18 ルーシーの婚約者
ルーシーの表情は分からないが、フィリップは朗らかな笑みを浮かべ、声音も楽しげなものだった。クローディアの記憶によれば、フィリップは公衆の面前で「俺の命はリリアナ様のものだ!」と宣言したり、剣術大会で優勝したあと、ルーシーの前を素通りしてリリアナの祝福を受けに行ったりと、なにかとルーシーをないがしろにしている印象が強い。
しかしああして二人でいるときは、それなりに愛想良くふるまっているのだろうか。
(なんにしても、婚約者同士の会話を邪魔するのは良くないわよね)
クローディアはそう判断し、さりげなく二人の後ろを通って教室に入ろうとした。ところが扉に手をかけるより前に、二人の会話が耳に飛び込んできた。
「それからこれが古代語のテキストの翻訳で、こちらが歴史学の授業ノートです」
「おお、助かるわ。ルーシーはいつも頼りになるな」
「いえ……」
「あれ? 地理のレポートがやってないけど」
「え、それはうかがっておりませんが」
「そっか、言い忘れてたかなー。まぁ提出は明日だから、悪ぃけど明日までに頼むわ」
「え、明日、ですか……」
「ああ、ルーシーならなんとかできるだろ。多少手抜きでも構わないからさ。あ、もちろんいくら手抜きでもお前と内容被るのは勘弁な。そこはちゃんと変えてくれないと――」
「お早うございます、ルーシー様。それからエヴァンズ様もお早うございます!」
即座に方針転換を決めたクローディアは、元気よく二人に声をかけた。
ルーシーは「お早うございます、クローディア様」とどこかぎこちない笑顔を浮かべ、フィリップは「もしかして、あのラングレー嬢か?」と目を見開いた。
「へえ、噂には聞いてたけど、見た目が変わったっていうのは本当だったんだな。結構見られるようになったじゃねぇか」
挨拶も返さずに人の外見をあれこれ言うとは、随分と礼儀知らずな男である。少女漫画『リリアナ王女はくじけない!』において、フィリップは明るくお調子者のムードメーカーといった位置づけだったが、こうしてみるとただの不快な脳筋だ。
「ええ、ちょっとした気分転換ですの。ところで先ほど小耳に挟んだのですけど、エヴァンズ様はルーシー様にレポートをやってもらうつもりなんですの?」
「いや、まあ、俺は生徒会の仕事が忙しいからな。つーか、俺たち婚約者同士の話にお前がなにか関係あるのか?」
「もちろんなんの関係もありませんわ。ただ部外者として純粋にびっくりしているだけですわ。だってそれは不正じゃありませんの? 仮にも生徒会役員で、おまけに騎士を目指している方が不正だなんて、もう本当にびっくりですわ!」
「おいお前、あまり大きい声出すなよ」
「びっくりですわ! 不正だなんて! 不正だなんて!」
「お前――」
「あ、あの、フィリップ様!」
それまでおろおろしていたルーシーが、意を決したように口を開いた。
「私もその、やっぱり学院の課題は自力でやるべきだと思います。ですからその、地理のレポートはご自分でやってくださいませ」
「おいルーシー、お前までなにを言ってるんだ」
「申し訳ありません。実は私も前からずっと思っていたんです。他の課題についても、これからはもうお引き受けできません」
「それは困るよルーシー、俺は生徒会の仕事が大変なんだ。暇なお前がちょっとくらい手伝ってくれたっていいじゃないか。婚約者同士はお互い助け合うものだろう?」
「そ、それはリーンハルト会長に言って、生徒会のお仕事をセーブさせてもらえばいいのではないかと思います。それじゃ、私はこれで、ごきげんよう」
ルーシーは頭を下げるなり、フィリップを置いて自分の教室に入って行った。続いてクローディアも「私もこれで、ごきげんよう!」と満面の笑顔でフィリップに告げると、急いでルーシーのあとを追った。
「……お見苦しいところをお見せしました」
教室に入ると、ルーシーはうつむいたまま小さな声で言った。
「クローディア様にはっきりおっしゃっていただいて助かりました。私も前から良くないことだと思っていたのですけど、フィリップ様に頼まれると断れなくて……」
「ルーシー様、立ち入ったことをお聞きしてもよろしいでしょうか」
「なんでしょう」
「ルーシー様はエヴァンズ様を愛してらっしゃいますの?」
クローディアの率直な質問に、ルーシーは虚を突かれたように目を見開いた。そしてしばしの沈黙ののち、「……分かりません」と自嘲するように微笑んでみせた。
「父が持ってきた縁談ですし。父は騎士団長のご子息と縁が結べたと大変喜んでいるので、私はお会いしてからずっとあの方の意に沿うように必死で……自分があの方を好きか嫌いかなんて、考えたことがありませんでした」
その笑顔はどこか儚げで、見ているだけで胸が締め付けられるようだった。
少女漫画『リリアナ王女はくじけない!』において、ルーシー・アンダーソンはモブ扱いだ。やりたい放題した挙句に破滅するクローディアと違って、大人しいルーシーは特にリリアナの邪魔をすることもないし、婚約者ともめ事を起こすこともないため、リリアナ中心の世界においてはあまり重要ではないのだろう。
だから前世の知識をもってしても、ルーシーがこの先どうなるのかは分からない。
(だけどあの脳筋と結婚しても、幸せになれるとは思えないのよね……)
ルーシーはフィリップとの婚約を解消するわけにはいかないのだろうか。跡取り娘のクローディアと違ってルーシーは嫁入りする立場だし、そう簡単ではないのは自分にも分かっているのだが。
一限目の授業が始まるまで、クローディアはやるせない思いをかみしめていた。