宝石と人魚と:2
セルキーはシルシアの膝の上で、ミルクをそれは美味しそうに飲んでいる。毛布に包まり、暖炉で温まりながら、その幸せを堪能してね。緩やかに揺れる炎は仔守唄のようで、暖かな光で愛しいボクらの彼女たちを寝かしつける。ふたりとも段々と舟を漕ぎはじめ、やがて夢という名の深い海へと潜っていった。外でめいっぱい遊んで、お風呂で身体を温めて、更にはお腹がいっぱいになったというのであれば、それは眠たくもなるだろう。風邪を引かないように毛布を掛けて、その顔をひと撫でする。なんとも幸せそうな、穏やかな顔をしている。いったいどんな夢を見ているのだろうか。目を醒ましたあとに、訊いてみよう。
ふと思い立って、カンテラを持って書斎へ向かう。昼だというのに、暗く、深く、冷たい。部屋の壁を、指を滑らせながら目的の物語を探す。らしいものを手に取れば、美しい装飾のなされた表紙が、カンテラの光を反射する。その衰えを知らないような煌めきに満足感を覚えつつ、リビングへ戻りながら頁を捲り、垂れた頭を撫でる。
夕飯まで、まだまだ時間がある。ボクはもう少し、ボクの物語の世界を楽しむとしよう。
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人魚姫。デンマークの貧しい靴職人の子として生まれたハンス・クリスチャン・アンデルセンが書き上げた童話だ。人魚と云う幻想はそれまで、曖昧な民間伝承のひとつにすぎなかった。
人魚の起源とされるものは、航海者を美しい歌声で惹きつけ難破させるという海の魔物で、もとはギリシア神話に登場する伝説の生物、セイレーンのことだったように思う。
どれも伝承としての曖昧な幻想であったにもかかわらず、人魚の伝説と云うものは世界各地で見受けられる。誰もがその存在を知り、信じている。そうして膨れ上がった人々の無辜の幻想は、さまざまな妖精を生みだした。セルキーもそのひとつだ。
それらの幻想はアンデルセンが人魚姫を書き上げたことによって、水面に落とされた波濤のように瞬く間に世界へ拡がっていった――。
いけない。つい、話が逸れてしまった。そう、人魚姫のお話だ。人魚姫は陸の世界に憧れて、十五歳の誕生日、ついに陸へ行くことが赦される年齢になったんだ。そしてそのとき、海上で嵐に遭い、溺れてしまった王子様に一目惚れをする――。なんともロマンチックで素敵な出逢いだろう?
人間の王子様に恋をしてしまった人魚姫は、海の魔女に人間にしてほしいと頼むんだ。
海の魔女は人魚姫の願いを叶えるために、人魚姫の声と引き換えに人魚の尾を人間の足に変える魔法の薬を渡すんだ。そして魔法の薬には「一度人間になると人魚には戻れない」「王子が他の人と結婚したら、人魚姫は翌朝に海の泡になる」という対価も存在する。
これはイジワルに聞こえるけれど、どうしようもない法則さ。魔術には、それに相応しい対価がつきものなのサ。魔法や奇蹟を足し算したら、その分の引き算も必要になる。本当の魔法や奇蹟であったのならば、別の話だけれどね。
それに、これはとあるひとつの物語にすぎない。すべては物語を盛り上げる舞台装置でしかない……なんて言ってしまうのは、きっと野暮と言うのだろうね。
とにもかくにも、人魚姫は人間になった。しかし、声を失ってしまったばかりに、その熱い想いや、真実を伝えることはできない。王子をナイフで殺し、返り血を浴びれば人魚に戻れると知るも、ついには、そんなことはできなかった。そして、人魚姫は泡となって空気の精になるのだった――。
そう、これはどうしようもない、悲劇の物語だよ。
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パチッと、暖炉の薪が物語の終わりにはあまりにも短い拍手を送る。どうやら悲劇は性に合わなかったらしい。
いっそう昏くなった部屋を見渡し、その灯りを恋しく思う。暖炉の優しい温もりがボクらの心を鷲掴みにして離してくれないのは、気のせいじゃないだろう。
物語に夢中になっていたせいか、今まで気が付かなかったけれど、キッチンからはいい匂いが漂ってきていた。ミルクのまろやかな甘く、香ばしい匂い。シチューだ。いもににんじん、たまねぎといった野菜に加え、鶏肉や香味野菜であるローリエがあればカンペキだ。身体を芯から温めてくれる、冬には欠かせないものだとも。厚切りのバゲットにシチューをたっぷり染み込ませてかぶりつけば、くちの中いっぱいに、パンとミルクのまろやかな甘味が拡がる。野菜たちもその甘味を堪能してか、甘く柔らかくなっている。
そんなことを思い出して、なんともいえない幸せな気持ちになっていたら、待ち切れないとお腹の虫が鳴く。
シルキーが未だシチューの番をしている間に、ボクは暖炉の前で丸くなって眠っている仔猫ちゃんたちを起こしてあげるとしよう。せっかくの楽しい夢から醒めることになってしまうのは申し訳ないけれど、温かなシチューを食べられないのだって厭だろう。それにご飯はしっかり食べなければ健康に良くないからね。育ち盛りの仔たちには尚更さ。
「ほら、眠り姫たち、起きる時間だよ」
柔らかなお腹をさすったり、頬を撫でたりしてみるものの、起きる気配はない。実のところ、起こす気はない。なんてったって、仔どもたちのかわいいかわいい寝顔だ。少しくらいは堪能しておきたい。
……さて、遊びすぎたらボクがシルキーに性根を叩き起こされることになるから、そろそろ真剣に取り組まなくてはいけない。
毛布と言う名の服を刈り取り、夢と言う名のベッドから転がり落とす。残酷な役目だとも。
「起き給えよ、たとえボクが許しても、シルキーは許してくれないぞぅ」
シルシアとセルキーの頬を両手で揉み、寝顔をこねる。
「うぅぅぅぅぅ……」
愛しいボクらの彼女は唸ると寝返りをうって、逃げようとする。北海の君は目をこすり、大きく夢の残滓を吐き出しながら起き上がった。
「ほら、今寝ちゃうと、夜にぐっすり眠れなくなっちゃうよ?」
「それに、お腹が空く」
空腹は幸せの天敵だ。誤魔化したり、我慢したり、はたまたその事実を消すことは容易いとしてもだ。いつかはお腹がいっぱいになれるほど食べなければ、充分に幸せを感じることは難しい。
「おはようございます……」
シルシアもなんとか、夢の空虚な甘い誘惑から脱することができた。
ボクらが壮絶な戦いを繰り広げていた傍で、シルキーは既にシチューをテーブルに並べ、温かな湯気の狼煙を上げさせていた。
眠り姫たちはその狼煙に誘われて、食卓についた。




