に歩み寄っていくことを望んでいるのです。泡吐き姫は頷いて、ゆっくりと水を踏みながら今やもう久しく感じる黒い岩へと近づいていきました。

 狼は相変わらず黒い岩に腰かけて、潮風に吹かれていました。泡吐き姫の口から無意識に泡が零れ出ます。それは海を出た瞬間ぱちりと弾け、小さな飛沫をいくつか飛ばして消えてしまいます。


「人を食べたんだ。雪の日がいくつも続く、長い冬のことだった」


 青年はそう言いました。

 それはまだ、狼が人として誰かと繋がっていた頃、前の世界で起きたおはなしです。


「北の国は少しばかり春があるだけで、夏なんてものはない。その春だってこことは比べ物にならないくらい冷たくてお日様なんかほとんど見れはしないものさ。でもそんな中でも、私は家族と一生懸命に生きていたんだ。小さな家に、私と弟と、母親とで暮らしていた。庭には沢山のものを植えたよ。野菜、花、穀物。寒さのせいで大体が枯れてしまうけれど、その中でも運よく生き残って立派な実をつけてくれた植物を、三人で少しずつ分け合ってどうにかこうにか食い繋いだ。そんな生活を、幼い時から続けてきたんだ。お腹いっぱいに食べ物を食べたこともなかったけれど、とても幸せだった。

 物心がついてから、十五回目の冬のころだったと思う。その年の冬は特に厳しくてね、いつまで経っても春が来なかった。寒さと飢えで命を落としてしまう人がたくさんいた。母も喉の渇きを訴えながら死んでしまったよ。冬の間にも育つ作物はいくつかあるんだけれど、それも全部駄目だった。畑が雪に埋もれてどうしようもなかったんだ。貯めておいたほんの少しばかりの食料も皆なくなり、村の人に頼んでも何一つ食べ物を恵んでくれなくて、どうしようもなくなった私と弟は隣の村に助けを求めに行った。吹雪を真正面から受けて立ち、ただひたすらに歩いた。吹き付ける雪がひどく痛くて、怖かった。案の定、途中で道を見失って、私たちは進むことも戻ることも叶わなくなってしまった。身を寄せ合い、首に下げた十字架を握りしめ少しでも暖かさをと思ったけれど、空しくなるだけさ。

 私は弟を抱きしめ、「おやすみ」とだけ言ったんだ。喉が張り付いて上手には言えなかったけれど、弟には伝わっていただろう。別れを告げた私は幸せに満ちていた。……でもね、弟は違ったんだよ。眠ろうとした私の頬をつねり、言ったんだ」

「浮かべた涙も垂らした鼻水もすぐ凍ってしまう中で、ああ、食べたさ。食べたとも。血の滲んだ雪までも啜り一滴も残さないように、私は弟の全てを腹の中に収めた。皮肉にも、その時初めてお腹がいっぱいになる感覚を知ったんだよ」

 

泡吐き姫が吐いた泡の弾ける様を眺めつつ、狼は語ります。そこで一旦言葉を区切った後、また彼は話しはじめました。


「それからまた歩き始めたけれど、結局駄目だった。すぐにまたお腹が空いて、どうにもできなくなって、雪に埋もれて何も考えなくなっていった。そうして気が付いたら、私は神の御前にいたんだ」


 言の葉を作りながらも、狼はさして悲しんではいないような、気にも留めていないような口ぶりで自分のことを話すものですから、泡吐き姫はつい、余計な口を挟んでしまいそうになりました。しかしぐっとこらえ、彼の次の言葉を待ちます。震える泡が少しだけ沈んだ後、かろうじてその場に留まり弾けました。


「神は訪ねてきた。私のこれまでのことと、これからのことを。私はありのままに話した。

そして、神の怒りに触れて、狼になってしまった。最初は分からなかったよ。どうしてあの人はお怒りになったのかとか、私を狼にしたのかとか。わからないことが多すぎて……しばらく考えるのをやめた。相変わらず北の国は寒くって、太陽は見えなかった。溶けた雪と泥をかき混ぜながらただ生き物のままに生活していると、見かねた渡り鳥がある日、私に話をしてくれたんだ。遠い南の国に住む、海と共に生きる泡吐き姫、君の話を」


