82 ただの男と女です(アレクサンダー視点)
「なんですか? 皆さん、幽霊でも見たような顔をして」
銀縁眼鏡を押し上げながら、モートンは皮肉な口調で言った。
「学院を辞めることになったので、生徒会顧問として皆にお別れを言いに来たんですが……一名足りないようですね」
幾分やつれてはいるものの、普段とさして変わらぬモートンの様子に、一同の間に安堵が広がっていく。
「そうなの。ダミアンたら最近休みがちで……。それより先生、アレクから聞いたわ、先生はカンニングの手伝いをしたって言いがかりをつけられて、学院を辞めることになったって。でも先生はフィリップを信頼して鍵を任せただけなんでしょう?」
「もちろんですよ。まさかエヴァンズ君があんな馬鹿な真似をするなんて思ってもみませんでした」
「やっぱりそうよね! フィリップのパパったら、先生のことなんにも知らないくせに勝手に決めつけて酷いと思うわ」
リリアナは悔しげに言ったあと、「それで、先生はこれからどうするの? どこか他の学校に行くことになってるの?」と問いかけた。
「それは……まだ分かりません」
「そうなの……。あ、そうだわ! それなら私の家庭教師になるっていうのはどうかしら」
「え、私がリリアナ殿下の?」
「ええ、だって先生に教えてもらったおかげで私の成績も上がったし、これからもずっと傍にいてくれたら心強いもの。ねえ、いいアイディアでしょう? 今日、帰ってからパパに頼んでみるわ」
リリアナがそう言って片目をつぶると、モートンの顔に明らかな喜色が浮かんだ。
無理もない。先ほどまで彼の将来はほとんど絶望的な状況だった。
通常、貴族や富裕層相手の職に就くには前の職場からの紹介状が必要となるが、学院長はエヴァンズ侯爵の「あの男は二度と教職に就くべきではない」という要求を受け、紹介状を出さないことにしたと言っている。ただでさえ複数の高位貴族から睨まれている状況下で、紹介状のない男がどんな仕事に就くことができるのか。生徒の手前、平気なふりをしていても、内心は不安でたまらなかったに違いあるまい。
しかし王女殿下の家庭教師として数年過ごすことができれば、話は別だ。「王族の家庭教師」という輝かしい経歴の前には、過去の汚点は綺麗に洗い流される。リリアナが家庭教師を必要としない年齢になっても、王宮からの紹介状があれば再就職先はいくらでも見つかるだろう。
モートンが笑みを浮かべてなにかを――おそらくは礼の言葉を口にしようとした、まさにそのとき。オズワルドが猛然と異を唱えた。
「待ってくださいリリアナ殿下、モートン先生が家庭教師だなんてとんでもない! 先生は生徒のカンニングの手助けをした件で辞めたんですよ? たとえ学院が発表しなくても、フィリップのカンニングによる退学と同時期に生徒会顧問が辞めたとなれば、すぐ噂は広まります。モートン先生が家庭教師に納まったら、リリアナ殿下までが色眼鏡で見られかねません!」
「私、そんなの気にしないわ。噂をしたい人には、勝手にさせておけばいいじゃない」
「ええ、確かに殿下は気になさらないでしょう。しかしモートン先生はどうでしょうか。殿下もご存じの通り、モートン先生はリリアナ殿下のことを誰よりも大切に思っておいでです。その先生が、ご自分のせいでリリアナ殿下の評判に傷がつくなんて、そんなの耐えられるわけがありません」
「え……そうなの? モートン先生」
リリアナの問いかけに、モートンは顔をこわばらせた。
果たして彼は何と答えるのか、アレクサンダーが固唾をのんで成り行きを見守っていると、横からぐいと肘で突かれた。見ればオズワルドが苛立たし気にこちらを睨みつけている。その眼差しは「君は何をやっているんだ。さっさとこっちに加勢しろ」と要求しているかのようだった。
アレクサンダーは思わず視線を落とした。
確かにオズワルドの言う通り、モートンがリリアナの家庭教師に納まったら、リリアナの評判に悪影響を及ぼしかねない。
とはいえ、今ここでリリアナが手を差し伸べなければ、モートンは完全に詰んでしまう。
いくらリリアナを守るためとはいえ、モートンを見捨てていいのだろか。今ここで、容赦なく切り捨てていいのだろうか。
「……リリアナ様、オズワルドの言う通りです。モートン先生はリリアナ様を本当に大切に思っておいでですから、ご自分のせいで殿下の立場が悪くなることなんて、絶対に望まないはずです」
結局のところ、迷ったのはほんの一瞬だった。リリアナとモートン、どちらを優先すべきかなんて、考えるまでもないことだ。
「え、でも……それじゃ先生はどうなるの?」
