15☆薬師エミリー・ウォルナットの転機《前編》
★★★
夢を見ていた。
ひたむきに頑張っていたら、いつか誰かが手を差し伸べてくれて。
「がんばったね」って褒めてくれるような気がして。
「エミリー・ウォルナット!!」
街の外れにある、小さな薬局。
神殿に付属する薬草園から採取された薬草を、同じく敷地内の調剤所でつくられた薬品。それらを棚卸してもらい、街の人々へ販売する。
そして、その薬局の売り子をしているのがエミリー・ウォルナットだ。
胸まである乾燥がちな、パサついた茶色の髪をふたつのおさげにしてまとめ、少し歪んだ丸い眼鏡をかけている。茶色の瞳に、鼻から頬に散らばる《そばかす》が特徴的な、16歳の女の子だ。
この店には10歳から働いており、今年で6年目。小さい頃に親が他界し、孤児院に引き取られたのだが、この店の店長に買い取られ、以降ただ働き同然でここでくらしている。
そしてその日は薬局の壁一面にある陳列棚に届いた薬品を並べ、在庫を確認をしていた。内容を確認し、チェックする。効能別に分けて薬剤を配置するという仕事をしているときに、それは訪れた。
「テメェ! またやりやがったな?!」
「――きゃあ!」
客がいないとはいえ、営業中にもかかわらず酒臭い匂いを隠そうともせずにずかずかと入り込んできた40代半ばの男。
この男はカッシオといい、この店の店主だ。
男は、薬品を数えていたエミリーに近づくと、その細い肩をドンと押した。
男の手で勢いよく突き飛ばされたエミリーの痩身は、受付台にしたたかに身体を打ち付けて倒れる。
その衝撃で、自分で仕立てた茶色のワンピースの裾が木製の受付台のささくれにひっかかり、びりりっと破けた。
「――っうう……」
「また勝手に店の薬を使って孤児のガキどもを治療しただろう!?」
「………!!」
座り込んだエミリーに追い打ちをかけるように叫ぶ店主。
その内容に、エミリーはただでさえ栄養不足で青白い顔をさらに青くさせて「も、申し訳ございません!!」と床に膝と頭をついた。
先日、街の外れでひどい虐待をうけた子供をみかけた。
まだ小さな、5歳くらいの子。親が他界してから、店主に買われるまでの数年間を孤児院で過ごしていたエミリーはいてもたってもいられず、ほんの少しだけ薬をその子の傷に使ったのだ。
高い薬だとわかっていたので、夜にこっそり内職していた、刺繍などで稼いだ金で店に返そうと思っていた。金に汚い店長に気付かれる前に金を返すため、ここ数日睡眠と食事を削って働いたいたため、ふらふらになりながらエミリーはカッシオの足に許しを乞うように縋る。
「――カッシオ様! お許しください! ひどい怪我で……!!」
「貴重な薬を、金のない孤児なんぞにつかいやがって……!!」
「ッ、うう!!」
申し訳ございませんと叫ぶも、頭を男に蹴られて眼鏡が飛ぶ。
痛みをこらえながら、それでも「ごめんなさい」と謝っていると、ワンピースの襟を掴まれた。
見上げると、男は赤ら顔でフーフーと獣のような呼吸をしていた。その色情を帯びた目に、エミリーの背筋が凍り付く。
「働かせてやった恩を仇で返しやがって!! 優しくしてたらつけあがるような女には身体で分からせてやらねぇとなぁ?」
「お、おねが、おやめくださ……ッ…」
息ができない。恐怖で全身が震え、呼吸がひきつれる。
いつか、この男が、自分をこういう目でみてくるのではないかと恐れていた。
その前に、内職で稼いだ金で自立しようと。自分で一から薬草を育てて、薬を作って。誰でも気軽に買える薬局をつくるんだと、それだけを目標に頑張っていたのに。
間に合わない。
結局、私はぐずで、のろまで、子供の傷すら満足に治せない。
「――ごめ、んなさ……た、たすけ………ッ!!」
「急患よ、そこを退きなさい」
ガッッ!!! という凄まじい打撃音とともに男の顔が歪み、右から左にぶっ飛ぶ。
