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動態保存祭礼

作者: 深津 弓春


 参道入り口の大鳥居のすぐ傍で、車両が止まる。


 凝った体をほぐしながら、私は窓から外を見やった。ドのつく田舎の景色――古い民家と農地、色濃い緑に覆われた山並みが、窓に映った自らの姿と重なっていた。長く伸びた黒髪の間から覗く、どこか斜に構えたような目つき。不健康な若い成人女性の姿。


「わーお、凄いね、都市部とは全然違う」


 声に視線を向けると、既に車外には見慣れた女友達の姿があった。せっかちで行動の速い奴だ、とぼやきながら私も車外に出る。鳥居脇の空き地に停車した今日の足、電動の完全自動運転車のドアを閉めて伸びをする。

 ポケットからスマホを取り出すと、画面には私――朝倉智(あさくら とも)――のアカウントに紐づけされたパーソナルアシスタントからの情報や提案が表示されていた。ちょうど画面中心あたりに、今日の目的となるイベントの名前が表示されている。弥田神社例祭。

 目的地とスケジュールに応じて自動で視界に道順マーカーが半透明のラインとして表示される。スマホがARコンタクトレンズと連携しているのだ。


「もう始まってるんだね、お祭り」


 気の早い友人が、一足先に鳥居をくぐりながら呟く。明るい赤茶の髪がキラキラと光を振りまいている。私と違って愛嬌と活力と能動性の塊みたいな女。彼女が纏う光はどこか柔らかで、同じ場所にいても他の人とは全然違った印象を受ける。


「古見、はしゃぎすぎ」


 つい、癖でそんなことを口走ってしまう。構わず彼女は松の木が両サイドに並ぶ砂利道の参道を歩きはじめる。少し後ろを追いかけながら、私は辺りを見回した。参道は二百メートルほどの直線で、その終端に神社の敷地がある。周りは農地ばかりで、神社の背後には山がどっしりと五月の色濃い緑を湛えて鎮座していた。


 祭りの日だからか、人出は多い。参道を抜けると、ざわめきが強くなる。境内はそれなりに広かったが、ぱっと見でも数百くらいの人間が集まっていた。驚いたことに、よく観察してみるとその三分の一ほどは私と同じ、本物の人間である。

 背の高い古木が空を枝葉で覆い、拝殿や本殿のある高台へと続く立派な石段の前には手水舎の置かれた広場があり、その手前にはいかにも祭りらしくたこ焼きやかき氷の屋台が幾つか設置されていた。神社と人の群と、ハレの日の特別な気配が充満している。


「無人集落だなんて、思えないよね」


 まるで私の心を読んだかのように、屋台を観察しながら古見が驚きを口にする。

 そうだね、と私は今度は心の中だけで返事していた。


   *


 何であれ、在るものはいずれ失われ、二度と戻らない。当たり前にしてろくでもないそんな認識をようやく私が実感したのは、中学卒業時、故郷の町が無人化する時だった。当時住んでいた町はさほど田舎ではなく、都市部のベッドタウンの一つだった。でも、そもそも日本各地に大規模なベッドタウンが無数に存在するという状態が、既に過去の話でしかなかった。超少子高齢化が一体いつヤバいラインを超えたのか正確には知らないけれど、私や古見が生まれた三十年代半ばには既に私たちの町が無人化する未来は避けようのないものになっていたんだろうと思う。

 日本における市町村の無人化が激化しはじめたのも同じ頃で、若年人口や労働人口が減りすぎた自治体がどんどんと存続不能になって、段階的な都市部への移住の果てに無人化していった。昔、小さな離島や山奥の極小規模集落がそうなったように、つい三、四十年前までは数千から数万人規模の人口を抱えていた市町村が次々に無人化した。


 五十年代後半の現在、東京大阪名古屋といった大都市とその近辺以外に居住する人間はごく少ない。これに福岡と札幌の都市部を入れると全人口の九割以上がカウントされる。

 私は私の住み慣れた街が無人化することにひどく哀しい思いをしたけど、私の悲哀に構う余裕なんてほとんど誰にもなかった。

 都市に人を集約し、効率化を進めて、でも労働力の不足やもの凄い量の介護・医療負担をどうにかするには全く足りなかったからだ。三十年代にはあらゆる破綻が目の前に見えていたと上の世代は皆語る。


