ハロウィン後夜祭の閉鎖校舎で親友に生贄として蹴り飛ばされた『いじめられっ子』の僕、殺人鬼の正体を見抜いて調理室の蒸気と180℃の油で全員を『完全犯罪調理』する
【第一幕:ハロウィン後夜祭と、生贄の友人】
焦げた砂糖と安物のシナモンの匂いが、私立長峰学園の二階廊下に充満し、十代の汗とヘアスプレーのツンとする臭いに混じり合っていた。
家庭科調理室のステンレス製作業台の前で、楠木直哉は視線を落としたまま、ポリエチレンのまな板の縁に沿ってスクレーパーの刃をゆっくりと、まるで催眠術にかかったかのように規則正しく滑らせていた。
十七歳。
世界の中で自分が占める面積を少しでも減らそうとするかのように丸められた背中。
いつも少しだけサイズの合わない制服の袖口は、薄めた漂白剤で白く色落ちしていた。
「おい直哉、その最後のバット、さっさと揚げちまえよ。体育館のキャンプファイヤーから三年の女子がいなくなる前にここを出られなかったら、お前を月曜まで掃除用具入れに閉じ込めるからな」
矢部智弘は、シンク脇のハイスツールにまたがり、口いっぱいに頬張りながら言った。
ボタンを外したシャツの上にディスカウントストアで買った吸血鬼のマントを羽織り、カボチャと燻製パンチェッタのクロケットをクチャクチャと音を立てて咀嚼している。
それは、生徒会が廊下のジャック・オー・ランタンを彫るためだけに使い、ゴミ箱へ捨てようとしていたカボチャの果肉と脂身の切れ端を直哉が回収して作ったものだった。
その隣では、業務用冷蔵庫に寄りかかり、スマートフォンに指を張り付かせたまま沼田圭介が画面から目も上げずにクスクスと笑っていた。
顔の半分にガイコツのペイントを施していたが、コンロの熱気のせいで白いドーランが鼻の周りで脂っぽく溶け始めていた。
「ほっとけよ、智弘。楠木は他人の残飯を片付けてる時が一番イキイキしてるって知ってるだろ」
沼田は、部屋の中で一番強い者にすぐ同調する特有の鼻にかかった細い声で言った。
「むしろ、教員用のパントリーからシードルを三本くすねてきたことは感謝してやれよ。……ああ、それと直哉。もし明日の朝、在庫を調べられたら、お前がシチューの風味付けに使うために勝手に持ち出したってことにしろよな、いいな? 俺たち二人は中庭にいたんだからな」
「うん、わかってる……心配しないで」
直哉はおとなしく、どこか卑屈なほどの笑みを浮かべながら呟き、鋳鉄製の鍋の下の火を弱めた。
「もし高木先生に何か聞かれたら、生ゴミを下へ運ぶ時に木箱を滑らせて割ってしまったって言っておくよ」
矢部は満足そうに鼻を鳴らし、油で汚れた爪楊枝を、直哉が磨き上げたばかりのシンクへ放り投げた。
「だからお前は俺たちの親友なんだよ、直哉。マジで最高のダチだぜ」
――親友、か。
二人に背を向けたまま、直哉は磨き上げられたステンレス製換気フードに歪んで映る自分の顔を見つめた。
暗い金属の表面の中で、彼の唇から従順な笑みはすでに消え失せ、井戸の底の水のように平坦で、微動だにしない無表情へと変わっていた。
罵倒されることも、毎週金曜日の放課後に掃除当番を押し付けられることも、彼にはどうでもよかった。
学校中が外で騒いでいる時に、この調理室にいるのが好きだったのだ。
ここにあるすべては、正確な化学と物理の法則にだけ従う。
タンパク質は六十五度で凝固し、植物油は二百十度で煙点に達する。
そして手根部の高さで神経を断ち切られた指は、いかなる柄も握ることができなくなる。
そこには偽善も、スクールカーストもない。
ただ『原因』と『結果』だけがある。
直哉は引き戸の上の壁掛け時計に目をやった。
午後九時五十八分。
私立長峰学園は、県内の終着駅からバスで四十分もかかる深い森の丘の上に建っていた。
八十年代の旧寄宿学校を、新任の小倉宗広校長が民間資金を集めて改装し、『完全防犯・最新セキュリティの安全なキャンパス』という触れ込みで地元の富裕層の子弟を集めている学校だった。
直哉は三日前の夕方のことをよく覚えていた。
換気扇のフィルターの油汚れを落とすために遅くまで残っていた時のことだ。
小倉校長が、来訪者名簿に名前のない二人の作業員を連れて、地下の業務用通路を一人で歩いているのを見たのだ。
小倉は隠れて、クローブ(丁子)とマダガスカル産バニラの香りがついた細巻きの葉巻を吸っていた。
暗闇の中でも香辛料を嗅ぎ分けられる直哉なら、千の匂いの中からでも一瞬で判別できる、甘ったるく重い匂いだ。
校長は作業員に命じて、非常用防火扉の裏側に工業用の電磁ロックを取り付けさせていた。
法律で定められているような、内側のパニックバーを押せば開くものではない。遠隔操作でしか開かない、完全密閉型のロックだった。
足音が近づいてきた時、直哉は電源の切られたプレハブ冷蔵庫の中に滑り込み、吊るされた鶏の丸鶏の後ろで息を潜めた。
そして小倉校長が低く押し殺した声で、保険金のこと、マカオで膨れ上がったカジノの借金のこと、そして十一月一日の夜明けまでにすべての負債を帳消しにする『招待制のプライベート・ショー』について電話で話しているのを聞いたのだった。
直哉は警察には何も言わなかった。矢部や沼田にも何も言わなかった。
ただ、自分が密かに研ぎ澄ませておいた備品の骨スキ包丁――刃渡り十五センチ、刃幅十四ミリ、硬質な三角形の刃を持つ肉解体用の包丁――を、ステンレスワゴンの二重底の下に隠して、潮目がどう動くかを静かに待っていたのだ。
午後十時〇〇分。
後夜祭の終了を告げるチャイムは、鳴らなかった。
その代わりに、靴底の下のリノリウムの床を震わせる鈍い衝撃が走り、続いて鉄筋コンクリートの校舎全体を貫く金属音が響き渡った。
――ガシャアアアン、ガシャン、ガシャン、ガシャンッ!
