10 学院教師ハロルド・モートン
「そうでしたの、それは大変でしたわね……」
おっとりしたルーシーは当たり障りのない返答をしたが、クラスメイト達はクローディアの爆弾発言に、明らかに動揺しているようだった。
「え、なに、どういうこと?」
「あのラングレー嬢がアレクサンダーに愛想をつかしたって、本当か?」
「信じられない、あのラングレー嬢が」
「でも婚約を解消しようとしてるんだから本気なんだろ」
「それよりリーンハルト様が婚約解消に応じなかったという方が信じられませんわ」
「そうだよな。アレクサンダーってラングレー嬢を毛嫌いしてるんじゃなかったのか?」
「それはほら、あれだよ。リーンハルト公爵家って経済状態が」
「あらまあ、それはお気の毒ですわねぇ」
ひそひそと囁きかわす声が、教室のそこここから聞こえてくる。先ほどアレクサンダーと話していた男子生徒たちはとまどったようにクローディアとアレクサンダーを交互に見やって、反応を決めかねているようだった。
そして当のアレクサンダーはといえば、真っ赤になって「いや、これは、違うんだ」などともごもご呟いている。
「まあリーンハルト様ったら、一体なにが違うのでしょう。私は本当のことしか言っておりませんわ!」
「なっ……おいクローディア、いい加減に――」
そのとき教室の扉が開いて、魔法科担当の若手教師、ハロルド・モートンが入室してきた。
「君たち、なにを騒いでるんですか」
モートンの一声に、騒がしかった教室が水を打ったように静まり返る。
ハロルド・モートンは銀縁眼鏡の似合う冷たい容貌の美男子で、生徒を容赦なく落第させる鬼教師として有名だ。ちなみにクローディアにとって一番進級が危ないのが他でもないモートン先生の授業である。
教室内を一瞥したモートンは、クローディアの変貌ぶりに一瞬片眉をあげたものの、それについては触れることなく教壇に登って、てきぱきと授業を開始した。
「では今日は276ページからですね。リーンハルトくん、この呪文の効果についてわかりますか」
「はい。この呪文は光魔法に属するもので――」
成績優秀者のアレクサンダーがすらすらと答えると、モートンは満足げにうなずいた。
「ではブラウンくん、この理論を発見した者の名は」
「ジェファーソン嬢、この呪文が今まで実戦で使われた例は」
次々と当てられる生徒たちは、よどみなく答えられる者もいれば、しどろもどろになって叱責される者もいた。モートンは生徒たちとのやり取りの合間に、手持ちのノートに各自の回答状況を逐一書き込んでいく。
成績は平常点と試験結果の双方によって決定されるが、モートンの授業における両者の比率は半々だと言われている。つまり授業での回答が壊滅的なら、いくらテストで成績が良くても挽回はなかなか難しい。
成績優秀者のルーシー・アンダーソンもよどみなく答えることができた。そしていよいよクローディアが指名される番になった。
「ラングレー嬢、この呪文の効果はなんですか?」
「はい。結界の強化です」
幸いしっかり予習してきたところだったので、危なげなく正解することができた。
クローディアがほっと息をついていると、モートンが胡乱な眼差しを向けてきた。
「君がまともに予習をしているとは驚きですね。いつも授業そっちのけでリーンハルト君を見つめていたのに、一体どういう風の吹き回しですか?」
「今までの授業態度を反省したのです。学生の本分は勉強ですから、これからは真面目に頑張ろうと思っています」
「そうですか。まぁ三日坊主にならないといいですね」
モートンは小馬鹿にしたような口調で言うと、そのまま授業を再開した。
二度目に当てられたときもクローディアはきちんと正解したが、モートンはまぐれだろうと言わんばかりに、ふんと鼻で笑って見せた。おかげでクローディアはモートンの授業が終わるまで不快な気分を味わった。
(なによあの陰険眼鏡、ああもうムカつく!)
確かに今までの授業態度には問題があったかも知れないが、こうして真面目に予習してきた生徒をわざわざ馬鹿にして嫌味を言うことはないだろう。それまで単なる「苦手な教師」程度だったモートンの株は、ここで一気に暴落した。
ちなみに少女漫画『リリアナ王女はくじけない!』において、ハロルド・モートンは主要キャラクターの一人である。主人公リリアナ視点では、モートンはちょっと意地悪だが根は優しくて思いやりに満ちた年上男性であり、なにかとリリアナを気にかけてくれる「ツンデレ教師」として一部の読者に人気があった。
作中におけるモートンは、最初は赤点ばかりのリリアナに呆れながらも根気よく個人授業を行って、リリアナの成績が上がったときにはそれは嬉しげに微笑んで見せたものである。モートンが初めて見せた柔らかな笑顔のインパクトたるや絶大で、一気にモートンファンが激増した名シーンとまで言われている。
クローディアの前世である鈴木律子もモートンには好感を持っていた。リリアナに対する態度はあくまで熱心な教師の範疇を出ないものだったし、仮にそれ以上の感情があったとしても、態度に出さないのなら問題はないと思ったからだ。
むしろアレクサンダーのように婚約者がいるわけでもないのに、教師と生徒という立場を踏まえて自重している姿を好ましいとさえ思っていたのである。しかし同じ学院生徒であるクローディアへの態度を知ってしまえば、印象はまるで異なってくる。
(モートン先生ってリリアナを露骨に贔屓してたのね。リリアナ視点じゃ気づかなかったわ)
クローディアがリリアナに敵意を抱いているのは学院内でも有名なので、もしかするとそのこともあって、モートンはクローディアを毛嫌いしているのかもしれない。
むろん人間である以上好き嫌いがあるのは当然だが、仮にも教師があんな風に態度に出すことはないだろう。
教科書をにらみながら、クローディアは不快感を募らせていた。