 そうして物語は一番初め、泡吐き姫と狼が出会う海へと落ち着きます。哀れ身の上を語らざるを得なくなった青年の、深い瞳が泡吐き姫を捉えます。「泡吐き姫。今度は君の番だ。どうか私に、何故貴方がお伽噺に登場しない姫としてここにいなければならないのかを、話してはくれませんか」

 泡吐き姫は宵闇色の海に溶け込むのをやめ、ひとつ、大きく息をしました。「嘘をついたの。沢山の嘘を」泡と共に弾ける彼女の言葉の、なんと醜く、直向きなものでありましょうか。


「物心ついたときから、体を売るところで働いたわ。小さいときは掃除に洗濯、料理のお手伝い。ある程度大きくなると、他の皆と同じようにして金貨と銀貨をもらうようになった。お腹いっぱい食べれて安心して寝られる場所なんて、そこぐらいだったから。沢山の人から沢山のお金を貰うために、沢山の嘘を吐いたわ。あなた以外は他には何もいらないとか、寝具を共にするのは初めてだとか、虫は嫌いだとか、大きな嘘から小さな嘘まで、息をするように。息をはくように。でもね、褒められたことではないとは知っているけれど、それでも楽しかったの。嘘を吐くことが、何よりも。小さな嘘をついたその時から、会ったこともない、見たこともない人が頭のなかで生まれてきたりして、怪物を倒したり何気ない日常を過ごしていったりするの。お客さんの為に吐いた嘘から、思いもよらない出来事がわたしの中で繰り広げられ育っていく。胸が高鳴った。それに、私自身もその空言に騙されてしまえば、いつでもどこへだっていけるのよ。鳥にだって魚にだってなれる。本で見た景色を頭の裏で描きながら、空を飛んで、海を走って、草原に寝転がった。銃弾の飛び交うなか男の子になって憎たらしい敵をやっつけたりもしたわ! 騙されれば騙されるほど、わたしは楽しかった。でもそれと同じに、それまでの世界に戻った時の空しさも増えていったの。潮風の匂いがしたと思ったら、すぐに葉巻と香水の臭いに消されてしまう。苦しかった。どうして私は本当に綺麗な場所に生まれてこなかったのかって。例え、今さら望む場所に行ったとしても、日向の下で両手を振って歩けるような体でも心でもないから、きっとそこへ辿り着いたって自分が汚いのが浮き彫りになるだけ。

 それに気付いてからは早かったわ。お客さんに無理を言って、お店を抜け出して。町はずれにある海へ行ったの。服を着たまま波に身を任せて、泡を吐きながらかみさまの元へ行った」


 泡吐き姫が上を見ますと、銀色のお月様を模した光が波の表面にたゆたっておりました。すこし歪な形のそれは、周りの水を白く染めています。泡吐き姫に近づくにつれ元の深い色へと戻っていく様を見つめながら、狼は改まって言いました。


「私は神にこう聞かれたんだ。貴方が次に生きるとして望むことをいいなさいと。私は泣きながら言った。『どうか、もう止めてください。母を飢えで死なせ、弟を手に掛け、挙句の果て隣の村まで辿り着けず二つの命を無駄にした惨めな私が新しく生まれ変わったとて、結局また誰かを殺めてしまうだけです。私は、少なくとも弟との最後の時は、人間ではありませんでした。空腹に耐えかね血を啜った姿は、獣です。欲のままに肉親さえも食らった、気持ちの悪い一匹の狼なのです。ですからどうか、もうこのまま一生、何に変わることもなく眠らせて下さい。新しい生き物になったところで、きっと碌なものにはなれません。』と。そう言ったんだ。神は驚いて、次にこう尋ねた。お前は、死ぬとき、誰からも愛されていなかったと思うのか。と。私は、はいと答えた。『母も弟も、私のことをさぞ憎んでいるでしょう。せっかく自分を犠牲にしたのに、アイツは何も成し得なかったと。そう嘆いているに違いありません。私は、世に生きてはいけない人間でした。』そう言うと、神は怒った。というよりかは、今思うとあれは憐れんでいたのかもしれない。『お前はもう一度生きなさい。人でありながら狼として生きる何物でもない存在になり、そして何故、己がそうなったのかをゆっくり考えなさい』そう神は仰った。私は言われた通りにした。狼として、人として、生きた。泡吐き姫。私は遠い北国から、自分の犯した仕業を背に背負って、はるばるこの南の国へやってきました、一人の惨めな狼です」


