蝶と庭と 二夜目:3
シルシアは戸惑っているようで、わたしは咲った。
「あら、わたしのこと、忘れてしまったの?」
イタズラに咲うわたしを見て、愛しい彼女は頬をリンゴのように赤くした。
「そうじゃないです……でも、お名前、聞いていなかったような気がします」
「あら、本当ね。いつも、当たり前のようにいた隣人さんだったのだもの。忘れてしまっても仕方ないわ」
わたしはあらためて挨拶をする。スカートの裾を持って、優美なカーテシーをみせる。
「あらためまして、わたしはティターニア」
「よろしくね。わたしたちの愛しい彼女さん」
「あなたのお名前も、もう一度聞かせてくれるかしら」
シルシアはぎこちない仕草で、カーテシーをみせる。不慣れであっても、真似をするその仕草が、なんとも愛おしい。シルシア。薊の仔。トゲも毒もない彼女にはあまり似ていない花だけれど、だからこそ、とても愛されていることが伝わってくる。
「いいお名前ね」
「ついてきて」
わたしはスカートの裾を力強く握ったままのシルシアの手をとる。わたしは、わたしを見つけてくれる仔が久しぶりに会いに来てくれて、ついつい笑顔になっていた。
銀の髪が薄闇に揺れ、透き通る翅がかすかに震えた。シルシアの月明かりに照らされたその瞳は、どこか憂いを宿しながらも、先ほどまでとは違う、柔らかな色を帯びていた。
そっと、細い指先がわたしの手に触れる。冷たさを含んだその手は、しかし確かに温もりを求めるように、指を絡めてきた。わたしは驚いて顔を上げると、シルシアはふわりと柔らかく微笑んでいた。それはまるで、長い夜の孤独を越えてようやく芽吹いた、小さな光のような笑みだった。
言葉はない。ただ、わたしたちは手を繋いだまま、温室の小径を歩きはじめる。花々の間を抜けるたび、露に濡れた草の香りがふんわりと漂い、白い蝶が舞い上がっては夜空に溶けていく。夜の温室は、穏やかな静けさに包まれていた。ガラスの天井には、幾千の星々が煌めいている。現実から遠く離れた柔らかい光は、ひとつ、またひとつと花々にその光を注いでいるようだった。シルシアの長い銀の髪は月の光を蓄えて、淡く光っていた。
わたしは、手の中のぬくもりを確かめるように、そっと指を結び直した。
シルシアも、何も言わずそれを受け止める。小さな足音が並び、月の道を静かに進んでいく。
「どうかしら、キレイでしょう?」
「わたしが育てたの」
愛しい彼女は頷くだけだったけれど、わたしは、わたしの育てた小さな娘たちが他の誰でもない、彼女に見てもらえて軽く弾んでいた。
高いガラスの天井に夜の月が滲み、淡い光が花々を静かに撫でる。そこは誰も足の踏みいれることのない、小さな楽園のようだった。並べられた白いユーフォルビアは夜露に濡れて、星の欠片のように煌めいていた。その傍には白く大きなバラがいくつも蕾をつけていて、既に咲いているものもあった。夜の淡い光の中では、白い花が際立つ。わたしはそのひとつを指で撫でる。
「ねぇ、シルシアちゃん、このお花のお名前、知っているかしら」
「バラ……ですか?」
確かに、バラであることに間違いはないのだけれど、わたしの訊きたいことはそういうことではなかった。
「そうだけど、そうじゃなくって……このバラのお名前ね」
「イングリッシュローズと云う種類で、ティターニアって名前なのよ」
プラウド・ティターニア。その名と同じように、少し誇ったような顔をしてみる。
「とても……キレイです」
その一言だけでも、とても嬉しい。育てた花を誰かに褒めてもらうことは、ひとりでは決してできないから。
わたしは自分と同じ名を冠する花を愛でる。彼女がどちらを見てキレイと言ったのか、わたしはきっと、わかっていなかった。
花々に囲まれて、わたしたちは木製のガーデンベンチに腰を下ろす。肩を寄せ合って、花と蝶を眺めるだけの、静かな時間を過ごす。小さな蝶が一匹、ふわりふわりと飛んできて、差し出したわたしの指先にとまった。星々の光をたっぷりと蓄えた夜露が葉を打ち、弾けた。わたしはそっと目を閉じ、オルゴールの音に耳を済ませる。同じようにその音を聞いていたシルシアが、ふと、言葉を漏らした。
「あなたの夢を、よくみます」
「楽しくて、温かい夢です。でも、ちょっぴり淋しい夢です」
「それに、怖い夢もみます」
「暗くて、深くて、冷たい場所に、ひとりぼっちでいます」
「あれは……シルシアちゃんの夢ですか? それとも……」
「あなたの夢ですか?」
彼女はわたしの名前を呼んではくれなかった。
「わたしたち、ふたりの夢よ」
シルシアはその意味がよくわからなかったようだった。
「あなたが夢を見るときに、わたしがちょっぴりお邪魔してるの」
「あなたがよく見る楽しい夢は、あなたが望んでいる未来の形」
「わたしもそんなあなたの夢を一緒に見たいから、覗いてしまったの」
「勝手なことをしてしまってごめんなさい」
シルシアは首を振り、重ね合っていた手を、少し強く結んだ。
「大丈夫です。楽しかったです」
「……でも、あなたと一緒じゃなかったのは少し淋しかった気がします」
わたしはそっか。とだけ答えて、霧のかかって晴れない気持ちを咀嚼する。
「ねぇ……」
「わたしの名前は呼んでくれないの?」
少しの間が空いた。なんとなく、自分と重なってしまった誰かを、自分ではないと割り切って名前を呼んでしまうのは、難しいことなのかもしれない。
「ティターニア……ちゃんさん……」
その返事に、わたしは思わず肩を揺らした。顔は見えないけれど、きっと、赤くなっているのだろうと感じた。だって、こんなにも愛おしいのだもの。
「トレニアって呼んでちょうだいな」
わたしは立ち上がって、シルシアの両手をとった。ほら、やっぱり彼女は赤くなっていた。目を合わせてくれたから、微笑みかけたら、彼女は目を逸らして、呟いた。
「じゃあ……トレニアちゃん……」
「わたしもあなたの名前を呼んでもいいかしら」
そう言うと、彼女はこくりと頷いた。
「シルシアちゃん」
「わたしを見つけてくれて、ありがとう」
その言葉に意味はなかったような気がする。けれど、これだけは絶対に伝えておきたかったような、そんな気もする。彼女にその意味が伝わらなかったとしても、それでいい。だってこれは、わたしの自己満足で独りよがりなお願いだから。