 だからこそ、今の日本はサブ――サブスティテュートロイド先進国となった。


 代役、代替物、本物ではない代わりの何か。そんな名前を持つ人型の汎用ハード……ようするにアンドロイド的な存在が、私たちの国を崩壊の一歩手前で支えることとなった。

 一般にサブと縮めて呼ばれるこいつらは、SF映画のアンドロイドみたいに何でもできるわけでも人間を超えた性能を持つわけでも高度な知性や意識を備えるわけでもない。ぱっと見で分からないくらい見た目も動作も自然な人間そのもので、尚且つ分野や状況を限定すれば会話も人にかなり近いものを再現できるけど、彼ら彼女らの中身は二十年代に流行ったチャットAIの延長線上にあるようなソフトウェアで、強いAIだのAGIだのでは全くないのだ。とはいえ学習元のデータの量は年々劇的に増加しているため、性能自体は飛躍的に上がっていて、サブは介護も子守も教師役も土木作業もセットアップ次第で広くこなせる。

 人間に成り変わるものではあり得ないけど、代役なら務まる。だからサブスティテュート、サブなのだ。


 元々高価だったヒューマノイド機械は、四十年代くらいには生産設備の大規模な自動化無人化が進み大幅に値が下がり、猛烈な少子高齢化の中にいた日本はこれを大量導入した。これが、当たりだった。思った以上の効果を上げたのだ。

 今の人は皆、サブを普通に受け入れている。当初あった「リアルな人型ロボット」への嫌悪は、介護や医療への救世主となってくれたことで、一気に薄まったという。

 介護・医療でまず手柄を上げたサブは、その後生産や流通や教育などにも活用され、次に「保存」や「記録」にも使われることとなった。


 記録――例えば、少子化に合わせて再編された社会において消えていくもの……無人化する市町村という存在が内包していた、文化なんかの。


   *


 細く小さく煌びやかな四つの影が、春の風に千早や緋袴を揺らしながら滑らかに舞っている。

 恐らくは地元の小学生の少女四人――を模したサブ四体が、本殿の前に築かれた舞殿の中央で神楽舞を披露していた。舞殿は四方に開かれた屋根付きの舞台で、周囲には大勢の観客や参拝者が集っている。巫女の手には鉾鈴と呼ばれる、鍔の広い短刀に鈴をつけたようなものが握られており、舞の各所で涼やかで切れ味のある鈴音を響かせていた。

 浦安の舞。ポピュラーな神楽舞だが、こうして山裾の神社の高台で見ると、驚くほどに心に迫ってくるものがある。


「本当に、本物のお祭りと見分けつかないね」


 と、隣に佇む古見が呟く。私は彼女をちらと見て、位置も視線も自然だな、と思う。

 神子神楽を舞う四人の少女も、その周囲の観客や参拝者の半数以上も、人間とほとんど見分けがつかないサブである。屋台の店主も、少し離れた場所にある能楽殿の奥で食事(の真似事)をしている地元の人間風の人々も、多くがサブだ。


 この祭りは、無人化した集落において、サブが「動態保存」している。

 日本全国で多くの市町村が無人化し、空き家や土地の管理と共に問題になったのが、各土地の文化であり、単純な物質のようには保存の効かない行事、祭礼、神事の類の継承だった。人がいなければ行事は絶え、一度絶えた行事は再現が難しくなる。

 継承し続けること、いつか再現したいと思った時に、そこに人が戻れる状態を保つこと。

 集落の土地や家々と共に、祭礼を「動態保存」するという力技を、サブは実現した。今や、日本のこうした小さな祭りの多くが、サブによって代替され、都市部の人間は時折それを観光しに出かける。今の私のように。


 神楽舞が終わると、神輿曳きが始まる。大勢の半被姿の男が担ぎあげた神輿が境内に現れ、石段を下りていく。神輿は金色の金属部が目立つ絢爛な造りで、陽光を浴びてギラギラと輝いていた。


