65☆エミリー・ウォルナットと医師ルカ・ハーレクイン①
聖女が嗤う。最悪な光景。真っ暗な世界。
その中で蹲っていると、左手の小指がちりっと疼いた気がした。
小指を見ると、ぼんやりと、温かく光る糸―――あぁ、そうだ。ベアトリーチェ様の髪の毛……
ベアトリーチェ様?
「――――ッは……!!」
「エミリー!! 目が覚めたのか!?」
見開いた世界は白かった。
グイードにあてがわれた、不釣り合いなほど豪華な部屋。その天井と同時に、安心したようなグイードの顔が入り込んでくる。眼鏡をかけていないせいで、何度か瞳をぱちぱちさせていると。
「グイード卿。彼女は目覚めたばかりです。大きい声を出さないで頂きたい」
もう一人、男の声が聞こえた。
硬い口調。しかし、エミリーは以前、その声を聞いたことがあった。確か、病院で―――。
「すまない……ありがとう、ハーレクイン卿。貴殿のおかげでエミリーが……」
「いえ……」
グイードが背後を振り返り、感謝を述べている。そして、その名前で、思い出した。
―――そうだ。ルカ・ハーレクイン医師。
何度か、不足した薬剤をうちの薬局から分けてほしいと連絡が着て、病院に行ったときにちらりと見たことがある。確かその時は、聖人君子をそのまま医師にしたような、おだやかで、優しい顔だちの男性だった気がしたが。
グイードの身体越しにちらりと見たその顔は、正直、仮面のような笑顔で少し強張っていた。
「――ひとまず、傷の具合を見ます。ウォルナット嬢もしばらくは言葉を発せないでしょうから、またのちほど病状を説明いたします」
病状? 言葉を発せない?
ああそうだ。私、首を―――でも、痛くない。それに声も――。
「あ、あの……」
「エミリー!? 声が出せるのか?!」
グイードの服を引っ張り、声をかけようとした途端、硬直した。
グイード越しにこちらをみるルカ・ハーレクインが鬼のような形相でこちらを見ていたからだ。そのあまりの恐ろしさに、エミリーは声を失ったかのように、パクパクと声が出なくなってしまった。
「エミリー! 大丈夫か?!」
「………グイード卿。診察します。出て行ってください」
「だが……」
「あなたには捜査があるのでしょう。そちらを優先させてください」
厳しいハーレクイン卿の口調に、グイードもぐっと声を詰まらせる。
そして、「……また、来る」と心配そうにエミリーを見て頭を撫でた後、グイードは名残惜しそうに部屋を出ていった。
しん、と静まり返った室内。
すると、ハーレクイン医師はベッドサイドの椅子に腰を下ろすと、改めてエミリーをじっと見てきた。
淡く爽やかなペールグリーンの長髪をひとまとめにし、甘いたれ目が優しい20代前半くらいの男性。
――やっぱり、ハーレクイン医師だ。
見間違いか、人違いか、双子かとも思ったが、ハーレクイン医師で間違いない。なのに、なぜ彼はこんなに《怒って》いるのだろう。
「―――はじめまして、ウォルナット嬢。私のことはご存じですね?」
「………」
穏やかな声だが、その瞳がまるで「しゃべるな」と言っているようで、エミリーは黙ってコクコクとうなずいた。
そして、無意識に首に触れる。首には何重もの包帯が巻かれてあって、すこし息苦しいくらいだ。
「改めまして、私はルカ・ハーレクイン。医者です。グイード卿から君が自害を謀ったとの要請でこちらに参りました……が」
ルカが厳しい目でこちらを見、そして、首に触れるエミリーの左手首を掴んだ。
「―――君の首は確かに血まみれでしたが、私が傷を診た時にはすでに完全に治癒されていました。まるで、最初から傷がついていなかったかのように。そして―――これはどういうことです?」
捕まれた左手。ゆっくりと目線だけでその小指を見る。
そこには黒く焦げた何かが巻き付いていた跡があった。
何だろう、これは―――。
「おそらく、呪術の一種だとは思いますが」
「………あ?」
『――気持ち悪いだろうけど、次会う時までこのままでいてほしい』
「誰かにダメージを移送したのですか?」
「あ………あぁ……!!?」
脳裏によみがえるのは不安げなあの美しい顔。
瞬間、すべてを理解したエミリーはルカの手を振り払って、震える指先で左手の小指を見た。
確かに、この小指には。あの美しい人の髪の毛が巻かれていたのに。今は消し炭のようにボロボロとチリとなって空気中に舞い、消えていく。
「いやぁああああああ!!!! ベアトリーチェ様!!」
気が狂いそうだった。
確かに致命傷だったはずだ。首の動脈を狙って刺したはず。出血の量といい、いくらハーレクイン医師を呼んだとしても、間に合わない傷だったはずなのだ。
なのに、その自分の傷が完治している。
考えられることは、一つしかない。
「ベアトリーチェ様!! ベアトリーチェ様が――……ッが!!!」
狂ったようにベアトリーチェの名を叫んでいると突然、大きな手で口を塞がれた。呼吸ごと止めそうな勢い。口をふさがれたことに驚いて前を見、エミリーはヒュッと自ら呼吸を止めた。
「………今、ベアトリーチェと言ったな?」
見上げると、ルカ・ハーレクインはあの穏やかな医者らしい顔を完全にはぎすてていて、尋常でない形相でエミリーをみていた。
「お前、ベアトリーチェ嬢とどういう関係だ?」




