76 名前を教えてくれないか
「え、いえ、ただの学生です。ですがレモンを使うやり方は、東方の国々では広く行われている方法なんです。お願いです、信じてください」
イアン・トラヴィニオンは必死で訴えるルーシーを無言でじっと見つめていたが、「……分かった。君を信じよう」とうなずいて、レモンを持ってくるように劇場スタッフに指示を出した。
ほどなくしてたくさんのレモンが持ち込まれたため、ルーシーは皆が半信半疑で見守る中で、手際よく俳優の傷口に応急処置を施していった。
王子役の俳優は処置の最中はうめき声をあげていたものの、しばらくすると呼吸もだいぶ落ち着いて、明らかに楽になった様子である。はらはらしながら見守っていたクローディアも、ほっと胸をなでおろした。
一同に安堵と喜びの空気が広まっていく中で、ようやく待望の医師が到着した。
老医師は皆の説明にふんふんと頷きながら丁寧に患者を診察し、薬剤を塗布して包帯を巻きなおしたのち、「この分ならもう大丈夫ですよ」と太鼓判を押した。
「症状も軽いし、おそらく後遺症も残らないでしょう。お嬢さんの応急処置のおかげですよ。レモンを使うやり方は私も聞いたことがありますが、お嬢さんはお若いのによくご存じでしたね。エイルズワースでは医師や薬師でもまだ知らない者は多いと思いますよ」
その後、医師は劇場スタッフに対し「目が覚めたらこの薬を飲ませてください。汗はこまめに拭いてあげて、それから――」とあれこれ指示を出したのち、控室を出て行った。
俳優はすやすやと穏やかな寝息を立てており、顔色もだいぶ良いようだ。
「本当にありがとう、君は弟の命の恩人だ」
深々と頭を下げるイアンに、ルーシーは「いえそんな、たまたま先生に聞いて知っていただけですから。お役に立てて良かったです」と照れたように微笑んだ。
「……この方は弟さんだったのですね」
「ああ。こいつは数年前に役者になると言って家を飛び出したきり、ずっと行方知れずだったんだが、先日『芝居で当たり役を取ったから観に来て欲しい』って手紙が来たんだ。それで王都までやってきたら、こんなことになってしまって……。目の前で弟が竜に襲われているのに、芝居の中の出来事だと思って静観してしまった。これで弟に後遺症が残ったら、一生後悔するところだった」
「どうかご自分を責めないでください。私たちも探索魔法が得意な友人から本物だって言われるまでは、お芝居の演出だと思っていましたから。ねえクローディア様」
「ええ、『原作では王子が竜を相手に勇敢に戦う場面なのに』って怒ってましたわね、そういえば」
「原作展開を知っている私たちでさえそうなのですから、原作をご存じないなら『そういう場面』と思ってしまうのは仕方がないと思います」
「ありがとう、君は優しいんだな」
イアンはそう言ってふわりと微笑んだ。笑うと彫刻のように整った顔立ちが、ふっと柔らかい印象になる。
「いえ、そんな……」
ルーシーもはにかむように微笑み返した。
先ほどから妙に甘酸っぱい空気が漂っているように感じるのは、おそらく気のせいではないだろう。
「弟の恩人にきちんとお礼がしたいんだが、君の名前を教えてくれないか?」
「え、それは……」
「ああ、俺が名乗るのが先だったな。けして怪しい者じゃないんだ、俺は――」
「あの、待ってください」
名乗ろうとするイアン・トラヴィニオンを、ルーシーは慌てたように遮った。
「お礼だなんて、そんな大したことはしていませんから、そのお気持ちだけで充分です。あの、それでは、私はこれで失礼します」
ルーシーはそう言って頭を下げると、足早に部屋を出て行った。
(え、なんで?)