 チョウチンアンコウの光が、頼りなさ気に揺れて海の中を照らします。泡吐き姫は考えました。そしてしばらく何も喋らなかったと思えばいきなり、半ば叫ぶようにして、彼へと言葉を返しました。


「わたしも、わたしもよ! かみさまに何を望むのか聞かれて、もう生まれたくないと言ったわ! 嘘をついて、その上大したこともせぬまま命を絶った自分は生きる資格など無いと! この世に、生れてはいけなかったと! けれど、神様は言ったの。本当にお前は、誰からも何からも感謝されることをしなかったのかと。わたしは頷いた。そうしたら、かみさまは憐れんでこう言ったわ。『お伽噺にも誰の夢の中にも存在しない唯一のものとなって、貴方の罪を考えなさい。』と。気付いたら海の中にいて、泡を吐いていた。どこにも登場しない、嘘でできている私を、皆は泡吐き姫と呼んだわ。狼さん、私は嘘と欲にまみれた、惨めな泡吐き姫です。息をする代わりに泡という名の嘘を吐きつづける、姫にもなれない泡吐きです。それでも、わかることがあります! 今ようやく、かみさまが私になぜ泡吐き姫として生きさせたのか、わかったわ! あなたは惨めよ。人を殺した不甲斐ない、人間にもなれない狼にもなれない中途半端な生き物よ! それでも、それでもあなたのお母様と弟様は、あなたを愛していたに違いないわ!」


 言い終わるや否や、泡吐き姫は水を強く踏みつけました。もがき、恥ずかしい姿をさらしてようやく、彼女は海の外へ出ます。足の無い体を懸命に動かして、それでも何とか狼へ近づこうと手を伸ばした姿に、青年もハッとして、岩から飛び降り彼女を支えました。飛沫が起こり、視界が水で覆われ何も見えなくなります。しかしそれも一瞬。泡吐き姫は海に浮かぶ狼に支えられながら、大きく喉を震わせました。「神様が私たちをこんな風にしたのはきっと、生れてこなければよかったと、ここに生きる前の私たちが言ってしまったせいよ。あなたが神の前で話した言葉を聞いた時、わたし、お願いだからそんなことは言わないでと思ったの。神様もきっと同じことをその時思ったんだわ。あなたが今ここにいなければ、わたしは泡を吐き続けるだけだった、海の外にも出れなかった! もしあなた自身がいなければよかった存在ならば、それはあなたを愛しく思ってくれている全ての人もいなくなって良いってことになるわ。だって、私たち、こうして狼と泡吐き姫になる前は、確かに誰かと繋がっていたのだから! どこか深い意識の底で草も海も人も複雑に絡み合っていて、それだからわたしたちは生きていける、死んだ後も土に還り草木を育てる助けをするわ。尊いものを素直にそう思い、言い合えるのも、そのお陰。そして、今、わたしたちそうなりかけているのよ、きっと! だってねえ、あなた、わたしが死んだら、泣いてくれる?」 

「ああ、きっと」そう狼が答えますと、泡吐き姫はにこりと笑い、言いました「もしもわたしたちが本当の意味で唯一の存在ならば、あなたはわたしが死んでも悲しまないし、わたしもあなたがどこかへ行ってしまったところで、自分なんかいなければよかったと言ったところで、涙ひとつすら滲まないはず。わたしたち、つながり始めているのよ、そうに違いないわ」