調理室の大きな窓の外で、台風や暴動に耐えるよう設計された亜鉛メッキ鋼板の分厚い防犯シャッターが、ギロチンのような激しさで一斉に落下した。
窓ガラスは完全に封鎖され、室内は非常灯とガスコンロの青い種火だけに照らされた不気味な緑色の薄闇へと沈んだ。
「な、なんだよこれ……!?」
矢部は危うくスツールから転げ落ちそうになり、紙皿をひっくり返した。
「誰かが大元のブレーカーを落としたのか? 三年生の悪ふざけかよ!?」
「おい、圏外だぞ!」
沼田の声が裏返り、スマートフォンの画面を親指で必死に連打した。
「アンテナがゼロだ! 学校のWi-Fiすら繋がらない! 『サービスエリア外』って出てる!」
直哉は落ち着いた無駄のない手つきでガスコンロの火を消し、壁の配管の元栓バルブも閉めた。
「停電じゃないよ」
直哉は低い声で言い、二階のメイン廊下に面した引き戸へ近づいた。
「強制換気の気流が今、逆転した。それにシャッターの電磁ロックは電力を消費してる。誰かがマスター端末から隔離プロトコルを起動したんだ」
「日本語で喋れよ、陰キャ!」
矢部が怒鳴ったが、その頬からはすでに血の気が引き始めていた。
黒板の上の壁掛けスピーカーから、キィィィンという鋭いハウリング音が鳴り響いた。
録音されたアナウンスも、避難訓練の警告もない。
ただ、ゴムの膜越しに響くような、ゆっくりとした深い呼吸音だけが増幅されて流れ、直後に空気圧ピストンが弾ける乾いた音が続いた。
――ズドンッ。
一秒間の完全な静寂。
次の瞬間、階下から――ハロウィンビュッフェを囲んで仮装した二百人の生徒が踊っていた一階の中央アトリウムから――最初の悲鳴が爆発した。
お化け屋敷で盛り上がる甲高い歓声などではなかった。
二度目の空気圧の打撃音によって途中でブツリと断ち切られた、血を吐くような絶叫。
それに続いて、何百人もの足が一斉に逃げ惑う地響きと、テーブルがひっくり返る轟音、そして鋼鉄で封鎖された正面玄関に肉体が激突する鈍い音が響き渡った。
「あ、上がってくる……階段から上がってくるぞ!」
沼田がどもりながら後ずさりし、シンクに背中をぶつけた。
調理室の網入りガラス戸の向こう側、メイン廊下を二年生の生徒たちが全速力で駆け抜けていった。
衣装が引き裂かれ、顔面に赤黒い飛沫を浴びた魔女の仮装の女子生徒。
そのすぐ後ろを、封鎖された窓をこじ開けようと喉が裂けんばかりに叫びながら走る陸上部員の男子が二人。
そして、東階段の踊り場から、一つの影が姿を現した。
そいつは走っていなかった。建物のタイルの一枚一枚まで知り尽くしている者の、重く規則正しい足取りで歩いていた。
黒い工業用食肉解体エプロンを身にまとい、つま先に鋼鉄の入った安全長靴を履き、顔には真鍮のリベットが打たれた煮革製の『ペスト医師の仮面』をつけていた。
一歩踏み出すごとに、長く湾曲した嘴が不気味に揺れる。
左手には背の分厚い肉切り包丁。
そして右手には、肩から下げた圧縮空気ボンベにホースで繋がれた金属製の円筒を握っていた。
――『屠畜銃』。
火薬を使わず、音も立てずに、伸縮する鋼鉄のロッドで牛の頭蓋骨を撃ち抜くために食肉処理場で使われる道具だ。
陸上部の男子生徒の一人が、ワックスで光る調理室前の廊下で足を滑らせて転倒した。
真鍮の嘴の男はわずか二歩で彼に追いつくと、少年の肩甲骨の間に長靴を乗せ、円筒の銃口を少年の後頭部に押し当てて引き金を引いた。
――ズドンッ。
鋼鉄のボルトが十分の一秒で頭蓋骨を貫き、再びシリンダーへと戻った。
少年の体は一度だけ激しい痙攣を起こすと、そのまま動かなくなった。
頭の下から広がり始めた黒々とした血だまりが、調理室の引き戸の下部レールにまで達する。
沼田は嘔吐をこらえるために両手で口を覆い、床に膝から崩れ落ちた。矢部は膝頭がぶつかり合うほど激しく震えていた。
「こ、殺される……全員殺されるぞ……!」
すりガラスの向こうで、残りの生徒たちを追い詰めるために西棟へと向かう黒い影を血走った目で見つめながら、矢部が喘いだ。
「正面玄関は閉まってる! 袋の鼠だ!」
「すべての出口が外側のシャッター回路に繋がってるわけじゃないよ」
直哉が囁いた。
吐息のようなかすかな声だったが、あまりにも落ち着き払っていたため、二人はまるで初めて直哉を見るかのように振り返った。
「北側の業務用廊下の奥にある非常階段は、地下のボイラー室に繋がってる。そこには食堂の納入業者専用の防火扉があって、外周フェンスの向こうの排水トンネルに直接出られるんだ。あいつが西棟にいる今のうちに動かないと」
「な……なんでお前がそんなこと知ってんだよ!?」
矢部が直哉のシャツの襟首を掴んで唾を飛ばした。
「毎週、君たちの代わりに廃油のドラム缶を下まで運んでるのが僕だからだよ」
直哉は再び視線を落とし、いつもの温和で、どこか申し訳なさそうな口調で答えた。
「ただ、トンネルのロックには手動の緊急遮断装置がついてる。向こう側へ出て外の出口を開けるためのレバーを引くと、逆火を防ぐために内側の防火扉が三十分間、磁気で完全ロックされる仕組みなんだ」
「だったら何を突っ立ってんだ!? 動け、お前が先に行け!」
矢部は直哉を調理室の裏口へと突き飛ばした。
その際、メンテナンス用の工具と救急箱が入った重い帆布バッグを直哉の腕に乱暴に押し付けることも忘れなかった。
「これを持て! もし鉄格子が閉まってたらバールが必要になるだろ!」
直哉は重いバッグのストラップを胸に抱え込みながら――『僕の足を遅らせるための、十二キロの無意味な鉄くずか』と頭の中で冷静に記録し――ズボンの布地越しに、作業台を離れる前に右腰のベルトに差し込んでおいた骨スキ包丁の硬い鞘を二本の指でそっと確かめた。
三人は北側の業務用廊下へと滑り出た。
空気はオゾンと焦げた埃、そして銅(血)の匂いがした。
遠くの講堂の方角から、空気圧ピストンの鈍い発射音と、シャッターに追い詰められた生徒たちの次第にまばらになっていく悲鳴が交互に聞こえてくる。
打ちっぱなしのコンクリートの階段を、校舎の腹の底へと駆け下りた。
先頭は追われる犬のように荒い息を吐く沼田、すぐ後ろに何度も背後を振り返る矢部、そして最後尾の直哉は、二人の足音のリズムに合わせて意図的に自分の呼吸をコントロールしていた。
配管が走る地下通路にたどり着いた。
三十メートル先、オレンジ色の保安灯に照らされて、納入業者用トンネルの分厚い灰色の防火扉が見えた。ワイヤー入りの小さな縦長の覗き窓と、赤いロック解除ハンドルがついている。
「あった! 開いてるぞ!」
沼田がこれまでの人生で見せたこともないような必死の勢いで前へと飛び出した。
まさにその瞬間。
通路の中間にある業務用リフト――厨房からパレットを運ぶための大型昇降機――の扉が、チーンという金属音を立てて開いた。
照らし出されたカゴの敷居の上に、ペスト医師の仮面をかぶった男が立っていた。
左手に握られた肉切り包丁からコンクリートの床へ血が滴り落ち、真鍮の嘴がゆっくりと、十五メートルも離れていない三人の少年の方へと向けられた。
圧縮空気ボンベのバルブがシューッと音を立て、ピストンに圧力が充填される。
「走れ! 走れえええッ!」
矢部が完全に理性を失って絶叫した。
沼田はすでに防火扉の敷居を越えていた。
矢部もそのコンマ五秒後に鋼鉄の扉に到達したが、油圧式の重い扉が完全に閉まり、磁気ラッチがかかるまでには最低でも三秒はかかる。
直哉は彼らのすぐ二歩後ろにいた。扉の縁を掴むまで、あと一メートルもなかった。
背後では、殺人鬼の鋼鉄入りの長靴がコンクリートの上で加速していた。
矢部は迫り来る真鍮の嘴の怪物を一瞥し、次に重いバッグを抱えて敷居をまたごうとしている直哉へ視線を落とした。
矢部智弘の瞳には、一瞬の躊躇も、良心の呵責もなかった。
ただ、生き延びるために宿主を切り捨てる寄生虫の、残忍で卑怯な打算だけがあった。
「邪魔だ、どけッ!」
手を差し伸べる代わりに、矢部は工具バッグのストラップを掴み、自分たちの方へ引き込むために直哉の手から力任せにひったくると、その同じ動作のまま、直哉の胸骨のど真ん中に靴底を叩き込み、脚の力をすべて使って後方へと蹴り飛ばした。
直哉の体は後ろ向きに宙を舞い、冷たいコンクリートの床に肘と背中を激しく打ちつけながら、殺人鬼の血まみれの長靴のすぐ目の前まで二メートルも滑っていった。
――ガシャアアアアンッ!
