【全年齢版】美少女魔王ですが捕らえた勇者にプロポーズされています
ここは魔族の国メラン。広大で豊かな国土を治めるうら若き娘リィラは、階下にいる銀髪の青年を冷ややかな目で眺めていた。
漆黒を思わせる長く艶やかな黒髪。鮮血のような真っ赤な瞳。魔族の頂点に立つ彼女は、海を挟んだ国々から魔王と称される人物である。
小柄で人形のような顔立ちであるものの、ひと睨みすればどんな魔族でも平伏し従う実力を持つ。
しかし先ほど捕えた青年には、怯えている様子など微塵も感じられない。
国境付近をうろついていたところを部下が見つけ、そのまま連行されてきたというわけである。名はシリウスというらしい。
メランには正義だとか名声だとか、そんなものを理由として勇者と名乗る者が十数年に一度訪れる。
こちらとしては迷惑極まりないのだが、ありがたいことに魔族と人間の力量は比べるまでもなく圧倒的な差があった。というのも、魔法を意のままに操る高位魔族にとって、武器しか持たない人間などそれほど脅威ではない。
よって鬱陶しい虫くらいの認識を持っているのだが、父の代を見てきた身としては飽き飽きしてきたところだ。
冷たい目線を崩さないリィラは玉座にて、うんざりとした息を吐いた。
「二度と国境を越えぬと約束するのなら帰してやらんこともない。そして貴国の王に伝えよ、次に侵入する者があれば容赦はせぬと」
しかしリィラの提案に頷くわけでもなく、彼はただぽかんとこちらを眺めている。
月光に似たやや短めの銀髪も、褐色の肌も近国セフィドの民である証。
スミレ色の澄んだ瞳は驚きに溢れ、大きく見開かれている。
「君が、魔王……?」
緊張のためだろうか、尋ねる声は少し掠れていた。
「いかにも」と短く答えると彼は胸に手を当て、恍惚とした息を吐いた。
「なんて愛らしいんだ……。それに澄み切った鈴のような可愛らしい声……。俺はこんなに美しい音色を聞いたことがない」
「は?」
今度はリィラが大きな目を瞬く。
なにを言っているのだろう。言葉の意味をすぐには理解できなかった。
まさか幻聴? と疑いはしたが、シリウスの視線は引くほどに熱っぽい。つぶやかれた声は幻ではないらしい。
たじろぐリィラを気にせず、玉座への階段を登るシリウスの足取りには迷いがなかった。
もちろん控えていた側近が行く手を阻もうと魔法を放つ。リィラの方針で手加減はしているはずだが、それでも食らえば無事ではいられないだろう。
しかし光の玉はシリウスに触れる前に霧散してしまった。
愕然とした側近が再び手をかざしてみても、おなじように魔力は散って消える。
しかも真っ直ぐとリィラの元へ近づくシリウスの表情は、どうにも冗談を言っているようには見えなかった。
「好きだ。一目惚れした。俺と結婚してくれ」
「え、ちょ、近寄るな!」
突然の展開に狼狽えるリィラから冷静さは失われている。放った魔法が次々とかき消されている周りの部下たちも混乱し見守るばかりだ。
魔法が効かない。それは魔力の強さが序列を決定する魔族にとって、あまりにも絶望的な状況だった。
慌てふためくリィラは、とっさに伸ばした腕から防御魔法を展開する。発光するガラスのような透明な壁は魔力だけでなく、物理的な接触も拒否するものだ。
だが次の瞬間、リィラは思わず悲鳴をあげた。
「んぎゃあぁぁぁ!?」
「フンッ!」
なぜならシリウスが防御壁に手のひらで圧を与えた途端、割れるような音を立て、脆く崩れてしまったからだ。キラキラと舞う破片に映るリィラの顔色は青い。
「こんなもので俺の愛は遮れない!」
「ヒィッ! あ、ありえない! お前はゴリラか!」
まさか魔力で生成したものを物理の力で破壊されるとは思わなかった。さすが勇者というべきだろうか。
苦し紛れに放った氷の刃は素手で掴まれ、部屋中の誰しもが唖然と口を開いている。しかも握りつぶされた魔力は粉々に砕け散った。光り輝く魔力の破片がシリウスの手から儚く落ちる。
「わ、私の魔法が……」
震えるリィラの背は玉座に貼り付くようだ。
シリウスは自らの手首を指差す。そこにあるのは白銀の細いブレスレット。よく見ると精緻な彫刻が施されている。見覚えのある小さな花はセフィドが信仰する女神の象徴だったはず。
