第二十九話
「どうしたの?可愛い顔が台無しよ?」
優しい声と一緒に、頬に柔らかい物が押し当てられる。
女のひとが、ハンカチで僕の涙を拭ってくれていた。
「かまわないでください……」
小さな声で断って、それを避けるように後ずさった。
このひとに気遣われるなんて嫌だ。
目をゴシゴシと擦っていると、誰かがプッと吹き出すのが聴こえた。
秘書のひとが口に拳を当てて肩を震わせている。
「……加納、何がおかしいんだ」
紳一郎さんの尖った声に秘書のひとは咳払いをした。
「失礼。我慢していたんですけど。
皆さんが、なんと言うか……」
秘書さんは僕達ひとりひとりの顔を順番に見て、またプーッと吹き出した。
このひとが笑うところなんて初めて見たような気がする。
いつもクールで無表情なんだよね。
でも、なんでこんな空気の中で笑えるんだよ!
「望」
紳一郎さんが僕の名前を呼んだ。
秘書さんのおかげ(?)で涙は止まっていたので
紳一郎さんの困惑しているような顔が目に入った。
つらいけど、今、言わなくっちゃ。
「……紳一郎さん、お話があります」
「え?」
「僕、実家に帰らせてもらいます。り、離婚してください!」
紳一郎さんは、僕の言葉に眉を顰めた。
そして、冷たい瞳で僕を見据えた。
この瞳には見覚えがある。
初めて会った日に、僕を脅したときとおんなじだ。
お父さん、僕のせいで会社がつぶれたらごめんなさい!!
でも、僕、紳一郎さんのことを好きになっちゃったんだ。
好きだから、他に女のひとがいる紳一郎さんと結婚しているのは凄くつらいんだ。
……僕って独占欲の強いヤツだったんだね。
自分でも気づかなかったよ。
「だめだ」
紳一郎さんは低い声で言った。
「契約は一年の筈だ。まだ一ヶ月しか経っていない。
君は平気で約束を破るような人間だったのか?
失望させないでくれよ」
今の言葉にカチンとくる。
……紳一郎さんがそれを言う?
僕は紳一郎さんをキッと睨みつけた。
「それはこっちのセリフだよ!
僕だけだって言ったくせに!嘘つき!」
「まあ、もう夫婦喧嘩?
こんなにギャラリーがいるところではやめといた方がいいわねえ。
ところで、契約ってなんのこと?」
いきなり割り込んできた声に、僕達はギクリとした。
そして、ふたりでおそるおそる声のした方を見た。
そこには、
着物姿の小さなおばあさんがニコニコして立っていた。