鋼鉄の防火扉が耳をつんざく轟音とともに閉まった。
向こう側で、沼田と矢部が両手で赤い手動ロックのレバーを引き下ろす。
扉の上の磁気ランプが緑から『赤の点灯』へと変わった。三十分間の完全密閉が作動したのだ。
直哉は割れた唇から顎へと温かい血の筋を垂らしながら肘をついて上体を起こし、扉の中央にある分厚い防弾ガラスの縦長の覗き窓を見上げた。
厚さ三センチのガラスの向こう側で、汗だくの矢部の顔が、パニックと「自分だけは助かった」という陶酔に歪んだヒステリックな笑みを浮かべて彼を見下ろしていた。
「悪く思うなよ、直哉!」
防音ガラス越しに矢部が叫んだ。声はくぐもっていたが、唇の動きではっきりと読み取れた。
「三人一緒じゃ追いつかれてたんだよ! 人生で一度くらい役に立って、お前がバラバラにされてる間に俺たちが逃げる五分間を稼いでくれや!」
その後ろにいる沼田は、直哉と目を合わせる勇気すらなかった。
矢部の吸血鬼のマントの袖を引っ張り、二人は背を向けて東棟へと上る内側のスロープを駆け上がっていった。
直哉は封鎖された扉の根元に背中を預けたまま、床に座り込んで動かなかった。
叫びもしなかった。上の階の生徒たちのように防弾ガラスを拳で叩きもしなかった。
ただ、覗き窓の向こうで小さくなっていく二人の「親友」の背中を見つめながら、ほとんど臨床医のような冷徹さでたった一つの技術的な事実だけを頭の中に記録していた。
(僕を締め出すのに焦るあまり、あの二人のバカは、外のトンネルのハッチを開ける前にボイラー区画の隔離レバーを引いてしまった。……自分の手で、二階へ逆戻りする循環ルートに閉じこもったんだ)
背後で響いていた重い足音がゆっくりと減速し、やがて止まった。
ペスト医師の長い影が直哉の体の上に落ち、オレンジ色の非常灯の光を遮った。
血に汚れた長靴が、直哉の膝から二十センチも離れていない場所でピタリと止まる。
直哉は浅く不規則な呼吸を続け、恐怖で全身が麻痺しているかのように肩を完璧に震わせながら、右手の指先だけはシャツの下に隠した包丁の柄から数センチの位置に保っていた。
圧縮空気の放出音を待った。額に押し当てられる鋼鉄の円筒の冷たい感触を待った。
だが、一撃は来なかった。
仮面の男は長い五秒間、微動だにせず立ち尽くし、まず足元にうずくまる少年を見下ろし、次にワイヤー入りガラスの小さな覗き窓越しに、仲間の命を売って逃げ去ったばかりの矢部と沼田が消えた無人の通路を見つめた。
革と真鍮の嘴の下から、仮面に内蔵されたボイスチェンジャーによって歪められた金属的な音が漏れた。
低く、しゃがれた、どこか満足げな笑い声だった。
殺人鬼はゆっくりと屠畜銃を脇へ下ろした。
手袋をはめた手でベルトから耐衝撃ケースに入った業務用タブレットと、黒染めされた分厚い刃を持つタクティカルナイフを外すと、直哉の前で片膝をついた。
男が前のめりになった瞬間、仮面の通気スリットから、どんな工業用石鹸でも白衣の襟から消し去ることのできなかった微かだが紛れもない匂いを、直哉の鼻腔が捉えた。
――黒タバコ、クローブ(丁子)、そしてマダガスカル産のバニラ。
そしてまさにその瞬間、小倉宗広校長の仮面の黒いレンズを見つめ返しながら、楠木直哉の心の中から「震え」が完全に消え失せた。
【第二幕:死角と煙点】
「見ろよ、あいつらの逃げっぷりを」
真鍮の嘴の下に隠されたボイスチェンジャーから漏れた声は、耳障りで不自然に低く、声色の特徴を消すために電子的に二オクターブ下げられていた。
それでも、配管が走る地下通路の静寂の中で、直哉には文節ごとに混じる微かな喘息のような呼気音がはっきりと聞こえていた。
十五キロの圧縮空気ボンベを背負った、運動不足の五十代男性の浅い息遣いだ。
ペスト医師の仮面をかぶった男は、直哉の膝のすぐ前のコンクリートの床に、黒染めされた重いタクティカルナイフを置いた。そして防弾仕様のタブレットを持ち上げ、画面を直哉の方へと向けた。
バックライトに照らされたディスプレイには、長峰学園の三次元フロアマップが浮かび上がっていた。
一階のアトリウムや封鎖された廊下には何十もの赤い点が塊になって点滅しており、そこから離れた二つの点だけが、東棟の副階段に沿って素早く二階へと上がっていくのが見えた。
「あの二匹の虫ケラは、お前の友達を名乗っていたはずだよなあ、楠木?」
金属的な声が尋ねた。
直哉は唇をわずかに開け、床に置かれた黒い刃に視線を固定したまま、胸を浅く不規則に上下させた。返事はせず、汚れたリノリウムの床に拳を強く握りしめ、関節を白く浮き上がらせる。
だが実際には、ショックで動けないふりをしながら、直哉の瞳は二秒足らずのうちに「三つの決定的な証拠」を焼き付けていた。
┏━━━━━━━━━━━━━━┓
【直哉の観察記録:罠の構図】
① 身体的特徴:右手首の尺骨横に「三日月形の火傷痕」(9月の体育祭で小倉校長が負った傷と一致)
② 管理者パス:タブレットに入力された『198411』(旧校舎創立年月・校長専用のマスターコード)
③ カメラ稼働状況:全32台中30台が停止。『CAM_04(2階廊下)』と『CAM_05(調理室)』の2台のみ外部クラウドへ生配信中
┗━━━━━━━━━━━━━━┛
(……そういうことか)
氷のように冷たいアドレナリンが背骨を駆け上がるのを感じながら、直哉は思考した。
(スケープゴート(生贄の羊)だ)
直哉の目は、エプロンの左脇の下、ボンベのホースに半分隠されたハードホルスターも見逃さなかった。
そこに収まっているのは解体用の道具ではなく、銃身に長い円筒形のサプレッサー(消音器)がねじ込まれた小型自動拳銃のチェッカリング加工されたグリップだった。
構図は幾何学的なほど単純だった。
小倉校長のマカオでの借金を肩代わりしているダークウェブの投資家たちは、彼の仮面に仕込まれた小型カメラからの「虐殺の生配信」を求めている。
一方で日本の警察は、明日の朝六時には、政治的スキャンダルを起こさずに四十八時間以内で事件を幕引きにするための「現場で死亡した犯人」を必要とする。
そして、楠木直哉以上に都合のいい人間がどこにいるだろうか?
