43★きっとこれは罠だから②
「……他所見する元気はあるようだな」
くすりと耳元で囁く、鼓膜を震わす低く掠かすれた声。
その痺れにも似た感覚に驚き、思わず見上げると、目の端で艶めいた黒髪がさらりと揺れ、スモーキーな香りが鼻腔びこうをかすめた。
翠と紅が半々になったアレキサンドライトの瞳。それを、意地悪く三日月型に細めた皇帝との距離はあまりにも近くて、心臓が鷲掴みされたかのような衝撃に呼吸が止まった。
「……へ、陛下!! 本当に、自分で歩けますので!」
バッと顔を反らし、反動で身体を起き上がらせようとするもベアトリーチェの細い肩を抱く皇帝の腕の力強さに、身体が微動だにしない。
まるで鋼のように硬い。
支えるというより、《捕食者》が獲物を捕らえ、逃がさないように拘束するかのような強さ。あまりの緊張感にのどが渇き、ぴくんと足先が揺れ、反動で赤いヒールが脱げてしまった。
カラン、と音を立てて地に転がり落ちるヒールの音で、ハッと我に返る。
今。完全に、皇帝の空気に圧倒されていた。
まずい。このままでは、飲み込まれてしまう。
「あ、あの、すみません。靴が……」
「いい。気にするな。靴は後で新しいものを買えばいい」
いいつつ、皇帝は脱げてしまったヒールには見向きもせずに、鉄格子へと真正面から向き合う。
ヒールを回収する一瞬の隙をついて逃げ出そうとしたのが読まれていたのだろうか。
皇帝は脱げたヒールを無視したまま鉄格子に向かい合うと、ベアトリーチェを抱いたまま、長い足でおもむろに鉄の柵を「ガッッ!!」と蹴り上げた。
すると、その衝撃だけで重厚な鉄格子がぐにゃりと歪み、人が通れる穴となった。
どういう体幹をしているのだ、この男。
ドレスの重量もあわせたらかなりの重さになるであろうベアトリーチェを姫抱きにしながら、片足だけで重心を取り、人が通れるほど鉄を歪める脚力。あまりにも敵に回したくない存在だ。
前世の彼も強かった。元々の素質だったのか、戦闘センスがズバ抜けていたのと、黒髪に赤瞳という見た目で《魔族》だ揶揄されるほど。
しかし、今は皇帝の人間離れした力に驚いている場合ではない。
「あの、これから……どちらに?」
この男は、自分をどこに連れ出そうというのか。
騎士団に糾弾された以上、家に帰してもらえるわけではないだろう。
「《《俺の部屋》》だ」
「は?」
は?
脳がうまく言葉を聞き取れなかったらしい。もう一度「は?」と声に出していた。
部屋、というのもそうだが、皇帝の一人称はずっと《私》だったはず。
どこの部屋の事を言っているのだろうか。
「どういう……?」
「違法薬物に関与しているとの疑いのある重要参考人との話をこんな場所でする気はない」
「そ………」
それは、そうでしょうけど。
そうなると、今から連れていかれるのは《俺の部屋》という名の《取調室》または、《尋問部屋》ということなのだろうか。そうなると、やはり自分の知っている『俺』と皇帝陛下の言う『俺』の意味が異なるのかもしれない。
しかし、それでも疑問が残る。
《違法薬物の製造》が重罪なのは重々承知している。
しているが、皇帝直々に。しかも逮捕された当日から取り調べを開始するなんて話は聞いたことがなかったベアトリーチェは「それは……ご迷惑をおかけしております……」と皇帝の腕の中で恐縮しながら、謎に謝罪していた。
「それはそうとしましても……」
「ん?」
「その、この体勢は、おやめになったほうがよろしいかと……」
「なぜ?」
ベアトリーチェが遠慮がちに意思を示しつつも、皇帝陛下は足を止めることも息を乱すこともなく、ベアトリーチェを抱いたまま、地下の牢獄からずんずんと石の階段を上っていく。すごい体力だ。
「……陛下は、わたくしが世間で、なんと呼ばれているかご存じでしょうか?」
「どう呼ばれているんだ?」
「……恐れ多くも、【稀代の悪女】として名をはせております」
「はっ」
は、鼻でわらった?!
この全方位どこからどう見ても《稀代の悪女》であるわたくしを!?
「あぁ、悪い……それは恐ろしいな」
しかも、謝罪までされた。皇帝に。
なおも頭上で笑っているような気配に思わず見上げると、それを見計らっていたかのように、ぐっと顔を近づけられた。
「――【悪女】なのか?」
生娘のように震えているのに?
お互いの鼻先が触れ合う。あまりの近さに呆けて半開きになっていた唇に、皇帝の吐息がなぞる。その状態で囁かれた言葉に身体がカッと熱くなり、顔を思い切り皇帝の反対方向に反らした。
「え、ええ。未熟者ですが」
「そうか」
思い切り拒否したというのに、皇帝はなおもたのしそうにくすくすと笑いながら、顔を反らしたせいで露になった白く細いうなじに高い鼻先を摺り寄せて、ベアトリーチェの首筋をくすぐる。
皮膚のうすい部分を鼻先でなぞられて、神経を逆なでされるかのような痺れが首から全身に伝う。熱い吐息が首筋にかかり、妙な声が出そうになるのを息を飲むことで耐えた。
不安定な体勢で一方的にされる行為。
完全にからかわれているのだろうが、耐性がないベアトリーチェは謎の甘い痺れに身悶えつつも、歯を食いしばりながら「ですので!!」と今度は逆に仕掛ける気概で皇帝にぐぐっと顔を近づけた。
「悪女であるわたくしを! このように抱きかかえている所を城の者にみられますと、陛下の威厳が損なわれてしまいますが?!」
「俺は気にしない」
「………ん?」
「綺麗な色だな」
「は?」
逆にやり返したら引くと思っていたのに。食い気味に瞳をのぞき込まれ、やはりベアトリーチェの方が怖気づいてしまった。
な、に?
なにこれ。
なにがおこっているの?
「それで? 俺の部屋に行くことに異論はないな?」
「あ、そ、そうですね……?」
「ならいい。稀代の悪女ならば外野は気にするな」
いいつつ、彼はまた悠然と歩きだした。
石の階段をのぼり終えて外に出る。どうやら、ここはスペクトル城内の塔だったらしく、目の前にスペクトル城の外苑が広がる。空は茜色に染まっており、夜がすぐそこまで迫っていた。
そこから城内に入るまでの道中は、お互い無言だった。
心臓の音が止まらない。身体が震え出しそうになるのをなんとか気合いで耐えているが、時々叫び出したくなるくらいの気恥ずかしさが止まらない。
誰か、助けてほしい。
どうにかして逃げ出そうと考えるのに、肩をから背中を抱く腕の強さが、あまりにも男で。
目の前がぐるぐるとして、全く考えがまとまらない。
なにか、とんでもないことに巻き込まれてしまったような気がしてならなかった。
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