「追っかけよう!」


 綺麗なもの、派手なもの、盛り上がるものに目がない古見は、心底楽しそうに駆け出す。子供みたいな奴、と私は心中でぼやいて、彼女と共に神輿を追いかける。


 神輿の渡御は有名な祭と比べれば小規模で、参道を出て狭い集落内を少しばかり回って帰ってくるだけのものだ。けれど、静かな民家ばかりの田舎の集落において、絢爛豪華な神輿が大声と共に移動する様は吃驚するほどに非日常的で、楽しげな動的魅力に満ちている。午前中に神社を出て、数時間で集落を回り、午後の速い時間には神社に還御する。短い距離の神輿の渡御を、私は遠巻きに追いかけた。

 私の目の前には、古見がずっといた。ARコンタクトには古見の動作ルートが表示されていたから、私は一度も彼女を見失わなかった。


 古見合奈(こみ あいな)は、中学時代からの友達だった。偏屈な性格の私は友達なんてほぼいなかったけれど、古見の方は真逆で、いつも友人に囲まれていて、だから彼女が最初に親し気に話しかけてきた時は意味不明だった。なんだこいつ、って感じで。


「トモはさ、多分、真面目なんだよ。色んな価値を、ちゃんと見据えて大事にしようとしてるんだ。だからこそ価値に触れるのに慎重になるし、外から見るとそれが偏屈でひねくれて見える」


 中三の頃、真正面からそんなことを言われた時は殴ろうかと思ったけど、古見は正面からそういうことを邪心なく言える人間だと知っていたから、代わりに私は「うるせーよ」とそっぽを向くことしかできなかった。後から思えば、割と図星なところもあった。何かを失うこと、いつか失うものを手に入れること。両方、好きじゃなかった。好きじゃないのは、好きなものを無くすのは嫌だからだ。人生は一回性の中にあって、何もかも取り返しがつかないのが嫌いだった。


 昔のことを思い出しているうちに、景色が流れ、神輿は神社に戻ってきていた。境内の急な石段を昇り、担ぎ手が力と声を振り絞って舞殿脇の建物へと神輿を還御させる瞬間は、この祭りの盛り上がり所の一つで、境内に集まったサブも人間も歓声を上げて動き回っていた。


 私は迂闊にもその人波の真ん中に押し流されてしまう。まずい、と思った時には既に遅い。ARコンタクト越しの視界の中で、周囲の人間が迫り、スペースが失われ――古見の姿が、雑踏に『重なる』。

 現在の周囲の状況と辻褄を合わせるための処理が限界を超えて、古見はあっさりと周囲の人間の形状を無視して、雑踏の中に飛び込む。幽霊のように、全てをすり抜けて。


「待って、古見――」


 反射的に手を伸ばすが、私の指先は古見の腕をすり抜けてその向こうの地元の中学生風のサブにぶつかってしまう。

 古見は、私が待ってと言えば必ず立ち止まってくれる。そういう奴だった。けど今この時、雑踏の中を駆け抜ける古見は私の声なんて関係なしに人々を透過していくゴーストだった。


 実際、ゴーストみたいなものだと、私は人混みの中で天を仰いだ。なにせ古見は、二か月も前に死んだのだから。


   *


 ライフログというものがある。


 生活の記録、人生の記録、日常的な体験の記録。その名の通りの記録のことで、前世紀の中頃に芽を出した概念で、その後情報のデジタル化と、写真や動画やテキストの記録・作成を容易にする様々なデバイスが登場し、少しずつ進歩しながらライフログの概念は現実化していった。


 今の日本で言うライフログは、主に公共カメラやマイクによる映像・音声を位置情報などと組み合わせて生成される、「その日その時その場でどうしていたか」の3D映像の記録を指す。特別な技術は必要なく、カメラの一つでもあれば映っていない部分もAIで補完して専用ソフトで3D化できて、誰でも簡単に自分がそこで生きていた様子を残すことができる。