誰からも気づかれず、こき使われ、見下されてきた孤独な生徒が、ハロウィンの夜に精神を崩壊させ、自分が愛用していた調理室で――奇跡的に稼働し続けていた二台の防犯カメラの真ん前で――二人の「親友」をナイフでメッタ刺しにし、最後は特殊部隊が突入する前に自らの口に銃口を突っ込んで自殺するのだ。
「あいつらは引くレバーを間違えた」
歪んだ校長の声が続けた。モニターの上の二つの点は、ちょうど二階の調理室の区画内で止まっていた。
「排水トンネルへ出たつもりで、自分の手で循環ルートに閉じこもったんだ。今、あいつらはさっきまでお前たちが作業していた調理室に立てこもっている。一階へ下りることも、シャッターを開けることもできない」
鋼鉄の安全靴のつま先がタクティカルナイフを押しやり、直哉の膝にコツンと当てた。
グリップは塗装されていない粗いポリマー製で、手のひらの汗を吸い込み、何時間経っても完璧な指紋を残すように設計された表面加工が施されている。
「これを持て」
ペスト医師が囁いた。
「あいつらは二年間、お前を雑巾のように使い捨て、今夜は自分の寿命を三十秒延ばすためにお前を俺の腕の中へ蹴り飛ばした。業務用リフトのロックを開けてやる。上へ行き、あの教室に入って、お前が受け取るべきものを回収してこい。この地下で起きたことは、誰にも知られはしない」
直哉は潤んだ瞳をゆっくりと持ち上げ、仮面の黒いレンズを見つめた。
下唇を震わせ、それから顔の筋肉を歪ませて、裏切りに打ち砕かれた十七歳の少年が浮かべるであろう、絶望的で幼稚な怒りの表情を完璧に作り上げた。小倉のような傲慢な大人が最も好む顔だ。
「あ……あいつら……絶対許さない……っ」
直哉は掠れた声で喘いだ。
そして床のナイフへと右手を伸ばした。
だが、その指がグリップを包み込む瞬間、直哉はシンクを洗った時の水と次亜塩素酸ナトリウム(漂白剤)でまだ湿っているシャツの長い袖口を、自分の皮膚とグリップのポリマーの間に目に見えないほど自然に滑り込ませた。
布越しに柄を握り、裸の親指はあとで一瞬で拭き取れる平らな鋼の刃の腹にだけ当てたのだ。
小倉がタブレットのキーを押した。メインリフトの奥にある、電気技師専用のタラップ(垂直梯子)の点検扉がカチンと乾いた音を立てて解錠された。
「行け」
校長は一歩後ろへ下がり、道を空けた。
「楠木直哉を置き去りにした奴がどうなるか、思い知らせてやれ」
直哉はよろめきながら立ち上がり、袖口で包んだタクティカルナイフを怒りに目のくらんだ自動人形のように握りしめ、メンテナンス用シャフトの垂直な闇の中へと滑り込んだ。
最初の十段の鉄梯子は、復讐に逸る人間特有の重く騒々しい足音を立てて登った。
だが、一階の床スラブを抜け、地下からの視界と聴覚の届く範囲から完全に外れた瞬間、直哉はピタリと足を止めた。
垂直なダクトの暗闇の中で、彼の体から「震え」の痕跡が完全に消え去った。
呼吸は深く、ゆっくりと、完全な無音へと戻る。
左手の甲で割れた唇を拭い、自分の血の鉄錆の匂いを舌で確かめると、ズボンのポケットから食品用の真空パック袋を取り出した。調理室の当番の時にいつも持ち歩いているエンボス加工のポリ袋だ。
直哉は素手でグリップに一切触れないよう細心の注意を払いながら、校長のタクティカルナイフをその袋の中へと収めた。
鍔の金属部分には、まだ小倉の手袋の微細な繊維とベルトの脂が付着している。適切なタイミングで持ち主に返却するための、貴重な証拠品だ。
二階のメンテナンス用踊り場にたどり着いた直哉は、メイン廊下へ出る扉を開けなかった。
そこから四メートル先の下駄箱の上で、『CAM_04』のレンズが毎秒三十フレームですべての動きを記録していることを知っていたからだ。
代わりに、胸ポケットから金属製のヘアピンを抜き出し、調理室に隣接する小さな洗剤倉庫のシリンダー錠をピッキングで解錠した。
そして、汚れた食器ラックを洗浄エリアへ直接滑らせるための『ダムウェーター(配膳口)』の隙間から、音もなく室内へと滑り込んだ。
身を乗り出す前に、業務用シンクの上に掛けられた青い箱を開け、Mサイズの『黒いニトリルゴム手袋』を二重に重ねてはめた。ゴムが第二の皮膚のように肌に密着するまで、手首の奥までしっかりと引き上げる。
それから、耳を澄ませた。
洗浄エリアと調理台を隔てる大型の観音開き式ブラストチラー(急速冷却機)の向こう側から、薄暗い調理室に響く矢部智弘と沼田圭介の切迫した声が聞こえてきた。
「……開かねえんだよ! あの野郎、外のマンホールまで閉めやがったんだ!」
正面の引き戸の前に二台の作業台を押し付けてバリケードを作ったばかりの矢部が、荒い息を吐きながら怒鳴っていた。その右手には、直哉から奪ったバッグから取り出した長さ六十センチの鍛造鋼のバールが握られている。
「ど、どうするんだよ智弘ぉ!?」
シンクの近くでうずくまり、溶けたガイコツメイクと涙でぐしゃぐしゃになった顔で沼田が泣き喚いた。
「も、もし……もし直哉を殺したあと、あいつがあの階段から上がってきたらどうするんだよ!? 直哉はトンネルのことを知ってた! 死ぬ前にあいつに喋ったかもしれないだろ!」
「黙れ、ウジ虫! 直哉なら今頃、階段の下で頭をかち割られて死んでるに決まってんだろ!」
矢部は吠えたが、バールを握る手は目に見えて震えていた。
「あのイカれた野郎が持ってるのは近距離用の屠畜銃だ。もしここから扉をこじ開けようとしたら、入ってきた瞬間にこの鉄の棒で歯を全部へし折ってやる。それでもダメなら……」
矢部は沼田の方へ、卑劣で打算的な視線を向けた。
「……それでもダメなら、お前の方が俺より扉に近いからな」
ブラストチラーの後ろに隠れたまま、直哉は教室の左上隅、教師用の演示テーブルの上を見上げた。
そこには『CAM_05』のスモークガラスのドームがあり、中央の作業台と出入口の扉を真っ直ぐに捉えていた。
直哉はそのカメラの画角をミリ単位まで知り尽くしていた。
なぜならこの二年間、矢部と沼田が教員用冷蔵庫から食材を盗んだり、空き時間に電子タバコを吸ったりするたびに、直哉に見張りをさせていた場所がまさにこのブラストチラーとスチームシンクの後ろ――広角レンズが何も映し出せない、わずか三平方メートルの『死角』だったからだ。
だが、これからやることには三平方メートルでは足りない。この部屋全体が必要だった。
直哉は微かな音すら立てずに、業務用ドアタイプ食器洗浄機の下に身をかがめた。
そこには九十度のすすぎ用ボイラーの銅製排気管が走っており、石灰除去作業の際に飽和蒸気を逃がすための手動過圧バルブがついていた。
排気パイプはタイル張りの壁に沿って上へと伸び、『CAM_05』の取り付けブラケットから四十センチも離れていない場所で口を開けている。
ニトリル手袋に包まれた指で、直哉は蒸気逃がし弁の赤いハンドルを掴み、反時計回りに限界まで回し切った。
――ブシュウウウウウウウウウッ!!