「大丈夫です。モートン先生は大変優秀な方ですから、殿下に仕事を恵んでもらわずとも、いくらでも相応しい仕事に就くことができます。殿下が先生を助けてあげようだなんて、先生に対する侮辱です。――そうですよね? 先生」
目をかけてきた男子生徒二人に切り捨てられたことを察したのか、モートンの顔が泣きそうに歪んだ。アレクサンダーはいささか罪悪感を覚えたものの、心を鬼にして「先生はリリアナ様に助けて貰わねばやっていけないような、そんな情けない方ではありませんよね?」と駄目押しのように問いかけた。
ややあって、モートンが絞り出すような声で「……ええ」とうなずいた。
「ええ、そうです……。私はそんな情けない男ではありません……」
「そう……でも王都にはいてくれるのよね? 王都で再就職先を探すんでしょう?」
「それは……」
「リリアナ様、わがままをおっしゃってはいけません。モートン先生の存在自体がリリアナ様にとって害になるのですから、モートン先生は王都から離れたところに仕事を探すはずです」
「そうですよリリアナ殿下、寂しくても我慢するべきです。モートン先生のお心遣いを、殿下が無下になさってはいけません」
アレクサンダーとオズワルドの二人がかりで説得されて、リリアナは「分かったわ」と悲しげにうなずいた。そしてモートンの方に向き直って、頭を下げた。
「先生、無茶なことを言ってごめんなさい」
「いえ……」
「私、寂しくても我慢するわ。だって離れていてもずっと心はつながっているはずだもの。毎日先生のこと思い出すわね」
涙を浮かべて微笑むリリアナのことを、モートンはただじっと見つめていた。
果たして彼の胸には、どんな思いが渦巻いているのか。出会ってから今までの追憶か、別離の悲しみか、あるいは――。
やがてなにかを吹っ切ったように、モートンはふわりと微笑んだ。
「もう先生ではありませんよ」
「え?」
「退職しましたので、私たちはもう教師と生徒ではありません。ただの……男と女です」
モートンは手を伸ばし、リリアナのストロベリーブロンドに触れた。
「ですからリリアナ殿下、いえ、リリアナ、一度だけ私のことを『先生』ではなく名前で呼んでいただけませんか……ハロルド、と」
ゆっくりと大切な宝物に触れるように、髪をなでる。
まるで世界に自分と目の前の少女しか存在していないかのように。
「ただ一度だけ、貴方にそう呼ばれたいんです」
その声はどこまでも甘く、優しく、胸が痛くなるほどに切実だった。
そこにあるのはただ愛する女に慈悲を請う一人の男の姿だった。
全てを失った男が、最愛の女との別れを前に、ただひとつの思い出が欲しいと切望している。
アレクサンダーはオズワルドと視線を交わし、互いに無言でうなずき合った。ここは邪魔をしないでおこう、という意を込めて。
そして当のリリアナは――リリアナは驚いたように目を見開いたのち、なにも言わずにモートンの胸に飛び込んでいった。
「ああ、リリアナ……!」
モートンは感極まった様子でリリアナを抱きしめようとして――「そんな悲しいこと言わないでよ先生!」という言葉に凍り付いた。
「もう教師と生徒じゃないなんて、そんな悲しいこと言わないで! 学院を辞めたって関係ないわ。私にとって先生はずっと先生だもの。先生にとっても私はずっと生徒よね? ねえ、そうでしょう? そうだと言ってよ、先生!」
彼の胸にしがみついて哀願するリリアナの顔はどこまでも無垢で、純粋で、悪意の欠片も見当たらない。
「しかし、私は、もう」
「だからそんなの関係ないの! 肩書なんてどうでもいいの! 大切なのは心だもの。どこに行っても、なにがあっても、これからどれだけ時間がたっても、私にとって先生はずっと先生であって先生以外の何物でもないのよ。私、大好きな先生のこと一生忘れないわ!」
そのときのモートンの絶望した表情を、アレクサンダーは一生忘れないだろう。
少しばかり気まずい沈黙が続いたのち、オズワルドが見かねたように口を挟んだ。
「リリアナ殿下、あまり先生をお引止めしてはいけません。先生が困っておいでですよ」
「ごめんなさい、先生」
リリアナは名残惜しそうに身体を離すと、はにかむように微笑んだ。
「ねえ先生、先生も私という生徒がいたことを忘れないでね」
「ええ、はい、リリアナ殿下」
モートンは魂の抜けたような表情でうなずくと、生徒会室をあとにした。
これから先、モートンがリリアナの前に姿を現すことはもう二度とあるまい――アレクサンダーには、そんな予感がしていた。
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