 少子化から省力的に治安を維持し街を管理する必要に迫られ、政府によって大規模に設置が進められた公共カメラや公共集音マイクを民衆に受け入れさせるために、このライフログは大きく喧伝され推奨され――結果、一種のブームとなっている。カメラやマイクの類は無人化した集落にも多く取り付けられていて、普段はサブの運用のために利用されているが、祭のようなイベントともなれば観光に来た本物の人間はこれを使って自分のライフログを残す。


 残されたデータは画面上でも楽しめるが、ARコンタクトやARグラスを利用すれば現実の、実際に撮影された場所で実際に撮影された時間に合わせて景色に投影することで、本物さながらに映し出すことができる。ログには撮影位置情報も含まれている上に、細かな時間的齟齬や周囲の人間との衝突判定なんかはリアルタイムでこれを再生しているデバイスの中のAIが処理して自然に見せてくれる。


「実際に行って見て欲しいんだ。私の行った場所、体験した物事を、私の過去の姿と一緒に」というメッセージ付きで私に送信された古見のライフログは、けっこうな量だった。古見は日本の各所の無人化集落に赴き、サブによって再現され、「動態保存」されている古来からの祭というものを、いくつも見学して回っていたらしい。


 ふざけんなよなんで私が、と怒りや困惑が湧いたが、ぶつける先は無かった。データが届いたのは古見が亡くなった直後だったからだ。遺されたライフログ、というわけだ。

 元々外出をあまりしない私は古見の死後ほぼ引きこもり同然で、家の周囲半径五十メートルだけで生きる人間になっていた。仕事はリモートで済むし、生活はできた。

 弥田神社の例祭に訪れたのは、スマホのパーソナルアシスタントが運動不足と不健康を咎める警告にうんざりしたからだ。それに、ログの方も一つくらい見てやらないと古見の馬鹿が可哀そうだと思ったからでもある。


 ずだん、と見上げた先で天狗のような面をつけて鳥兜を頭に乗せた少年(型のサブ)が床を踏みしめる。天を突くような三つ矛の槍を抱えて、赤地に金の装飾が煌びやかな衣を纏い、天狗は緩やかに、厳かに、時に呪術的な怪しさを、時に勇壮さを感じさせる不思議な舞いを踊る。

 境内の能楽殿の木床の上で披露されているのは、王の舞と呼ばれる独特な舞踏だった。

 五穀豊穣を祈り悪霊を払うとされる舞を見上げながら、私は隣に立つ古見に、誰にも聞こえないような小声を向ける。


「嘘つきだよね、古見」


 バックアップになってあげるって、言ったのに。胸中で恨み言を続けて、息を吐く。

 中学卒業時に生まれ故郷の町が無人化し、私は初めて失うということを知った。どんなものもいつか失われるという当然の事実に、怯えたのだった。

 そんな臆病な私に、古見は笑って言った。


 私がバックアップになったげるよ。全部覚えておいてあげる、トモの何が失われたって、私がいれば安心だよ、と。


 何がバックアップだよ。先に死んでおいて。そもそも、記録はただの記録であって、それそのものではないじゃないか。私はぶつくさと心の中でぼやく。

 目の前のお祭も、隣に佇む古見の姿や声音も、記録でしかない。再現でしかない。


 ちょっと変だな、と大学を卒業した少し後になって言い出した古見は、そこから一年ももたなかった。どんどん体調が悪くなって五感もおかしくなってあっさり亡くなった。原因は古見の脳の中にできた治療困難なクソッタレで、現代医療も歯が立たなかった。

 そんな古見の在りし日の姿が祭を見物している。動きや言葉からして一人で来たわけではなさそうだ。誰と来たんだろうか。別に誰でもいいけど。いいけどさ。


 あくまで彼女はここにいなくて、私の声に応えることもない。記録の再生でしかない。

 ずん、と再び床を打ち鳴らす天狗の踏み込みの音に、私の意識の一部もまたどこかにずん、と落ちていく。

 それとほとんど同時に、記録の中を動くだけの古見が、くるりとこちらを向く。真っ直ぐにこちらを見据えて、形の良い唇を小さく開く。


「そろそろ、気づいたかな?」


 まるで、生きているかのように。ゴーストが突然、語り掛ける。誰に? 私に?