九十五度の水蒸気の猛烈なジェット噴射が機関車のような轟音とともに上部の排気口から噴き出し、教卓の上の天井を直撃した。
わずか四秒足らずで、沸騰した湯気の濃密で乳白色の雲が『CAM_05』の冷たいガラスドームを包み込み、光学センサーが記録する映像を、何も見通せない真っ白な壁へと変えた。
ケーブルの切断も、電子的な改ざんもない。ただの「厨房の湯気」だ。
「な、なんだ!? 今の音はなんだよ!?」
沼田が悲鳴を上げて飛び起きた。白い霧が調理室の上半分を満たし始め、石灰と業務用洗剤の匂いが立ち込める。
「配管が破裂したのか!?」
「洗い場からだ!」
矢部はバールを肩の高さに構え、湯気に包まれたステンレス作業台の間をゆっくりとした足取りで進んできた。
「そこに誰かいるのか!? 出てこい、頭をぶち割るぞ!」
直哉はベルトの鞘から、自分が密かに研ぎ澄ませておいた備品の骨スキ包丁を抜き出した。
刃渡り十五センチ、峰の厚さ四ミリ、刃幅十四ミリ。
骨に引っかかることなく関節の間を滑り抜けるよう非対称の角度でカミソリのように研ぎ澄まされた三角形の刃は、非常灯の緑色の光の中でも一切の反射を生まなかった。
左手では、サービスワゴンから五リットル入りの業務用オーブン用・高濃度アルカリ性油脂洗浄剤のポリタンクを掴み、キャップをひねって開けた。
そして、ブラストチラーの後ろから一歩、姿を現した。
「僕だよ、智弘」
直哉の声は穏やかで、礼儀正しく、二十分前に盗んだシードルの罪をかぶると約束した時とまったく同じ響きをしていた。
矢部と沼田は中央の通路の真ん中で石のように凍りついた。
「な……直哉!?」
沼田が目を見開き、天板ラックにぶつかるまで後ずさりした。
「ど、どうやって上がってきたんだよ!? 下の扉はロックされてたはずだろ! あの化け物がすぐ後ろにいたのに!」
矢部は直哉の両手に視線を落としたが、低く垂れ込めた湯気とステンレス台の側面に隠れて、太ももの横に垂らされた骨スキ包丁の刃は見えなかった。
唇が腫れ、シャツが埃まみれになっている同級生の姿を見て、矢部の顔から恐怖が消え、代わりに卑屈で嘘くさい笑みが浮かんだ。
その脳みそはすでに、どうやって言い逃れをするかという計算を始めていた。
「直哉! 生きてたのかよ、兄弟!」
矢部は安堵したような大げさな身振りで左腕を広げたが、右手だけは腰の後ろでバールの柄をしっかりと握りしめていた。
「よかったぜ、マジで! 下の通路で沼田がパニックになりやがって、俺がお前を引っ張り込む前に赤いレバーを引いちまったんだよ! 解除しようとしたんだけど、もう磁石が作動しててさ! 俺たち……ちょうどお前を開けに下へ戻る別のルートを探してたところなんだよ、本当だぜ!」
「そ、そうだよ直哉、そういうことなんだ!」
沼田もすぐさま便乗し、首がもげるほど頷いた。
「俺たちがお前をわざと置いていくわけないだろ、俺たち親友じゃないか!」
「そう?」
直哉はわずかに首を傾げた。
「変だな。僕の胸の真ん中には、まだ君のスニーカーの靴底の跡がくっきり残ってるのにね、智弘。サイズ27・5センチ、右のかかとがすり減った六角形のトレッドパターンだ」
矢部の作り笑いが凍りついた。
嘘が通用しないとコンマ一秒で悟った彼は、追い詰められた時にいつもそうするように、おべっかからむき出しの暴力へと切り替えた。
「……ああそうかい、クソ陰キャが、それがどうしたってんだよ!?」
矢部は唾を吐き捨て、肩の筋肉を膨らませて頭上にバールを振り上げた。
「俺たちが死ぬよりお前が死ぬ方がマシに決まってんだろ!? お前はただ俺たちの皿を洗うだけの犬なんだよ! それに、あのイカれた野郎に見つからずにここへ上がる裏道を見つけたんなら、今すぐどこを通ったか吐け! さもないと俺がここで頭をかち割ってやる!」
矢部は作業台とコンロの間の狭い通路を突進し、直哉の鎖骨を真っ直ぐ狙って三キロの鉄塊を斜めに振り下ろした。
直哉は一歩も退かなかった。
矢部が突進を始める二秒前、直哉は脇に抱えた五リットルのポリタンクをわずかに傾け、無色透明の高濃度アルカリ洗浄剤を、自分の足元の滑らかなリノリウムの床タイルの上に五百ミリリットルほど静かに流し出していたのだ。
矢部の右足――かかとがすり減った方の靴――が突進の全重量を乗せて純粋な界面活性剤の粘り気のある水たまりを踏み抜いた瞬間、靴底はまるで濡れた氷の板を踏んだかのように完全に摩擦を失った。
「なっ――!?」
矢部の足が空を切って前へ滑った。
バールの一撃は完全に軌道を失い、火花の雨を散らしてシンクのステンレスの縁を空振りし、大柄な少年の上半身がバランスを崩して無防備に前へと倒れ込む。
直哉は、まな板の上で豚の肩肉から骨を外す時と同じくらい滑らかで無駄のない動きで、半歩だけ横へ身をかわした。
硬質な骨スキ包丁の刃が、短く、ほとんど目に見えない弧を描いた。
闇雲に振ったのではない。
三角形の切っ先は、矢部の右手首の内側、掌のシワのわずか二センチ下に平らに入り込み、橈側手根屈筋の腱と正中神経をたった一太刀でスパッと断ち切り、手根骨の表面をカリッと削った。
――原因と、結果。
糸を切られた操り人形のように、矢部の指が瞬時に開いた。バールが床に落ちて激しい金属音を立てる。
「ぎゃあああああっ! 手が! 俺の手が握れねえッ!」
矢部は滑りやすいリノリウムの床に膝から崩れ落ち、だらりと垂れ下がった手首から鮮血が噴き出すのを恐怖に引きつった目で見つめた。
「お、お前……包丁を持ってんのか!? 気でも狂ったのか、直哉あッ!?」
「先週の金曜日、スライサーを掃除してる時に言ったはずだよ、智弘」
直哉は囁きながら、立ち上がろうとする矢部のジェルで固めた後ろ髪を掴み、顎を後ろへと引き上げた。
「手根部の神経束を切断すれば、脳が電気信号を送っても、指は二度と動かなくなるってね」
「圭介! 助けろ圭介、その鉄パイプを拾えッ!」
矢部は洗浄剤の上で靴を空回りさせ、必死に床を蹴りながら絶叫した。
作業台の奥で、沼田は床に広がる血を見つめ、白い湯気の向こうにある直哉の瞬き一つしない完全に空虚な瞳を見つめ、そして彼の本性が許す唯一の行動をとった。
友人の悲鳴を完全に無視し、自分一人で逃げるために出口の扉を塞いでいる作業台へと向き直り、全力でそれを引きずり始めたのだ。
「じ、自分でなんとかしろよ智弘! あいつが恨んでるのはお前だろ! 蹴り飛ばしたのはお前じゃないか!」
沼田はヒステリックな声で叫びながら、扉の落とし錠を外そうと爪を立てた。