「俺は国で一番有名な勇者の末裔らしい。これは先祖代々伝わるものだ。魔法に対する防御力を高めてくれるものと聞いたけど、効果は抜群みたいだな」
「そんなの反則よ! まさか防御壁を破ったのも、妙な腕輪の仕業か?」
怯えるリィラに指を伸ばし、シリウスは細く華奢な手を取る。逃げようにも玉座のせいで逃げ場がない。
「いや、どうだろう。腕力には昔から自信があるから、単純に物理の力じゃないか? 国ではよく脳筋と親しまれたものだ」
それは悪口では……。しかしそんなツッコミを入れる余裕などなかった。握られた手が単純に怖い。
「どうか俺の愛を受け入れてくれ。俺の心も、体も、この剣も、全てあなたに捧げる」
思わずシリウスの肩越しに見える剣の柄に目をやる。そういえばこの男、やたらとでかいブロードソードを所持している。調査した部下からは「あれは切れ味云々というより、もはや鈍器かと思われます」なんて報告を受けているものだ。
腕力だろうが女神の加護だろうが、もうこの際どちらでもいい。どっちにしろ厄介な男には変わりがないのだ。
先ほどの理解不能な力を思い出し、今さらゾッと背筋が寒くなる。魔力で作り上げたものを素手で破壊するなんて聞いたこともないし、生まれてこのかた見たこともなかった。
「い、いやあ! お前のようなゴリラを受け入れられるか! 離せ!」
「この手を離せば受け入れてくれるのか?」
「なんでそうなる! 無理! 絶対無理!」
「なら離せない」
「怖い!」
いまだかつてこれほどの恐怖心を抱いたことがあるだろうか。いや、ない。
なにが彼をそこまで駆り立てているのか全くわからないが、シリウスはいたって真剣だ。
しかもタチが悪いことにこのゴリラ、黙っていればなかなかの美丈夫なのだ。
勇者という称号に相応しく鍛えられた長身も、凛々しい目元も、更にはブレスレットが光る手首さえ正直好みのタイプである。普通に告白されていれば、おそらく普通に受け入れていた。
そんな煩悩もあり、長時間繰り返されるやり取りに折れたのはリィラのほうだった。
***
シリウスが無理やり滞在を始めてからそろそろ一月が経過する。
あの場にいた者たちは誰一人としてリィラの決断に反対はしなかった。
むしろ最後には、
「とりあえずお試しに滞在だけならいいんじゃないですか?」
という部下たちからの説得もあったのだ。
それというのも、国を破壊されるよりはマシだろう、それにこの怪力を我が国のものに出来るのであれば問題ないのでは、という理由のもと、わりとあっさり迎え入れられたというわけだ。
自室のソファに座り、昼食後のお茶をゆっくり味わっていたリィラは、ふと向かいに座るシリウスの首元に目をやった。
滞在の条件として厄介なブレスレットは没収済みである。代わりに彼の首には金色の細いリングがあった。
中央に赤い宝石が埋め込まれた金の輪は褐色の肌によく映える。もちろんただの装飾具ではない。リィラに危害を加えようとすれば即死の魔法が作動する仕掛けになっている。
そんな危険なものを躊躇せず受け取り、自ら首に嵌めたシリウスはどこまでも予測できない男だった。
それに、求婚したにもかかわらず、彼からは仲を進展させようとする気配もない。
ただただ優しくリィラを気遣う姿はまさに人畜無害そのものである。
おそらく一過性の感情だったのだろう。拍子抜けしたリィラは、ほっとしたような安堵もあり、同時になんとなくモヤモヤした感情も抱えていたりする。
「どうした? リィラ」
眺める視線に気づいたシリウスは飲んでいたカップをソーサーに置き、首を傾げた。
「なんでもない……。その、今日も美味であった」
料理が得意だというシリウスは、たびたびリィラに昼食を振る舞う。
はじめは拒否していた料理人ともいつの間にか打ち解け、今では調理場に出入りできるようになっている。食の話題は国境を越えるらしい。
シリウスの作る料理は素朴で、初めて口にする味ばかりだというのに、なぜか懐かしさを感じるものばかりだ。
「それはよかった。リィラいつも無理してるだろ。せめておいしいもので疲れを癒してあげたいからな」
