97 今度は私が助けてあげる(アレクサンダー視点)
アレクサンダーのもとに「母の伝手で隣国の商会で働くことになった。今日の正午に出発する」というメッセージが届いたのは、記された出発時刻のわずか二時間前のことだった。取るものもとりあえずクレイトン邸に駆けつけると、出迎えたオズワルドはアレクサンダーを一目見るなり、「ああ、君か」とそっけない調子で口にした。
わざわざ会いに来てやったのにこの言い草。アレクサンダーは一瞬むっとしたものの、顔を合わせるのもこれで最後だと思い、ぐっと文句を呑み込んだ。
二人してサロンに腰を落ち着けてから、改めて目の前のオズワルドを見直すと、頬がこけ、目下に隈があり、随分とやつれ果てている様子である。
「ええと、その、大丈夫か?」
「別に、普通だよ」
「隣国の商会で働くんだってな……。まあ、その、頑張れよ」
「ああ、せいぜい頑張ることにするよ。事情を知ったうえで僕を受け入れてくれたのはそこだけだし、僕にはもうあとがないからね」
オズワルドは自嘲気味にそう言った。
ほんの数日前まで侯爵家の嫡男として輝かしい将来を約束されていた男が、なんという変わりようだろう。
アレクサンダーは気づまりなものを感じつつ、当たり障りのない会話を続けようとしたものの、オズワルドはあまり気乗りしない様子で、ちらちらと部屋の外を気にしているようだった。
「リリアナ様か?」
「ああ。君より先にメッセージを送ったから、とっくにおいでになってもいいはずなんだが……もしかすると、もう愛想をつかされてしまったのかも知れないな」
「いや、そんなことはないだろう」
「気休めなんていらないよ。リリアナ殿下はあの通りまっすぐなご気性だから、僕がユージィン殿下を脅したことを知って軽蔑なさったんだろう、きっと」
「違う、そうじゃない! リリアナ様はそんな薄情な方じゃないことくらい、お前だって分かっているだろう?」
アレクサンダーは思わず声を荒げたのち、「勝手に言っていいのかどうか分からないから黙ってたんだが、リリアナ様はお前を助けるために奔走しておられるんだぞ」と言葉を続けた。
「本当か?」
「ああ、本当だ」
そしてアレクサンダーは先日、リリアナと共に舞踏会を途中退場したあとのやりとりをオズワルドに話して聞かせた。
正義感の強いリリアナは「オズがそんなことをしていたなんて」とショックを受けていたものの、「確かにオズは悪いことをしたけど、でもやっぱりちょっと酷すぎると思うわ」「ずっと侯爵家のお坊ちゃんだったオズがいきなり平民になるなんて、きっとすごく大変よね」と同情の言葉を口にしていた。そして「決めたわ! オズを助けるために、私は私にできることをやるつもりよ!」と力強く宣言していたのである。
「それじゃリリアナ殿下は、僕の状況をなんとかするのに忙しくて、ここには来られないってことなのか?」
「そうだと思う。ただ一応言っておくが、今回のことはさすがのリリアナ様でもどうにもならないと思うぞ。あまり期待しすぎるなよ」
アレクサンダーが釘をさすと、「そんなこと、君に言われなくても分かってるさ」という返事。
「だけど気持ちが嬉しいよ。そうか……リリアナ殿下は僕を助けるために……」
オズワルドはそう言って顔をほころばせたあと、「だけど、やっぱり最後に一目お会いしたかったな」としんみりした調子でつぶやいた。
「そうか……そうだよな。ええと、それじゃ俺が今から王宮に行って――」
アレクサンダーがそう言って立ち上がりかけたとき、ふいに騒然とした気配が部屋の外から伝わってきた。
「お待ちください、オズワルド様には今お知らせして――」
「取り次ぎなんていらないわ、オズはいるんでしょ、通るわよ!」
ドアの向こうから、そんなやり取りも聞こえてくる。
一人はクレイトン家の執事だろう。そしてもう一人は――。
「オズ!」
考えるまでもなく扉が開かれ、声の主が現れた。華やかなストロベリーブロンドにハシバミ色の瞳。光の女神の申し子のような、リリアナ・エイルズワースその人だ。
「リリアナ殿下、来てくださったんですか……!」
「遅くなってごめんね。やっとこれが用意できたから、大慌てで駆けつけたのよ」
見ればリリアナは大きな封筒を抱えている。
「あの、殿下、それはまさか」
「あ、待って。その前に、私、怒ってるのよ? 脅して人に言うこと聞かせるなんて、絶対やってはいけないことだもの。ねえオズ、ちゃんと反省してるの?」
「あ、はい。それはもう」
「よろしい。反省しているなら、良いものをあげるわ」
リリアナはそう言うと、分厚い封筒を差し出した。