「う、裏切り者……クソ野郎が……ッ!」
矢部が血の泡を吐きながら呻いた。
それが、彼の口から出た最後の言葉だった。
直哉は芝居がかった無駄な動きに体力を使わなかった。
骨スキ包丁の硬い刃を、矢部の左鎖骨上窩――鎖骨の上のくぼみ――に、下方かつ胸の中央へ向けて四十五度の角度で差し込んだ。第一肋骨の上を走る鎖骨下動脈が、骨の保護を一切受けていない場所だ。
鍔まで押し込み、手首を四分の一回転させる。
矢部の叫び声は、湿ったゴボゴボという呼気音へと変わった。
動脈圧は六秒足らずで急降下し、石鹸水の上で暴れていた両脚が動きを止め、吸血鬼のマントを羽織った重い体がブラストチラーの根元へと崩れ落ちた。曇った防犯カメラの完全な死角の中だった。
引き戸の前では、沼田が最初のステンレス台を二十センチほど動かすことに成功していたが、脂汗で滑る指では下部の安全ストッパーを持ち上げることができずにいた。
背後で突然訪れた静寂――食器洗浄機から立ち上る蒸気の一定の噴出音だけが響く静寂――に気づいた時、沼田は網入りガラスに背中を押し付けたまま、ゆっくりと振り返った。
直哉はすでに彼から二メートルの場所に立っていた。
顔には血の飛沫すら一滴もついていない。ただシャツの右袖と黒いニトリル手袋だけが、非常灯の下で赤黒く濡れて光っていた。
「な、直哉……直哉、聞いてくれ、頼むから!」
沼田はその場にへたり込み、ガイコツのメイクを施した顔の前で両手を合わせ、歯の根が合わないほど激しく震えた。
「お、俺はやりたくなかったんだ! いつも矢部に脅されて無理やり従わされてただけなんだよ! 掃除のことも、シードルのことも、あいつが怖かったんだ! もし見逃してくれたら、警察が来た時に『智弘を殺したのはあの仮面の男だ』って絶対に証言する! お前が俺の命を助けてくれたって言うよ、金だって払う、うちの親父は金持ちだから、お前の欲しいものを何でもやるからぁッ!」
直哉は彼を上から見下ろし、沼田の口の端から垂れるよだれと、彼の左手のすぐ一メートル先にある作業台の上の牛刀へと必死に泳いでいる視線を観察した。
(膝をついて命乞いをしているこの瞬間ですら、僕が触れる前にあの包丁を掴めるかどうかを計算しているのか)
「警察には『仮面の男がやった』って言ってくれるんだね、圭介」
直哉はまるで安心させるかのように、優しく穏やかな声で答えた。
「そうだね。死体は絶対に嘘をつかないから」
空いている左手で、直哉はまだ熱い鋳鉄鍋がいくつも乗った重い天板カート(ホテルパンラック)の縁を掴むと、腰の入った鋭い一撃でそれを沼田の両脚へと突き飛ばした。
沼田が作業台の包丁へ手を伸ばすよりも早く、鉄のフレームが彼の両膝を封鎖された扉へと縫い止める。
沼田は悲鳴を上げようと口を開いたが、直哉の黒い手袋が万力のようにその下顎を掴み、後頭部を扉の金属枠へと押し付けた。
骨スキ包丁の三角形の刃が下からせり上がり、顎の下の柔らかい組織を貫いて、口蓋を突き抜け脳幹へと真っ直ぐに達した。
一度だけの電気的な痙攣。悲鳴は、上がらなかった。
直哉は沼田の体が大きな音を立てて倒れないよう三秒間その体重を支え、それからひっくり返った作業台の脇へと静かに横たえると、刃を引き抜き、七十度のエタノールを染み込ませたマイクロファイバークロスで綺麗に拭き取った。
白い湯気の霧に包まれた黒板の上の壁掛け時計は、『午後十時十九分』を指していた。
封鎖が始まってから、十九分が経過していた。
そして、まさにその瞬間。
調理室の引き戸の向こう側の廊下から、つま先に鋼鉄の入った長靴の、重く、ゆっくりとした、規則正しい足音が響いてきた。
小倉宗広校長が、二階へ上がってきたのだ。
その手にはもう屠畜銃は握られていなかった。
すりガラス越しに、黒い影が扉の前で立ち止まり、右手でサプレッサーを装着した自動拳銃を持ち上げ、左手でタブレットを外側の電子リーダーにかざしてロックを解除しようとしているのがはっきりと見えた。
自分の「完璧な犯人」を自殺させるために、部屋へ入ってくるのだ。
直哉はガラスの向こうの校長の影を見つめ、それから小倉のタクティカルナイフが入った真空パック袋と、教室の入口にある三十リットルの油がまだ百八十度に保たれたままの大型二槽式フライヤーに視線を落とした。
この夜初めて、湯気立ち込める調理室の中で、楠木直哉は微笑んだ。
【第三幕:低温調理と完全犯罪】
――ピッ。
引き戸の上枠にあるLEDランプが、赤から緑へと変わった。
長い三秒間、何も起きなかった。やがて金属製の扉が下部レールの上をゆっくりと四十センチほどスライドし、沼田が死ぬ直前に動かした重いステンレス作業台の角にゴツンと鈍い音を立ててぶつかって止まった。
外の廊下から冷たい光の筋が差し込み、調理室を満たす九十五度の飽和蒸気の濃密な白い霧にすぐさま飲み込まれる。
その隙間から、まずサプレッサーの長い銃身が滑り込み、続いてペスト医師の仮面の湾曲した真鍮の嘴が姿を現した。
小倉宗広校長は半身になって室内へ踏み込み、右手に自動拳銃、左手に耐衝撃タブレットを握り、人差し指をすでにトリガーガードに添えていた。
だが、仮面をかぶった彼の顔が敷居を越えた瞬間、「厨房の物理法則」が最初のツケを支払わせた。
外の廊下の気温は十六度。一方、すすぎ用ボイラーから噴き出した飽和蒸気が充満する調理室の温度は六十度を超えていた。
小倉が一歩目を踏み出したまさにその瞬間、沸騰した湿気がペスト医師の仮面の冷たいガラスレンズの表面で瞬時に結露し、白く不透明な水滴の膜となって視界を完全に奪い去ったのだ。
「楠木?」
ボイスチェンジャーの金属音が呼びかけた。
校長は何も見えなくなったレンズの奥で目を細め、蒸気逃がし弁の耳をつんざく噴出音と、石灰およびアルカリ洗浄剤の鼻を刺す臭いに方向感覚を失っていた。
「楠木、どこにいる? あの二人は片付けたのか?」
小倉は半歩前へ進み、手袋の甲で仮面の右レンズを拭おうとして、タブレットを持った左腕を反射的に十センチほど下げた。
それこそが、直哉が待ち続けていた「たった一秒の隙」だった。
コンロの下の死角にしゃがみ込んでいた直哉は、銃に向かって飛びかかりはしなかった。
両方の踵を構造柱の根元にしっかりと固定し、脚と背中のすべての力を込めて、キャスター付きの重さ八十キロの作業台――引き戸に引っかかっていたあの作業台――の反対側を、鋼鉄の破城槌のように全力で蹴り出したのだ。
――ガシャアアアアアンッ!!
