8★悪女補正は容赦しない
踏み出した足先に猛烈な痛みを感じて、引っ込める。
ベアトリーチェの足先、紅いヒールのつま先は焼け焦げていた。
前世の自分が、魔獣を国へと侵入させないように張った結界に、魔獣が触れた時と同じ現象。つまり―――。
「神殿に、入れない……?」
まさか、と固唾をのんだ瞬間。
《【悪女補正】ね》
「!?」
またしても、あの声。
足元の影を見ると、案の定、そこには意地悪くほほ笑む分厚い唇。
動揺を気取られないようにし、周囲に目配せする。普段より大人しいドレスに身を包み、顔半分を覆い隠すつばの広い帽子のおかげなのか。周りの人々は神殿前に佇む美女が、あの悪女ベアトリーチェだとはまだ気づいていないようだ。
しかし、ドレスから高貴な身分の方であろうことは察しているのだろう。あえて遠巻きにし、近づかないよう配慮してくれているのか、ベアトリーチェの足元にいる異形の存在までには気がついていないようだ。
「――神よ、どういう事です?」
真正面に存在する神殿を見据えたまま、ベアトリーチェがひっそりと足元の存在へ語り掛ける。
《前に説明したじゃない? 元聖女様だからってすぐ神殿に乗り込まれたら困るわけよ。アンタには【悪女】っていう役割があるんだから》
応える神の声は愉しそうだ。よほど、ベアトリーチェの神殿侵入を防げたことが嬉しいらしい。
「悪女だから神殿に入れないという事ですか? 全ての人々を受け入れる神殿が」
確かに、今まで非道な行いをしていたという自覚がある。
だからと言って、ベアトリーチェは過去に人を殺めた罪があるわけでも、悪魔でもない。神殿で問題すら、まだ起こしていないにもかかわらず《悔い改める場》でもある神殿への出入りを規制されるとはどういう了見だ。
《そういう事……と言いたいとこだけど、実際アンタの場合は神殿側の【ブラックリスト】入りしているから入れないだけのようね》
「ブラックリスト? 結界にそんな条件を付与できるのですか?」
《優秀な高位神官がいるんじゃない~?》
アタシが付与した悪女補正だけのせいじゃないわよ、恨まないでよね!
静かなる怒りにうち震えるベアトリーチェへ、弁明するかのように神が慌てて付け加える。神による妨害を疑っていたが、すべてがそうではないらしい。
《ま~でも入れないんじゃねぇ? どうしようもないわよね~! 神殿やら浄化やらは聖女様にお任せして、アンタは自分の本来の使命の方を優先してもらって……》
「なるほど、わたくしは神殿に行かなかったのではなく、《《元々行けなかった》》のですね」
《そういう事よ! まぁ生粋の悪女だった彼女はそもそも行きたがらなかったけどね~》
確かに。父親が何度かスキル確認のために連れ行こうとしても「神殿は嫌だ」「怖い」「行きたくないわ」と言って、暴れた記憶がある。潜在的な恐怖を感じていたのだろうか。
だから、今まで彼女のスキルがわからないままだったのね。
納得して、ベアトリーチェはかわいそうに、と言わんばかりに自身を抱きしめた。
「かわいそうなわたくし、貴女も神の悪戯に振り回された被害者なのですね……」
《アタシが邪神みたいな言い方やめてくれる?》
「安心なさい。わたくしがしっかりと貴女を神域へと導きましょう」
《おおっと、変なスイッチ入っちゃったな》
これはめんどくさいぞ、と神が唇をヒクつかせたまさにその時だ。
「いざ」
――ジュッ!!
ベアトリーチェは躊躇なく神域内に右手を突っ込んだ。
つけていた黒いレースの手袋は焼け焦げ、美しい指先にチリチリとした余燼がまとわりつくのを、じっと見つめる。
「――熱いですわね」
《馬鹿なの?》
「これが悪女補正。あなどれませんわ」
《補正かかってるって事前にお知らせしたのに、なんで利き手いれちゃったの?》
「しかし、この程度の痛みどうってことなくてよ」
《いや現実見て!!!!》
右手結構痛々しいから!!!
そう叫ぶ神の言う通り、周囲の人々がぎょっとする程度にはしっかりと熱傷していた。
レベルでいうとⅠ度。すぐに手を引いたので表皮層の火傷程度ですんでいる。突っ込んだ指先から手首にかけて、赤みを帯び、ずっとじくじくとした針で神経を刺すような痛みが続いている。
それをみて、ベアトリーチェはにやりと怪しくほほ笑んだ。
「ですが、これで聖女様に会う理由ができましたね」
《どういうこと?》
「いくら稀代の悪女であろうと、神殿前で負傷した者。しかも三大公爵家のご令嬢を聖女様が放置するわけにいかないでしょう?」
こうなったら、わたくしを除外した神殿の聖女様直々に手当てをしていただきませんとねぇ?
痛々しい右手をうっとりと眺めながら、ベアトリーチェは淀んだオリーブグリーンの瞳で微笑む。
「アポなし突撃でしたので高位神官に会えれば上々、といったところでしたが思わぬ僥倖ですわ。早速、身分を明かして聖女様自身に出てきていただきましょう」
《アンタ……性格が悪女に引きずられてない?》
神が若干、いやかなり引いた声を出す。
《普通、悪女に生まれ変わったら周囲に印象を変えてもらえるよう清く正しく振舞ったりして努力するもんじゃないの?!》
なんで公爵令嬢の肩書き使って聖女呼び出しとか悪女らしく振舞うわけ!?
理解できないといわんばかりの神に、ベアトリーチェがすっと真顔になる。
「神よ、わたくしは聖女と言えど《元平民》でした。身勝手に振舞う貴族の方々には随分辟易しておりましたが、公爵令嬢として新たに生を受けたからには最大限活用させていただこうと考えているだけです」
しかも悪女。これ以上評価が下がることがないという無限大の可能性を秘めた存在!
「わたくしはわたくしの目的のためならば悪女も公爵令嬢も存分に利用いたしますわ!!」
《違うの違うの!! そこは元聖女としての優しさとか清らかさとかが周囲に認められてやっと神殿側から『ぜひ神殿へお越しください!』みたいな流れというか【聖女力】で乗り越えてほしかったの~~~!!!》
「適応力も聖女力です! さっさと神殿付きの衛兵でも呼びつけて聖女様、を……?」
意気揚々としたところで、まさに橋の向こう。
神殿の入口から誰かが出てきた。
風になびく銀色の髪。
太陽の光を受けて七色に光る虹彩は神々しく、歩いた軌跡には花が咲きそうなほど華やか。白くすき通った肌に、透明感のあるプレシャスオパールの瞳。
神々しいその姿を目の当たりにし、ベアトリーチェは追い詰められた悪女さながらに、口元をヒクつかせた。
「――か、神よ。まさか………」
《おいでなさったわね。そう、あれがこの世界の聖女様よ》
あれでは、まるで――大聖女の生き写しではないか。