顔にめり込んでいたのは、高級な素材で作られているであろう黒の扇。それは、男の顔にめり込んだ際に「バキィッ」といういびつな音を立てて折れたが、その持ち主たる人物はさして気にしてもない様子で「次は鋼で作るべきね」と何でもないように言い放っていた。
見上げた先にいたのは、この世のモノとは思えないほどの絶世の美女。
絹のような艶めきを放つ紅髪は大輪の薔薇にも引けを取らない存在感。
加えて、猫のように魅惑的に目じりが吊り上がったマスカット色の大きな瞳と、ビスクドールのような白い肌。小さな顔に対し、ハイヒールを履いているせいか、170以上はある長身は絵にかいたような見事なスタイルだ。
グリーンの鮮やかな衣服を身に纏っていることから、薬草の女神が助けに来てくれたのだろうか。
神のような存在から見下ろされ、エミリーはあまりの美しさに瞳をチカチカさせ、呆然と言葉を失なった。
「――あら、悪いわね。その服、弁償するわ」
女神は放心状態のエミリーを一瞥すると、色気のある声でそう言う。みると、カッシオが掴んでいた襟元が破れていた。
「薬品を置いていると聞いてきたのだけれど、ついでに傷も見てもらえないかしら」
眼鏡をしていなくてもわかる。
この御方がとんでもなく高貴な御方だという事。
「そこの飲んだくれは元気そうだから、わたくしが先で構わないわね?」
ふふ、と微笑む唇ですら色っぽい。
稀代の悪女と噂される、ベアトリーチェ・スカーレット公爵令嬢。
その御方が、まるで勝利の女神のようにエミリーの前に降臨されたのだ。
★★★
時が止まっていたかのように、エミリーは美女を見上げたまま制止していた。
しかし、その高貴な御方が、床に落ちていたメアリーの眼鏡を手に取り、「……年季が入っているわね。差し支えなければ、眼鏡も弁償するわ」と言い出したので「と、とんでもございません!!」と身を乗り出すように立ち上がった。
横目で見ると、カッシオは壁に激突し、逆さになった状態のまま失神していた。そこそこ恰幅のいい男なのに。公爵令嬢様は武術の達人だったのだろうか。
先ほどは、一瞬あまりの美しさに《薬草の女神様》かとも思ったが、よくみると彼女の事を知っていた。
ベアトリーチェ・スカーレット公爵令嬢。
通称、ブラッドリー・スカーレット。
《血濡れの公爵令嬢様には逆らうな。逆らうと、その店はつぶされ、草木も生えなくなる》――そんな噂を近所の商店から聞いていたのだ。
わ、わたし、そんな御方の前でこんな貧相な姿を晒してしまった……!!
高貴な御方に、自分の私物など触らせるわけにはいかない。そう、慌てて眼鏡を受け取ろうとすると、美女の動きが止まる。
見ると、彼女はじっとエミリーの手を見つめていた。
そのことに気付いた途端、エミリーは首まで顔を真っ赤にし、さっと手を後ろ手にして隠した。
ささくれ立って、あかぎれだらけの指。眼鏡を持つ、ベアトリーチェの黒のレース手袋越しに見える白く穢れのない指先をみて、自分の手がどうしようもなく恥ずかしくなってしまったのだ。
嗤われてしまう。いや、触らないでと手を叩かれてしまうかも――エミリーがぎゅうっと目をつぶって衝撃に耐えていると。
「お前、随分と優れた薬師のようね」
「…………へ?」
女神の嬉々とした美しい声に、思わず顔を上げると、言葉以上に嬉しそうな笑顔とぶつかった。
「その手、薬草の汁や匂いが染みついているわね」
「も、申し訳、今すぐ手をあらっ………」
「あぁ、そうね。手は洗った方がいいわ。それで、洗った後の事だけど」
女神が右手を差し出す。
なんということだ、真新しい火傷痕。陶器のような美しい手になんてことだ。はやく処置しなければ、痕が残ってしまう。ちょうど、今やけどなどの傷跡にいい薬品が――。
「この手の処置をお前に任せるわ」
「えっ……」
「安心なさい。悪いようにはしないわ」
痛々しい手を勲章のように差し出し、悪戯っぽくほほ笑む公爵令嬢様。
その顔は、聞いていた噂とは全く異なる御方だった。




