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シルシアの手記  作者: ぺぺ
蝶と庭と
27/32

蝶と庭と 二夜目:2

 ――シルシアは息を荒げて、目を覚ます。落ち着かせるために、大きく息を吸う。冷たい空気が、籠もった熱を冷ましていく。

 夜は、静かに森を包み込んでいた。木々の間から見える空には雲が流れ、星も隠れ、ただぼんやりとした薄闇だけが辺りを覆っている。夜の帳は、森の奥へと滲み込んでいた。

 シルシアはひとり、何も持たずに立っていた。目が覚めても、まだ森にいる。その事実、その異常性には気が付かずに、シルシアは俯いて考える。


 ――また、同じ夢を見ていた。

 

 灯りも、声もどこにもなかった。森のざわめきも遠のき、ただ静寂だけが彼女を包む。

 ふと、足元に影が生まれる。灯りのない夜に影などあるはずもないのに、濃く黒い翳りが、シルシアの足元からじわりと広がっていった。それはまるで、水面に落とされた洋墨(インク)のように、静かに、けれど確実に辺りを染めていく。

 

 また来る。

 

 そう思った。ソレが足を掴んでくる前に、沈んでいく足を持ち上げて必死に走った。

 大丈夫、まだ動ける。

 野を焼く火のように、駆ける駿馬(しゅんめ)のように。小石や草が人形のような足を傷つける。やがて小径が現れると、色褪せた石畳が蛇のようにくねり、そこかしこに古びたランタンがぶら下がっている。ひとつ追い抜く度に風に揺られ、カランと鳴るその音は、まるで忘れられた記憶の鈴のようで、胸の奥を締め付けた。茂った蔦は古いアーチを覆い、その向こうに薄紫色の霞が揺蕩う。花壇には名も知らぬ花が咲き乱れ、青く光る蝶が、その花の蜜を吸ってはふわりと宙を舞う。


 足を止めて、大きく息を吸う。波打つ鼓動は、ゆっくりと落ち着きを取り戻した。影が追ってくる気配はない。しばらくは大丈夫だと感じられた。


 辺りを見渡して、ひときわ目を引くのは、奥に佇む朽ちかけた温室だった。翡翠色に濁った硝子越しには、ぼんやりと花の影が揺れている。誘われるように歩み寄れば、軋む扉の向こうから、微かなオルゴールの音色が聞こえた。それは朝、目が覚めたとき耳にした、あの旋律。シルキーがひとりでいるときによく聴いているものと同じだった。


 そのオルゴールが聞こえてくる温室の扉に手をかければ、冷たい金属の感触が指先を痺れさせる。少し押すと、扉はぎぃっと鈍い音を立て、長い間開かれていないことが窺えた。ひとつ息を呑んで、ゆっくりと扉を押し開ける。途端に、夜香木の匂いが胸いっぱいに広がった。まだ、この花が咲く時期ではなかったような気がする。けれど、その疑念は不安や恐怖とともに薄れていった。温室の中は時が止まっているように静かで、埃の積もった棚に置かれた古びた花瓶には、いまも鮮やかな花々が咲き誇っていた。


 中央には、苔むした古い木のテーブルと、小さな椅子。その上には、閉ざされた本とオルゴールがひとつ。頁の間からは白い蝶の翅が覗いている。シルシアは吸い寄せられるように近づき、そっとその本を開いた。すると、ふわりと蝶が舞い上がり、ひとしずくの涙のような蒼い光を残して消えた。

 本の頁には、うすく霞んだ文字が浮かんでいた。


『ようこそ、わたしの庭へ』


 その文字を指でなぞった瞬間、温室の奥のカーテンがひとりでに揺れ、誰かの足音が近づいてくる気配がした。背筋を這うような冷たい風とともに、シルシアは息をのむ。


「あら、やっと来たのね」


 声の主は、白銀の髪をした少女だった。頭にはシロツメグサの花冠を載せて、紺碧のローブには夜の空のような星の刺繍。瞳はサファイアの光を宿し、その奥に深い夜を湛えている。少女はシルシアを見つめると、微笑んだ。


「おかえりなさい、|わたしたちの愛しい彼女シルシア


 その瞬間、周囲の蝶たちが一斉に舞い上がり、藍色の光の花吹雪となった。オルゴールの旋律は甘く遠ざかり、夢と現の狭間で、シルシアの心は静かに揺れていた。

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