分厚い作業台の縁がスライド扉を鉄の枠へと猛烈な勢いで押し潰し、小倉の右前腕をちょうど手首の高さで万力のように挟み込んだ。
「ぐあああああっ!?」
消音拳銃から一発の銃弾が暴発し――パスッ!――石膏の粉を散らしながら天井の吸音パネルを無意味に貫いた。
鋼鉄の圧力の下で校長の橈骨がミシリと軋み、痺れた指から自動拳銃が滑り落ちてリノリウムの床で跳ねる。
小倉が腕を引き抜くよりも、あるいは左手で肩から下げた屠畜銃を掴むよりも早く、直哉は作業台の後ろから立ち上がった。
その右手に握られていたのは包丁ではなく、三十秒前に稼働中の業務用フライヤーの槽から直接すくい上げた、容量二リットルの銅製の片手鍋だった。
銅鍋の中では、落花生油が『摂氏百八十度』で静かに揺らめいていた。
鉄板の上のロースト肉にソースを回しかける(ナッペする)シェフの、無駄のない鋭いスナップで、直哉は鍋の中身を校長の胸元と仮面の嘴めがけて真っ直ぐに浴びせかけた。
煮えたぎる油が煮革の仮面を直撃し、真鍮の嘴の通気孔と防水エプロンの襟元から灼熱の奔流となって流れ込み、小倉の首筋、顎、そして唇の剥き出しの皮膚へと直接浸透した。
百八十度の油が仮面の左目に仕込まれた小型カメラのレンズとボイスチェンジャーの基板を焼き切ってバチッとショートさせ、校長の喉から噴き出した絶叫がスピーカーを破裂させた。
小倉はタブレットを落とし、熱の檻と化した仮面を両手で必死に掴んだ。百八十度の油を吸い込んだ革が、文字通り彼の下顎の表皮を揚げていたのだ。
小倉は後ろへよろめき、矢部が転んだのとまったく同じアルカリ洗浄剤の水たまりで足を滑らせ、後頭部を激しく床に打ちつけながら仰向けに倒れ込んだ。
激痛の錯乱の中で、彼は自らの手で仮面の後部ストラップを引きちぎった。
真鍮の嘴が湯気の中へ転がり落ち、赤黒く腫れ上がり、光る水膨れに覆われた小倉宗広校長の汗だくの顔が露わになった。
焼けつくような痛みの中で校長が涙に濡れた目を開けた時、その胸骨の上には直哉の膝が全重量を乗せて突き立てられており、こめかみのくぼみには、彼自身の消音自動拳銃の冷たい銃口がピタリと押し当てられていた。
「ま……待て! 楠木、待てッ!」
小倉は酸化した油と混じった唾液を吐き出し、必死に息を吸い込みながら喘いだ。
「私だ! 校長の小倉だぞ! わ、私はお前を助けに来たんだ!」
直哉は彼を上から見下ろした。
その顔には怒りもなければ、死地を脱した生徒のヒステリックな安堵もなかった。
ただ、芯温計でロースト肉の内部温度を測っている料理人のような、平坦で規則正しい静けさだけがあった。
「装填済みでハンマーも起きた状態の、サプレッサー付き9ミリ拳銃を構えてですか、校長先生?」
直哉は低い声で尋ねた。
「ずいぶん変わった生徒の救助方法ですね」
「ち、違う、誓って本当だ!」
小倉はどもりながら、数メートル先に転がる矢部と沼田の動かない死体へと恐怖に満ちた目を走らせた。
「校内にテロリストが侵入したんだ! 地下室でそいつらのうち一人を気絶させて、この衣装を奪ったんだ! お前にあのナイフを渡したのも、自分の身を守らせるためだったんだよ!」
「クローブと、マダガスカル産のバニラ」
直哉は、まるで世間話でもするかのような口調で遮った。
小倉は口をあんぐりと開けたまま固まった。
「な……なに?」
「ボイラー室の通路で先生が隠れて吸っている細巻きの葉巻の匂いですよ。水曜日の夕方、先生がマカオの借金について電話で話し、非常扉に遠隔式の電磁ロックを取り付けさせていた時、僕は電源の切れたプレハブ冷蔵庫の中に隠れていたんです」
直哉は淡々と説明し、顎の先で校長の右手首を示した。
「それに、尺骨の上には九月の体育祭でつくった三日月形の火傷の跡がある。さっき地下室では、管理者端末を『1・9・8・4・1・1』でロック解除していましたよね」
小倉の火傷だらけの顔から完全に血の気が引き、死人のような青白さへと変わった。
「先生は、僕の指紋がべったりついたそのタクティカルナイフを持って、僕にこの二階へ上がらせたかった」
直哉はわずかに首を傾げ、教卓の上でまだ白い霧に包まれている『CAM_05』のドームを見上げながら続けた。
「三十二台ある監視カメラのうち三十台を切り、外の廊下とこの調理室の中の二台だけを稼働させたままにしていた。ハロウィン後夜祭の夜に理性を失った『いじめられっ子の孤立した生徒』として、僕がカメラの前で矢部と沼田をメッタ刺しにする映像を撮るために。そしてそのあと、先生があの扉から入ってきて、消音拳銃で僕のこめかみを至近距離から撃ち抜き、僕の手に銃を握らせる。ダークウェブの債権者たちには仮面の左目に仕込んだ小型カメラから虐殺の生配信を楽しませ、警察の捜査は『無理心中』で綺麗に幕引きにする。……違いますか?」
自分の計画を寸分の狂いもなく解剖され、小倉は木の葉のように震えながら、一つの嘘すら紡ぐことができなかった。
「お、お前は……まともじゃない……」
校長は蚊の鳴くような声で囁いた。
「地下室にいた時から全部気づいていて……それでもここへ上がってきてあいつらを殺したのか! お前は私以上の怪物だぞ、楠木! もし私を殺せば、警察はお前の同級生の死体の切り傷を見る! 私がやったんじゃないとすぐにバレるぞ!」
「ああ、鑑識課の方々なら、組織の断面と映像が示す通りの事実を正確に理解してくれますよ、校長先生」
直哉は答えた。
「食肉解体の面白いところを知っていますか? 刃幅二十八ミリのナイフを通せば、刃幅十四ミリのナイフが残した創傷は完全に上書きされて消えるんです」
┏━━━━━━━━━━━━━━┓
【直哉の完全犯罪・最終調理工程】
① 創傷の上書き:刃幅14ミリの『骨スキ包丁』の刺し傷に、校長の刃幅28ミリの『タクティカルナイフ』を差し込み傷口を7ミリ拡張・上書きする
② 凶器の洗浄:次亜塩素酸ナトリウム(塩素系漂白剤)原液と90℃の熱湯で骨スキ包丁のDNA鎖とヘモグロビンを完全変性させ、備品ラックへ戻す
③ 証拠の隠滅:二重の黒ニトリル手袋を、授業で生徒が使った40組の使用済み手袋の山へ混ぜ込む
④ 防御創と録画:自らの左前腕に浅い「防御創」を刻み、換気フードで湯気を晴らして『CAM_05』に正当防衛の決定的瞬間だけを録画させる
┗━━━━━━━━━━━━━━┛
男の胸骨から膝を決してどけないまま、直哉は拳銃を手の届かない場所へ置き、ポケットから真空パック袋を取り出して、プラスチック越しに小倉のタクティカルナイフを引き抜いた。
そして強い力で、校長の手袋をはめた右手の指をタクティカルナイフの粗いグリップに無理やり握らせ、ケブラー繊維とホルスターの脂を深く刻み込ませた。
それから、直哉はたった一分間だけ立ち上がった。
火傷の熱ショックと手首の骨折で小倉が床で呻き、立ち上がることすらできないでいる間に、直哉は矢部と沼田の遺体へと歩み寄った。