 私はまじまじと至近から古見の姿を見つめてしまう。彼女が生きていた頃だってこんな近くで見つめ合うことはなかっただろう。大きくて丸い瞳、ふっくらした可愛らしい頬、明るく染めてるくせに私よりずっと整って質の良い髪。

 憶えている。たった一人の親友のことだ。姿も色も何もかも脳に焼き付いている。いつの間にか能楽殿の舞台上では王の舞と入れ替わって獅子舞が披露されていた。全部サブの作ったイミテーション。でもここに在る空気も光も、令和の初期までは続いていた本当の祭の時と変わらない。


 そこまで考えて、私は違和感に気づいた。古見の姿は最初からどこか、私や周囲の人間やサブと違う光を纏っているように見える。五月の力強い日差しとは違う、優しく柔らかな光。

 見覚えがある。この色の彼女の姿は、何度か見た。いつ? ごく最近――この一年の間に。

 柔らかな光は、室内だからだ。それも、バキバキに明るい照明なんか点けない場所にいたからだ。


「病室」


 私は呟く。適度に明るく、しかし眩しくない程度の照度の部屋の色。個室のベッドに腰かける古見の姿。見舞いの時の。

 私は素早くスマホを取り出して、アシスタントに検索を命じた。ここ数年の、今日と同じこのお祭りの日の天気を。結果は、全部今日と同じ快晴。太陽光の色なんてそう変わらない。

 結論はすぐに出た。


「古見……あんた、来たことないんだ、ここに」


 ログでしかないと思っていた古見に言うと、まるでその言葉に応えるかのように、彼女は微笑んだ。


「記録ってさ。どんな記録でもそうだけど、本質的に動態保存と同じような、再現性みたいなものを備えてるよね。実在する物質だけじゃない、情報も記憶も、それを想起することがその体験や意味を再現して味わうことと同じところにある。学術の記録は普遍的な知識を別の人間が別の時間において再現できる再現性をもつし、日記もまたその体験を追体験したり想像したりといった形で動態的に保存されている面がある。動態保存とか静態保存とか情報記録とかの呼び名は、要は記録の動態性や再現性の強弱で呼び分けているだけなのかも」


 突然語りだした古見に、私は面食らいながらも、彼女の言葉の先が予想できた。動態保存された祭り。保存される人生のログ。それらが同質な部分をもつなら、もう一つ同じようなものがある。


「じゃあ、フィクションは?」


 古見が私の予想通りの単語を口にする。


「フィクションは架空の物事でありながら、日記や歴史の記録や個人史などと同じくこれを主に人の脳内において展開再現できる。ある意味で記録と同じ構造をもつ。架空の記録、想像上の記録こそフィクションの名で呼ばれる。いわば可能性の動態保存、ってとこかな」


 得意げに古見は言う。大きな目を輝かせて。

 古見のログは、ライフログなんかじゃない。これは、捏造されたログだ。病室でこっそり作った映像だ。だから、彼女の姿は病室の電灯の光に照らされた色をしている。


 祭りの情報もタイムスケージュールも、現地の景色も、すべてネット上で確認可能だ。今は公共カメラがあちこちにあって一般公開レベルのものは誰でもアクセスできる。ライフログ形式で残した映像は、AI処理でちょっとした時間のずれも再生中に補正できる。目の前の神楽舞いや神輿の移動なんかを私のコンタクト経由で私のスマホのAIが見てるから。

 だから、捏造自体は簡単だ。病室にスマホのカメラを一、二台も用意すればログ自体は作れる。後はログの撮影場所や時間を改竄してマップ上の位置情報と突き合わせて調整すればいい。フィクショナルなライフログ作成だ。


 獅子舞が終わり、舞台上ではこの祭で最後となるプログラムが始まっていた。三人の、裃を纏った年配男性タイプのサブが舞台上を大げさな動作でぐるりと回った後で横並びになり、周囲の見物客から散々に野次を飛ばされている。無数の野次を受けながら大音声で三人がそれぞれ独特な叫びのような声を上げるという、奇妙で独特な儀式だとアシスタントは私の視界に説明を表示させていた。