クローディアは一瞬あっけにとられたものの、その場に残されたイアンに「私もこれで失礼いたします」と会釈してルーシーの後を追いかけた。
「ルーシー様はああいう方は苦手ですの?」
足早に歩いていくルーシーに対し、クローディアは後ろから問いかけた。
「え、いえ、とんでもありません。……その、礼儀正しくて、素敵な方だと思います」
ルーシーの耳が赤く染まっているところからして、おそらく嘘ではないだろう。
「それなら、なんで名前も聞かずに逃げてしまったんですの?」
「え、だってそれは、本当に大したことはしていませんし、改めてお礼をなんて言われても困ってしまいますし」
「そういうことじゃありませんわ。あの方はルーシー様のことが気になるから、もう一度会う機会が欲しかったんじゃありませんの?」
「そんな風に考えるなんて、あの方に失礼です。それに……」
「それに?」
「それに……仮にそうだとしたら、なおさらお教えするわけにはいきません。私はまだ婚約中の身ですから、他の殿方と親しくなるわけにはいきませんし」
「ルーシー様の婚約者……ああ、そういえばいましたわね、そんなのが」
要するに、ルーシーは自身が婚約中の身であることを思い出して、「そういう流れ」になる前に身を引いてしまったということか。名ばかりと言えど婚約者は婚約者である以上、正しい振る舞いではあるのだが――。
(でもフィリップ・エヴァンズの方はあの態度なのに……)
クローディアはなんとも歯がゆい気持ちを味わいながら、ルーシーと共に舞台袖に戻ってユージィンらに合流した。
劇団関係者は怪我人を除いて劇場内に留め置かれるものの、観客は帰宅しても構わないということだったので、クローディアたちは劇場を出て、カフェに腰を落ち着けた。
それぞれが注文を終えてから、ユージィンが王国騎士から受けた報告内容を披露したわけだが、やはりあれは「こだわりの強い舞台監督」の暴走に因るものだったらしい。
舞台監督が涙ながらに自白したところによれば、彼はクライマックスの暗黒竜を表現するため、竜種についてあれこれ調べていた際に、「褐色竜は脱皮後の一定期間は羊のように大人しいので、家畜制御用の魔道具で従わせることが可能である」と耳にして、舞台で使うことを思いついた、当初の予定では安全期間内に終わるはずだったのだが、思いがけない大好評でロングランになったため、安全期間を過ぎてしまったとのことだった。
クローディアが「それなら安全期間を過ぎた時点で剥製に切り替えるなりなんなりしたら良かったんじゃありませんの?」と尋ねると、「そのつもりだったんだが、新聞の演劇欄で『王子と暗黒竜に変身した義母との死闘が迫力満点で素晴らしい』と絶賛されたことで、引っ込みがつかなくなったらしい』との返事。
そしてずるずると「もう一日くらい大丈夫」「昨日大丈夫だったんだし、今日もきっと大丈夫」と本物の竜を使い続けていたのだが、そろそろ本格的にまずい状況になってきたので、さすがに今日からは剥製に切り替えるつもりだったらしい。ところが幕が上がる直前になって、支配人から「王子殿下がいらしているから、今日は最高の舞台を頼むよ!」と耳打ちされて、迷った挙句に「大丈夫、うん、大丈夫」「たぶん、きっと、大丈夫!」と本物で強行した結果、今回の事態を引き起こしたというわけだ。
そう説明するユージィンはなんとも複雑な表情を浮かべていたが、彼はなにも悪くない。
「――まあ、お馬鹿な舞台監督のせいでとんでもないことになりましたけど、大した被害がなくてよかったですわ」
クローディアが気を取り直したように言うと、エリザベスも「そうね、それは不幸中の幸いよね」と賛同した。
「だけどお芝居が最後まで見られなかったのはちょっと残念だったわね。こうなったら、さすがにもう公演も中止でしょうし」
「だよな。結局王子と義母どうなったのか分からないままっていうのがなぁ」
「そこは王子とヒロインがどうなったのか、と言って欲しいところですわね。ライナス様の言い方だと、まるで王子と義母の恋愛ものみたいですわ」
「でもあのヒロインって二幕目は影薄くなかったか? 王子とヒロインの恋の行方よりも、義母との宿命の対決の方が盛り上がってたし」
「え」
「それは私も思ったわ。王子がヒロインと再会して喜ぶ場面でも、『それより義母はどうなったの?』って思ってしまったもの」
「そんな、エリザベス様まで……」
「クローディア嬢、私は王子とヒロインが再会した場面にすごく感動したよ。あの王子が心から愛する女性と結ばれて、幸せになれるところまで見届けられなかったのが残念だ」
「まあ、さすがユージィン殿下ですわ! それならぜひぜひ原作をお読みになって下さいな。それはもう名作ですのよ。ねえ、ルーシー様」
「え?」
ルーシーがきょとんとした顔で聞き返す。
「すみません、なんのお話でしょうか」
「ですから、『愛の輪舞』の原作が素晴らしいって話ですわ」
「え、ええ、それはもちろん、そうですわね……」
「……ルーシー様、もしかしてさっきの方のことを気にしてるんですの?」
「え、いえ、そういうわけでは」
「真面目なところはルーシー様らしくて素敵だと思いますけど、やっぱり名前くらいは聞いても良かったと思いますわ。婚約中といってもどうせ解消予定なのですし」
「ですが、まだ一年以上もあるわけですから」
「一年もかからないかも知れませんわよ? 近日中にエヴァンズ様有責で解消される可能性だってありますわ」
「え、どういうことでしょう」
そこでクローディアは「フィリップ・エヴァンズは落第によって廃嫡されるのではないか」という考えを披露したわけだが、それを聞いたルーシーは意外な科白を口にした。
「フィリップ様が落第って、それはないと思います」
「何故ですの?」
「何故って……もしかしてクローディア様は、掲示板の試験結果を全部ご覧になってないのですか?」
「え? ええ、大体十位くらいまでしか見てませんけど、それが?」
一位から八位まで確認する間に、知り合いの結果は全て把握できたので、あえて下の方まで目を通す必要を覚えなかった。
ユージィンが一位、ルーシーが二位、ライナスが三位、アレクサンダーが四位、オズワルドが七位でクローディアが八位。原作の知識によれば、リリアナは三十位以内に入るような好成績ではないはずだし、フィリップ・エヴァンズに至っては――。
「フィリップ・エヴァンズは二十一位に入ってたぞ」
ライナスが横からそう告げた。
お読みいただきありがとうございます。
よろしければ、下の☆☆☆☆☆から評価を入れていただけると大変励みになります!