 灰色の青年は少しばかり悩みましたが、やがてゆっくりと頷きました。「泡吐き姫、君ばかりずるいな。少しは私にも認めさせてはくれないか」狼はそういうと、泡吐き姫の両手を握りしめ、はっきりと伝えます。「泡吐き姫。君も先程、自分は生まれてはいけなかったと、そう言ったね。けれど私は思うんだ。君は嘘を沢山吐いて、その世界に逃げたと言った。つまりそれは、その分沢山の世界を作ったということなんじゃないか。君が生まれてこなければ生まれてこなかった世界が、お伽噺がある。空言の言葉は私たちには通じない。けれども絶対に、君の作った数えきれないほどの世界は、君に感謝をしていたと思う。自分を作ってくれた尊い君を、愛しく感じていたに違いないと、私はそう思うんだよ。泡吐き姫。君がいなければ等しく、私も雪と泥を掻き混ぜて、いつまでも母と弟は私を愛しんでくれたと認めはしなかっただろう。いつまでも誰とも意識のそこで絡み合うことなく、生きては死ぬことを繰り返していただろう。ありがとう。君がいたから私は、自分はいても良い存在だと思えることができた!」

 瞬間、泡吐き姫は何か強いものに引っ張られ、海へと沈んでいきました。開いた口から入り込む水が彼女の体を内側から圧迫し、耳鳴りを引き起こします。この時彼女は初めて、海の中が苦しいと感じたのです。

 気付くと泡吐き姫は岩の上にいました。視界はいっぱいの星と黄色い月とで埋め尽くされています。「足元を見て御覧」狼の言うとおりに泡吐き姫が下を見てみますと、嗚呼哀れな彼女にもようやく、足が生えたのです。彼女は海に引っ張られた訳でも何でもなく、ただ自らの足の重さに沈んでしまっただけなのでした。驚いて声すらも失った彼女を、狼は笑いました。彼女は信じられないといった風に水面に移る自分をしばし眺めた後、ふと気づいて「あなたも変わっているわ」と、そう叫びました。

 見ればあの狼の、赤錆びの混じった灰色の髪の毛が、みるみるとその色を失い眩い金色へと姿を変えているではありませんか。彼は水面に映る自分の姿をまじまじと眺めたあと、静かに涙を流しました。


「わたし、汚いわ。汚いけれど、あなたを尊いと、ここにいられることを尊いと、そう言えるわ」

「ああ。私もだよ。私は惨めだ。けれども、今日、君とここにいることができて、本当に良かったと思う」


 海に漂いすぎたせいか未だ青い燐光を発している泡吐き姫と金色の髪を持つ狼が並ぶその姿は、さしずめ互いを見つめ合いながらも決して触れることの叶わぬ海と月のようだと、誰かが思いました。

 

 数多幾千輝く世界の、一つの透明なお話は、これでお終いです。


 さてこのお伽噺でわかったことと言えば、言葉にするのは酷く難しいものではありますが、とにかく、どんな人間にも犬にも草木にも、他に見せる為の美しさなどは必要でないということです。むしろ、惨めで不甲斐ない姿をどれだけ晒しても、自らが尊いと思えるものを、素直にそう言えることの方が重要なのです。自分は取るに足らない者だと思っても、たとえそれを他人が認めていたとしても、そんな貴方を素敵だと思っている人が、必ずいるのです。

 さあ、それが分かったところで、今日は筆を休めて。もう寝ることにしましょう。おやすみ、怖い夢を見ないように。



宗教がすきです。ええとても。

感想など頂けたらとても嬉しいです。ええとても。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 文章のテンポがすごく好きです。 どこか懐かしい感じでほっとするような… あと、少し違うかもしれないけど私は八百万神とか~の命とか日本の神様系が好きなので、あなたみたいな人といつか語ってみ…
[一言] いいですね。泡吐き姫。 童話ならではのこの怖さ。 怖いグリム童話みたいです。
[良い点] コンブ博士なんてかっこいいの。 さけるとか、くっつくとか、姫の背中をおした台詞とか。 [気になる点] あんまり小説がよかったのであえてあげるなら、最後の段落はないほうが余韻があったかなと思…
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