3★悪女ベアトリーチェ・スカーレット
恋をしたことがない歴120年越えの大聖女。
恋に狂った人間がみたい神。
誰ですか、この両者を茶飲み友達にしようだなんて提案した者は。
「………」
そうだ。
その《恋に狂った人間》を特等席でみたい《神》だった。
朝。
実に清々しい朝だ。
ちらりと横目で見た窓枠の向こう側では、木々の揺らめきと小鳥のさえずり。
更に目線を室内へと移動させると、高価そうな調度品がところ狭しと並べられた豪奢な部屋――が、毒々しいくらいに黒と赤と緑でコーディネートされている。
ここで黒魔術の研究でもしているのだろうか。それくほど、潔いくらいに《黒い》。
アクセントの赤と緑は黒を引き立てるかのように均等に配色されており、カラーバランスに強いこだわりを感じる。そこまで確認したうえで、視線を再び外へともどした。
窓から差し込む朝日と澄んだ空。
それは、聖女だった頃に神殿から見ていた空と同じ青空。
「ふっ……まさか、ここまでとは……」
思わずつぶやいた声に驚き、喉元を抑える。声帯が、柔らかい。
声がしわがれておらず、音が綺麗に澄んでいる――どうやら、本当に若い体へと転生させられてしまったらしい。
天寿を全うし、神の茶飲み友達となり幾年月。
その間、天界にいる様々な神様や偉人や大賢者、英雄たち。果ては、他国の神や魅惑の天使に至るまで様々な眉目秀麗な殿方を紹介されるのに飽き飽きし、最初は若かりし頃の大聖女の姿で過ごしていたのを、途中から晩年の老婆の姿で過ごし、いくら紹介されようと「見ての通り、もう齢なのでお気持ちだけで……」と恋愛ごとを避けてきたツケが、ここになって大規模爆発を起こすとは。
じっと、横になったまま天井を見上げる。天蓋付きのベッド。見慣れない景色だ。
自分が寝ているベッドは最高級品質のものだろうか。腰が痛まず、まるで雲の上で寝ているかのような寝心地。それだけで、自分の身体が貴族階級。または、それに等しい高貴な身分であることが伺える。
むくり、と起き上がる。
重力に従い、さらりと横に垂れてきた横髪が目に入る。大聖女の時は、光を当てると虹色に光彩を放つ銀髪だった。
それが――。
「……紅い」
なんとも鮮やかな紅髪。
血のように鮮烈な色でありながらも、迸る生命力を感じさせ、燃え上がる炎のゆらめきを宿す《紅》。
それは、おどろおどろしくもあり、神秘的なエネルギーも感じさせる美しい色。
周りを見渡すと、正面には大きな姿見。豪奢なベッドから足を下ろし、鏡の前に立つ。
そこには、18歳ほどのうら若き乙女の姿。
身長は170くらいで、高身長の部類だ。
すらりとした均整の取れた身体に、白の寝間着に対比して、燃えるように紅い髪は腰までありウェーブを描いている。
小さな顔を際立たせる、陶器のような白く透き通った絹肌。猫のような蠱惑的な釣り目。密度が高いまつ毛で覆われた瞳の色は、マスカットのようにみずみずしく、ツヤのある鮮やかなグリーン。
たれ目で輝くようなプレシャスオパールの瞳と、童顔だった大聖女時代の姿とは似ても似つかない。
むしろ、全く正反対――すべてを魅了するかのような悪魔的な美貌。
「これが、今のわたくし……?」
これが、悪女?
衝撃に目を見開いたまま、鏡に手を添えようとすると、部屋の扉が遠慮がちに開かれた。
パッと扉を見ると、黒いワンピースに白のエプロンを身に纏った侍女のような少女が、びくりと肩を跳ねて、手にしていた洗面器――おそらく、洗顔用の湯が入っていたのだろう。それを盛大に落とした。
ばしゃりと揺れる床。からんと音を鳴らす洗面器。
「――べ、ベアトリーチェ様、も、もうしわけ……」
「……あ」
あなた、大丈夫?
そう身を案じようとしただけなのに。侍女は彼女の言葉をすべて聞き終える前に「失礼いたしましたぁああ」と泣き叫び、魔獣から逃げ惑う民衆のごとく去っていってしまった。
「………」
取り残されたわたくしこと、《ベアトリーチェ様》。
誰も居なくなった部屋に反響する声は、転生前よりも低く、そして、どこか妖艶。
普通に声をかけたつもりであったのだが、もしかすると、もしかしなくても、今の侍女は《殺される》とでも思ったのだろうか。
鏡を再び見て、にっこり微笑んでみる。
そこには、見る者を恐怖で石に変えてしまうという空想上の魔物にも似た、美しくも底知れぬ恐ろしさを感じさせる笑みが広がっていた。
「……なるほど、これは」
ふーと、額に手を当て、美女は天を見上げた。
「転生キャンセルを申請するにはどうすれば……」
《ちょっとビビられたくらいであきらめないでよぉ!》
背後から聞きなれた声が聞こえて振り返る。
しかし、背後には天蓋付きのベッド以外何もない。視線をゆっくり下におろすと―――背後ではなく、足元。
自身の影に、肉厚で蠱惑にほほ笑む唇がついていた。