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エピローグ 春風にふわりと

第8話

やわらかな春風が、大船の常楽寺の奥――

苔むした石畳を静かに撫でていく。

その風に誘われるように、ひとひら、またひとひらと桜の花びらが舞っていた。


空は淡く透ける水色。

木々の影すら、今日はどこか優しく揺れていた。


静かな境内に、一人の女性が現れる。

名を「よう」。

かつて、大姫と呼ばれた少女――哀しみに心を閉ざし、ひとり生き抜いた人。


彼女は今、その面影を穏やかな時の中にまといながら、そっと歩いていた。

白い着物の袖が風に揺れ、手首で小さな鈴が、かすかに音を鳴らす。


――ちりん、と。


まるで遠い昔に交わした、声にならない約束を、そっと思い出すように。

その音は、春の光と風に溶けながら、やがて彼のもとへ届いた。


境内の奥から、白い装束の青年が、静かに現れる。

光に包まれるようにして、彼は「よう」を見つめていた。

その瞳は澄みきっていて、懐かしい海のような深さをたたえている。


「……大姫……」


その声は、風が草を撫でるようにやさしくて――

聞いた瞬間、胸の奥がふるえた。


「……義高さま……」


ようの目に、涙がにじむ。

けれどその涙は、もう悲しみではなかった。

待ち続けていた。どれほど祈っただろう。

風に、花に、夜空に。

あの人に、ただ一度でいいから、もう一度会いたいと――


そして今、願いは叶った。


ふたりは、何も言わずに歩み寄る。

ためらいも、迷いも、もうどこにもなかった。


彼女は彼の手を取った。

その手はあたたかくて、懐かしくて、

あの日、失ったと思っていたものが、すべてそこに宿っていた。


その瞬間、ようの頬に、花びらがひとつ落ちた。

そして遠くで、やさしく鐘が鳴る。

かすかに、でも確かに、ふたりの未来を祝福するように。


「ずっと……あなたに、会いたかった」

「わたしも。ここでずっと、待っていたよ」


風が吹き、花が舞う。

ふたりはただ、見つめ合って微笑んだ。


過去の痛みも、長い孤独も、

今この瞬間、ようやくやわらかくほどけていく。


そしてふたりは、手を取りあって歩き出す。

あたたかな春のなかを――

もう涙も、後悔もいらない。


風に鈴の音が重なり、

時が、そっと、動き出した。



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