「はいこれ! オズは王女になったばかりで右も左も分からない私をたくさん助けてくれたよね。だから今度は私が助けてあげる。もうなにも心配いらないわ!」
オズワルドは封筒を受け取りながら、まだ信じられないといった表情だ。横から見つめるアレクサンダーもまた、信じられない思いでいっぱいだった。
まさかリリアナは本当にオズワルドの赦免を勝ち取ってきたのだろうか。それともクレイトン家からの除籍は受け入れたうえで、新たに別の貴族との養子縁組を用意してきたのだろうか。
いずれにしても「被害者」であるユージィンの許可は必須だと思うが、国王がリリアナの望みを叶えたい一心で、ユージィンとの間になんらかの取引を成立させたのかもしれない。例えばユージィンが許可する見返りに、国王はユージィンを後継指名したうえで早々に引退する、といった内容なら、ユージィンサイドが受け入れる可能性もないではない。
――などと考えていたわけだが、封筒から現れたのはオズワルドの罪を赦す書類でもなければ養子縁組の書類でもなく、どこにでもあるような一冊のノートだった。王立学院の学生が授業で使っているような、何の変哲もないノートブック。
「え、なんですか、これ」
困惑するオズワルドに対し、リリアナは「『リリアナ特製ノート』よ!」と胸を張って見せた。
「オズは侯爵家のお坊ちゃんからいきなり庶民になってすっごく不安だと思うけど、これさえあればもう大丈夫! 庶民としての心得が、ぜーんぶそれに書いてあるから! 下町で下宿を探すときに気を付けることとか、市場で上手く値切るコツとか、公衆浴場に行くのに一番いい時間帯とか。私はこう見えても下町育ちで、庶民の生活についてのエキスパートだもの。私がオズのために頑張って丸一日かけて書いたのよ、大事にしてね!」
リリアナはそう言って、茶目っ気たっぷりに片目をつぶって見せた。
オズワルドはしばらくの間、呆然とした表情で手元のノートを見つめていたが、ふいに頬をゆがめるなり、笑い始めた。最初のうちは、くっくっと喉を鳴らして。途中からは、大口を開けてげらげらと。おかしくておかしくてたまらないと言わんばかりに、涙を浮かべて笑い転げるオズワルドに、リリアナはきょとんとした様子で小首をかしげているばかり。
そんな二人の姿に、アレクサンダーはかつてリリアナがオズワルドに告げた科白を思い出した。
――オズっていつも本気で笑ってないでしょ。
――私、いつかオズの本当の笑顔を見てみたいな!
あとになって、オズワルドは「僕にあんなことを言う人間に初めて会ったよ」「僕はあれをきっかけにして、リリアナ殿下こそが僕の主になるお方だと思ったんだ」と語ったものである。
ダミアンはそれを聞いて「え、オズワルドさんって本気で笑ってなかったんですか」と戸惑った声を上げる一方、フィリップは「言われてみれば、オズワルドの笑顔ってなんか胡散臭いよな」と冷やかすように言っていた。そしてアレクサンダーは「人の本質を見抜く、まさにリリアナ様だな」と口にしたことを記憶している。
あの輝かしき日々から、今の自分たちはなんと隔たってしまったことだろう。生徒会室での他愛もないお喋り。いくつもの冒険。皆と一緒ならなんでもできると思っていた、もう二度と戻ってはこない黄金時代。
そのことに言いようのない切なさを覚える反面、これで良かったとも思う。人はいつまでも子供のままではいられない。いつまでも「みんな仲良くお友達」のままではいられないのだ。
(夏季休暇が終われば、俺たちも最終学年だもんな……。そろそろ真剣に卒業後のことを考えなきゃならない時期だ)
かつてオズワルドはリリアナ女王を夢見ていたが、彼女が即位する芽はもはや万に一つもないだろう。国王マクシミリアンが貴族たちの反感を買っている現状では、リリアナのために新たな公爵家を興すことさえ難しい。
とはいえ王家が預かっている伯爵領を与えるくらいなら、造作もないはずである。
(学院を卒業したら、リリアナ様はおそらく女伯爵になる。そして俺はパートナーとして、彼女を支える)
ごく自然に、そんな未来が思い浮かぶ。
リリアナとの釣り合い、領主補佐としての能力。条件面からしても、リリアナとの関係からしても、配偶者として選ばれるのはアレクサンダー・リーンハルトをおいて他にあるまい。オズワルドが平民となった今、リリアナの隣に居るのは自分一人だ。
(だから……なにもかもこれで良かったんだ)
オズワルドの虚ろな笑い声を聞きながら、アレクサンダーはそんなことを考えていた。
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