名前のない音
静かな雨音とともに目覚めると、彩りと動きに満ちた夢の記憶が漠然と残っていた。ベッドに潜り込んだまま、もう一度眠りに落ち、夢の続きを見たいと思った。
しかし、意識というものは残酷だ。一度「現実」の輪郭を捉えてしまうと、夢の鮮やかな色彩は、窓の外のどんよりとした空色に塗りつぶされていく。カーテンの隙間から差し込む光は弱く、部屋全体が深い海底に沈んでいるような錯覚を覚えた。
私は結局、二度寝を諦めて身を起こした。
ここは都内の古いワンルームマンションだ。壁が薄く、隣の部屋で鳴るスマートフォンのバイブレーションの音さえ、時折こちらの鼓動のように響いてくる。だが今日は、雨がすべての雑音を優しく封じ込めてくれていた。
キッチンに立ち、ケトルに水を注ぐ。コンロの青い火を見つめていると、不意に、先ほどまで見ていた夢の断片が弾けた。それは、見たこともない巨大な図書館の夢だった。天井まで続く書架には、本ではなく「音」が詰められたガラス瓶が並んでいた。私はその一つを手に取り、蓋を開けようとしていたのだ。
「……続き、気になるな」
独り言は、換気扇の回る音にかき消された。
お湯が沸くまでの間、私はテーブルの上に散らばった書類の山を整理し始めた。私はフリーランスの「音響演出家」という、聞こえはいいが実態は地味な仕事をしている。ドラマや舞台の効果音を作ったり、録音された音声のノイズを消したりするのが主な業務だ。
昨夜、クライアントから届いたメールには、難解なリクエストが記されていた。
『雨の日の、誰もいない駅のホームで、一人の男が「忘れていた約束」を思い出す瞬間の音。ただし、楽器は使わず、日常音の加工だけで表現してください』
抽象的すぎて、頭を抱えていた。その悩みから逃げるように眠りについたから、あんな奇妙な図書館の夢を見たのかもしれない。
コーヒーを淹れ、作業用のデスクに向かう。モニターを起動すると、無数の波形が並んだ編集ソフトが立ち上がる。私はヘッドフォンを装着し、これまでにストックしてきた音源を漁り始めた。
カチ、カチ、と規則正しく刻まれるメトロノームの音。
ガタン、という古い電車の通過音。
ビニール傘を叩く雨の粒。
それらを組み合わせてみるが、どれも正解には程遠い。技術的には完璧でも、そこには「感情」が欠けている。クライアントが求めているのは、耳で聞く音ではなく、心に波紋を広げる音なのだ。
ふと、窓を叩く雨脚が強まった。
私はふと思いつき、ハンディレコーダーを手に取ってベランダに出た。冷たい空気が肌を刺す。軒先から滴り落ちる雨水が、下に置かれた空の植木鉢に当たって、独特のリズムを刻んでいる。
「……ト、ト、トン」
それは、誰かが扉を叩く音に似ていた。
私は録音ボタンを押し、その音をじっと見つめた。ただの物理現象だ。重力が水を落とし、物質が振動しているだけ。しかし、耳を澄ませれば澄ませるほど、その音には意志があるように感じられてくる。
部屋に戻り、今録ったばかりの音をパソコンに取り込んだ。
速度を落とし、ピッチを下げる。リバーブ(残響)を深くかけ、高音域をわずかに削る。
すると、植木鉢を叩く雨音は、重厚な石造りの建物の廊下を歩く足音のように変化した。さらにそこに、換気扇の回転音を加工して作った「遠くで鳴る汽笛」のような唸りを薄く重ねる。
「……これだ」
指先が止まった。
モニターに映る波形が、私の脳内で見たこともない駅の風景を描き出していく。
その駅は、夢で見た図書館に似ていた。
冷たいコンクリートの壁。薄暗い電灯。降り続く雨。
ホームに立つ男は、ポケットから小さな鍵を取り出す。その鍵が指に触れた瞬間の、かすかな金属の擦れる音。
私は夢中で作業を続けた。
昼を過ぎ、夕方になっても、空の色は変わらないままだった。雨は止む気配を見せず、世界を濡らし続けている。
ふと作業の手を止め、ヘッドフォンを外した。
静寂。
いや、静寂ではない。家全体が、雨の音という名の巨大な楽器の中に包まれているようだった。
私は、自分がこの仕事を選んだ理由を思い出していた。
子供の頃から、周囲の音が気になって仕方がなかった。教室の喧騒、誰かが紙をめくる音、遠くの工事現場の響き。それらは私にとって、意味を持たない雑音ではなく、複雑に編み込まれた物語の断片だった。
他人の声が苦手だった。言葉には嘘が混じるし、感情が露骨すぎて疲れる。でも、物音は嘘をつかない。
ただ、そこにあるべき理由があって鳴っている。
夕食も摂らずに仕上げた音源を、クライアントに送信した。
「納品しました。ご確認をお願いします」
短いメールを打って、私は深く椅子に沈み込んだ。
背筋を伸ばすと、節々がミシミシと鳴った。それがまた、古い木造の船が波に揺れているような音に聞こえて、苦笑いする。職業病だ。
窓の外を見ると、街灯が雨粒をオレンジ色に照らしていた。
都会の雨は汚れていると言う人もいるが、こうして見れば宝石を散りばめたようにも見える。
スマホが震えた。クライアントからの返信だ。
早いな、と思いながら画面を開く。
『素晴らしい。まさにこれです。
特に、ラストの数秒。あの「水が跳ねる音」が、なぜか昔の友人との別れを思い出させました。不思議な体験でした。ありがとうございました』
私は画面を閉じ、深く息を吐いた。
私が作ったのは、ただの加工された雨音だ。そこに「別れの記憶」を乗せたのは、私ではなく、それを聞いたクライアント自身の心だ。
音は、器に過ぎない。
その中に何を盛り付けるかは、聞き手に委ねられている。
私は再びベッドに潜り込んだ。
体が心地よい疲労感に包まれている。
今夜もまた、夢を見るだろう。
朝に見たあの図書館の続きか、それとも、完成させたばかりの雨の駅のホームか。
目を閉じると、枕元で雨音が囁いている。
今度はもう、無理に続きを見ようとする必要はなかった。
現実と夢の境界線が、雨のヴェールによって曖昧になっていく。
私は、ゆっくりと深い眠りへと沈んでいった。
そこには、言葉のない、純粋な音だけの世界が広がっているはずだった。
翌朝。
雨は上がり、雲の隙間から眩しいほどの太陽が顔を出していた。
窓を開けると、洗いたての空気の匂いが部屋に流れ込んでくる。
私はコーヒーを淹れる前に、昨日の音源をもう一度再生してみた。
スピーカーから流れる雨の音、足音、そして金属の擦れる音。
「……ふふ」
昨日の感動が、嘘のように引いていた。
太陽の下で聞くその音は、ただの「雨の日に作った、出来の良い効果音」に過ぎなかった。
それでもいい、と私は思う。
あの雨の日の、あの薄暗い部屋の中でしか生まれなかった「何か」が、確かにそこにはあったのだから。
私は新しいプロジェクトのファイルを立ち上げた。
次のリクエストは、『真夏の、焼けつくような沈黙』。
さて、どんな「音」を積み上げて、その沈黙を作ろうか。
私はキーボードに指を置き、まずは録り溜めていた蝉の鳴き声を、あえて一音も使わずに表現する方法を考え始めた。
窓の外では、雀が賑やかに鳴いている。
世界は相変わらず、名前のない音に満ち溢れていた。




