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シルシアの手記  作者: ぺぺ
蝶と庭と
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蝶と庭と 二夜目:1

 朝の森がまだ目覚めきらない頃、静かな霧が再び降りていた。

 それは光の届かない、森の奥の奥。いつのまにか現れる小道の、その先に。

 シルシアは、ひとり歩いていた。胸の奥に、ふとした寂しさが滲んだのだ。みんなと過ごす時間は穏やかだったけれど、咲い声の向こう側に、自分だけ置き去りにされるような感覚が消えなかった。その感覚は、自分のものではないような気もするし、自分のものであるような気もした。

 

 わからない。

 知っているような、知らないような。

 誰かに呼ばれているような、呼ばれていないような。

 何もかもが、薄靄のように思い出すことを邪魔して、気持ちが悪い。


 だから、誰にも告げずに、静かな場所を探して森を歩いた。そうしているうちに、なにかわかることがあるかもしれないと願って。気づけば、霧が周囲を包んでいる。空は曇り、朝の音も遠のき、葉擦れの音さえ失せた。


 ここはどこだろう。


 シルシアは立ち止まる。

 足元には夜露に濡れた花々、頭上にはぼんやりと霞んだ梢。空気はどこかひんやりとして、奇妙なほど静かだった。


 ――また、同じ夢を見ている。


 シルシアは細い小径を辿りながら微かに湿った空気の中を歩く。一足踏み出す度に擦れる音が、耳にまとわりつく。シルシアが立ち止まればその音もピタリと止み、振り向いてみれば、歩いてきた小径さえ見えない闇に覆われていた。

 どれだけ歩いても、同じような景色が繰り返されるばかり。どこまでも続く小径も、蔦の絡む木々も。けれど、ほんの僅かずつ、何かが違っているような気がした。木々の影はより長く、色を失い、空気も冷たさを増しているような。恐怖を感じているのに、それを誰かに訴える勇気もない。冷たい空気が肌にまとわりつくように重苦しい。


 ついに、動けなくなって屈んでしまう。腕に顔を伏せて、震える息を殺すようにゆっくりと吐く。

 ――心の奥に、冷たい手が沈んでいくような、厭な感覚。心音がどんどん大きくなっていく。シルシアは葉の微かに擦れる音に慄いて、走り出す。顔から落ちた雫が、汗なのか、泪なのかさえわからなくなっていた。彼女の足に伸びる草が、彼女の人形のような足を傷つける。


 やがて視線の先、薄靄の奥に、古びた石造りのある泉が現れる。そこには、静かな水面が鏡のように横たわり、誰も映さない虚ろな闇を湛えていた。とにかく逃げようと、近づこうとしたとき、不意に背後から冷たい風が吹いた。シルシアは思わず身をすくめる。空気が変わった。胸の奥に、得体の知れないざわめきが生まれる。泉の水面が揺れ、ぼんやりと自分の影が浮かび上がる。


 その隣に、もうひとつの影。


 シルシアは息を呑んだ。黒髪の、その存在はかつて()()()が見たものと同じ夜の翳りを纏っていた。シルシアは振り向く。だがそこには誰もいない。ただ、泉の水面が波紋を広げる。

 耳元で影の髪の擦れる音がした。影の声は優しく囁く。


「寂しさを隠してるのね。気が付かないふりをして、咲っているけれど……本当は誰かに触れてほしい。わたしは知っているわ」


 胸が締めつけられる。そう、シルシアもまた、孤独の影を持っていたのだ。笑顔の裏で、ずっと言えなかったこと。誰にも悟らせたくなかった弱さを。


「やっ!」


 耳を抑えて、振り払ってみるものの、手応えはない。


「……帰らなきゃ」


 シルシアは震える声で呟く。

 足が重い。泉から走って逃げようとしても、足に蔓が巻き付いているようだった。泉の奥から、霧のような影がいくつも伸びてきて、シルシアの身体を掴む。


「いやっ! やだっ!」

「たすけてっ!」


 声を張り上げたつもりでも、嗚咽のようなものが喉から漏れるだけで、クチすら動かない。


 怖い。


 怖い。怖い。怖い。


 伸ばした手も虚しく、空気を掻いただけだった。シルシアは無数の影に掴まれて、泉の奥底へと引きずり込まれていった。暗く、深く、冷たい場所。誰にも気が付かれることのない、孤独の庭へ――。


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