法医解剖医のような冷徹な正確さで、直哉は骨スキ包丁でつけた二つの傷口――矢部の鎖骨上窩と沼田の顎の下――に、小倉の幅広のタクティカルナイフの刃を正確に差し込み、傷口の縁を七ミリ押し広げてから、二人の血にまみれたナイフを矢部の遺体の脇に転がした。
明日の朝になれば、どんな検死官であっても、二人の少年は間違いなく校長のタクティカルナイフによって殺害されたと断定するだろう。
直後に、直哉は自分が密かに研ぎ澄ませておいた備品の骨スキ包丁を手に取り、シンクで純粋な次亜塩素酸ナトリウム(塩素系漂白剤)の原液を浴びせかけながら洗い流した。
わずか数秒でDNA鎖とヘモグロビンを完全に変性・破壊できる唯一の家庭用化学物質だ。
さらにボイラーの九十度の熱湯ですすぎ、乾いた布で拭き上げると、学校の備品である他の十九本の同じ包丁と一緒に壁の磁気ラックの元の場所へと戻した。
最後に、二重にはめていた黒いニトリル手袋を両方とも外し、シンク下の特別廃棄物用ゴミ箱の底へ放り込み、今週の授業で生徒たちが使った他の四十組のまったく同じ手袋の中に混ぜ込んだ。
(一枚の葉を隠すなら、森の中に置けばいい)
レシピの最後の仕上げに残されているのは、ただ一つ。
『CAM_05』の最後の三十秒間の録画映像だけだ。
直哉は食器洗浄機の下の蒸気逃がし弁に歩み寄ってそれを完全に閉め、コンロの上の換気フードのスイッチを最大出力に入れた。
二十秒も経たないうちに、工業用モーターが天井から白い霧を吸い尽くした。
『CAM_05』のドームの結露が晴れ始め、レンズに調理室中央の鮮明な視界が戻ってくる。
画角が完全にクリアになる直前、直哉は床から小倉の血まみれのタクティカルナイフを拾い上げ、奥歯を噛みしめて自分の左前腕に長さ十二センチの斜めの切り傷を自ら刻みつけた。
白いシャツをたっぷりと血で染めるには十分な深さだが、静脈も腱も傷つけないよう浅筋膜の上で精密に計算された「防御創」だ。そしてナイフを再び校長の手の近くに落とした。
それから直哉は、湯気が晴れた監視カメラの画角のど真ん中、小倉宗広の目の前の床に身を投げ出し、校長の肩のボンベに繋がれたままの『屠畜銃』の金属シリンダーを掴んだ。
「な……何をする気だ!?」
頭上の『CAM_05』のレンズが自分たちを捉えているのに気づき、小倉が掠れた声で叫んだ。
仮面を剥がされ、生徒たちの死体と自らの凶器に囲まれた校長と、押し潰されまいと床で必死に抵抗する血まみれの少年。
「待て、楠木! 海外口座の金を山分けしよう! 暗号化ウォレットに三億円ある、パスワードを教えるから――!」
「汚いお金は足がつきますよ、校長先生。僕は静かな暮らしの方が好きなんです」
直哉は室内マイクが絶対に拾えないほどかすかな吐息で囁きながら、天井のカメラに向けては恐怖と涙に引きつった痛ましい表情を作り上げ、肺の限りの大声で絶叫した。
「やめてください! お願いです小倉校長、僕を殺さないで! どうして矢部くんと沼田くんを殺したんですか!? 助けて! 誰か助けてえええッ!」
直哉は校長の両手首を掴み、滑りやすい床の上で激しいもみ合いを演じながら、屠畜銃の鋼鉄の銃口を小倉の火傷だらけの顎の真下、頭蓋骨へと向かう角度へと誘導した。
直哉の親指が発射レバーを押し込む最後のコンマ二秒前、小倉宗広は自分が生贄に選んだはずの生徒の瞳を覗き込み、そしてついに理解した。
この密閉された校舎の中にいた本物の捕食者は、最初からただ一人だけだったのだと。
そしてそれは、自分ではなかったのだと。
――ズドンッ。
伸縮式の鋼鉄ボルトが校長の頭蓋底を撃ち抜き、プシューッという圧縮空気の音とともにシリンダーへと戻った。
小倉宗広の体は一瞬だけ硬直し、そのまま直哉の両脚の上に動かなくなって崩れ落ちた。
◇ ◇ ◇
十一月一日、午前五時四十二分。
県警特殊急襲部隊(SAT)の成形炸薬が、長峰学園の正面玄関の電磁ロックを吹き飛ばした。
三十台のパトカーの赤と青の回転灯、救急車、そして全国ネットのテレビ局の照明に昼間のように照らし出された外の中庭には、夜明けの凍えるような空気が満ち、濡れた松の木の匂いがしていた。
二階の調理室で発見された「唯一の生存者」を救急救命士がストレッチャーに乗せて運び出した瞬間、カメラマンたちのフラッシュが機関銃の斉射のように炸裂した。
楠木直哉は震える肩に金色の保温アルミブランケットを巻かれ、左前腕には赤く血の滲んだ分厚い包帯が巻かれ、潤んだ瞳を虚空にさまよわせていた。
「むごい事件ですよ、管理官」
救急車の開いたバックドアの近くで、調理室から押収したタブレットを手にした鑑識課の係官が低い声で説明していた。
「小倉校長はマカオの犯罪組織とのカジノの借金で首が回らなくなっていました。学校を封鎖し、ダークウェブで生配信するために無差別殺人を犯したんです。監視カメラもほとんど切っていましたが、幸いあの楠木という生徒が、二人の友人と一緒に霧に隠れるために調理室の蒸気バルブを開けたようです」
「他の二人の生徒は?」
捜査一課の管理官が手帳にメモを取りながら尋ねた。
「矢部と沼田です。助かりませんでした。蒸気が晴れる前に、小倉が持っていたタクティカルナイフでとどめを刺しています。その後、小倉は楠木も殺そうとしましたが、室内カメラに最後の四十秒間が鮮明に記録されていました。少年はナイフを防ごうとして腕を斬られながらも、床でのもみ合いの末に校長の屠畜銃を奪い返し、正当防衛で撃ち抜いたんです。彼のおかげで一階に閉じ込められていた何十人もの生徒が助かりました。生きているのが奇跡ですよ」
管理官は救急車の後部へと歩み寄り、直哉の金色のブランケットに包まれた肩に父親のような優しい手を置いた。
「もう全部終わったよ、君。本当に勇敢だった」
管理官は胸を打たれたような声で言った。
「友達を守るために、君にできるすべてのことをやったんだ」
直哉は俯き、無傷の右手でアルミブランケットの端をぎゅっと握りしめ、煤で汚れた頬に二筋の温かい涙を流した。
「ふ、二人とも……僕の一番の親友だったんです……」
直哉は嗚咽に途切れる声で、あまりにもか細く囁いたため、救急救命士は敬意を表すように深く頭を下げてから救急車の後部ドアを閉めた。
「僕だけ置いて逃げるなんて、できるわけなかったのに……」
金属製のドアが密閉音を立てて閉まり、サイレンの音と記者たちの怒号を完全に遮断した。
救急車の静まり返った車内で、楠木直哉はピタリと泣き止んだ。
手首の甲で頬の涙を無造作に拭い、ストレッチャーの白い枕に心地よさそうに頭を預けると、スモークガラスの窓の外、学園の丘の向こうから昇り始める血のように赤い夜明けの太陽を見つめた。
月曜日の朝、パントリーから消えた三本のシードルのことを彼に問い詰める者は、もう誰もいない。
そして何より、あの調理室はこれから、彼一人だけのものになる。
【完】