「これさ、ずっと昔に、隣の地区の別の神社からお神輿を盗み出したって話に由来するものなんだって」


 おかしそうに古見が話す。変だよね、とくすくす笑いながら。


「だってさ、盗んだ、って話にある神社って、山越えた向こうで、間に峠を挟んで何キロもあるんだよ。重い神輿を盗み出してえんやこら、って、難しくない?」


 かもしれない。頷く私に、「でも、そういうのもいいんだよ」と古見は付け加える。


「祭は歴史の記録であり再現であり、そして同時にフィクションであり創作でもある。天狗も神様も実在物として見た人間なんかいない。祭という儀式は想像力で世界に迫り、祈り、記録すると同時に創作するんだよ」


 だから、と古見は私に下手くそなウィンクする。


「大丈夫だよ、トモ。トモは何も、本質的には失わないでいられるよ。人も世界も、皆がバックアップになる。保存してくれるし記録してくれるし、残る。私たちの故郷の町も、この祭も、私もトモも、一度存在したものは消えはしない」

「古見――」


 あんたさ、と私が言おうとしたところで、舞台上から勢いよく叫び声が上がる。びくりとしてしまった私が一瞬目を離した隙に、古見は消えていた。


 私は、アシスタントに指示して、再生していたログのデータをばらして調べる。案の定、位置情報も何もかも後付けの創作データだった。最後のいくつかの台詞は、私がこのログが捏造だと気付いたような言葉や態度を見せたのを感知したら再生されるように設定されていた。私のスマホはログを再生するとともに、私の挙動を見ていたわけだ。


 なんだよ、もう、と、祭の終わりに歓声を上げる人々の中で私は毒づく。なにちょっと頭良い感じ出してんだよ、毎回試験は私におんぶ抱っこだったくせに、つーかずっと決め顔じゃんよく見たら。編集し過ぎでしょもっといつもはだらしない顔してるじゃん。


 馬鹿。アホ。言い訳女。ぼそぼそと罵倒しながら、私は考える。ARコンタクトは便利だけど、大きな欠点としては、瞳がべしゃべしゃになるとAR情報も何もかも見えなくなることだな、と。


   *


 失ったものは失ったもので、二度と同じ存在が実在することにはならない。過去は過去で、想像は想像で、フィクションはフィクションで、死者は死者だ。そこは間違えられない。混同できない。

 けれど同時に、かつてあったものはいつだって存在せねばならず、空想されたものもまたそこにある限り、「そこ」を見やる「ここ」にもなければならない。これは論理だ。どこにも存在しないものは存在しないのだから、思い出すことも空想することもできない。無は無だ。

 記録も記憶も空想も、全てここにあって無いもので、ここにないと同時にどこにでもいつでも在るものだ。

 取り返しのつかない喪失がみっしり詰まった一回性の生なんてものを、どうして皆生きられるのか分からなかった。けれど多分、皆どこかで知っていたのだろう。なんでもいつでも誰でも、全て在るものは在るという単純な事実が持つ力と豊かさを。


 大昔の人間は洞窟の壁に絵を描き、石板に文字を刻み、時代が下って書物が現れ、写真が発明され、デジタルデータが細やかに世界と人をアーカイブし始めた。サブが祭を動態保存し、誰もが高精細なライフログを残す今この時代は、記録や保存という行為のもつ本質的な力がかつてなく高まった時代だろう。それはもしかしたら、存外に幸福なことなのかもしれない。在り続ける世界と、失われ続ける世界を仲立ちし、その向こうにある新たな地平を私たちに見せてくれるのだから。


 私はどこにもいない友人を振り返る。確かに存在し、一度存在したからには存在し続けるしかない彼女を。祭からの帰りの車内で、残されたログを確認すると、笑ってしまうくらいの量があった。どんだけ撮ったんだよ病室で。苦笑して、私は考える。またそのうち、一つずつ回ってやるか、と。


 君は私の中で生き続ける、だなんて、どうにも使い尽くされた感のあるチープな一文だ。けどまあ、ごくたまになら、チープなのも良い。ほんとにたまになら、ね。


 私は大丈夫。古見、あんたのおかげで今も昔も、未来も――きっとね。 


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