「無理なんかしてない。私はこの国を治める魔王だからな」
ツンと顔を背ければ、シリウスの笑う気配がした。
リィラにこんな口の利き方や接し方をする者はメランに存在しない。
側近といえど一定の距離があるのは当然のことである。
いわばシリウスの態度は無礼に当たるのだ。しかし不快感はなく、一緒に過ごす時間は不思議なほど心地がよい。
むしろ会うたびに惹かれていく自覚があった。そもそもはじめに好意をぶつけてきたのはシリウスだ。
なのに色恋を感じさせない彼の態度は正直、不満でもある。
ムッとくちびるを尖らせるリィラを微笑ましく眺め、シリウスは隣へと移動してきた。こんな気安い距離もいつの間にか日常になっている。初日に感じた恐怖が嘘のようで、リィラはさりげなく、逞しい肩にもたれてみた。
こうすると彼の高い体温が伝わって、不思議と心が安らぐのだ。
「俺の前では無理しなくていいんだ。俺はリィラの部下ではないからな、格好つける必要なんかない」
「格好つけてなんか……」
反論しようとしたリィラの肩が片腕で引き寄せられる。そうして彼の手は、ぽんと軽く髪を撫でた。
シリウスの手は不思議だ。触れられるとなぜか素直な気持ちになってしまう。
無言で優しく髪を撫でられているだけなのに、いつの間にか頬が濡れていて、それに気づいた途端ぽろぽろと止まらない涙がこぼれだした。
彼が作る、じんわりと心に沁みるような料理。リィラの些細な変化を見逃さない気配り。それに優しい声音。
シリウスを異性として好ましくは思っている。しかしそれ以上に、どうしても幼い頃に失った温かさを思い出すのだ。
「うっ……、母上ぇ!」
「は、母上?」
ひしとしがみついたリィラの発した言葉にシリウスは動揺したようだが、当のリィラはわんわんと泣きじゃくる。
「ずっと、つらかったの! 急に父上が死んでしまって、どうすればよいのかわからないの……。魔王なんて大それた地位、私には無理なのよ」
亡き父のように威厳ある姿。強い魔力。有無を言わせない統率力。
意識すればするほどプレッシャーに押しつぶされてしまいそうな毎日を過ごしてきた。
周囲に弱音なんか吐けるはずもない。なのにシリウスなら許してくれるような気がして、つい本音をぶちまけてしまった。
「リィラはよく頑張ってるよ。こんなに華奢な体でメランを治めてるんだから。ここはいい国だ」
優しく髪を撫でる手があまりにも温かく、頬を伝う雫が止まらない。ぐすぐすと泣き続けるリィラの涙は、シリウスの白いシャツの袖で拭われる。
「ほ、本当に、そう思う……?」
涙で声は詰まってしまった。顔だって相当ひどいはずだ。
だけどシリウスは愛おしそうに目を細め、そっと抱きしめてくれた。
突然の抱擁はリィラを驚かせ、胸を大きく高鳴らせる。こんなふうに抱きしめられるのは初めてだったから。
しかしシリウスの腕はあくまで優しく、緊張はすれどリィラは素直に身を任せる。
「ああ、国民の顔を見ればわかる。みんな活き活きとして、街も活気にあふれているからな」
頭のすぐそばで聞こえる声も心地がいい。うっとり目を閉じるリィラは、ほうっと安堵の息をもらした。
甘やかせてくれて、誰よりも優しく、全肯定してくれる存在。
この際限ない温かさに懐かしさを感じて仕方がなかった。これほど安心のできる存在をリィラは一人しか知らない。
「母上……」
しかし、ぽつりとこぼれた声を聞いたシリウスは、抱きしめていた腕を緩める。そうして覗き込む瞳は不可解と言いたげな色を宿していた。
「その、さっきから母上ってなんだ?」
「シリウスはまるで母上のようだ。お前も私を娘のように思っているのではないか?」
「どういう思考回路をしているんだ……」
呆れた声を出したシリウスは大きなため息をつく。
頭が痛いと言わんばかりに手を額に当てた彼はどうにも不服そうだ。しかしリィラとしては、わりと本気だった。だからこそ、手を出してこないのではないだろうか。あのプロポーズはきっと気の迷い……そんな疑いもあったからだ。
しかし直後に、ふわりと体が浮いてリィラは小さな悲鳴をあげる。だけど浮遊感は一瞬だった。状況を頭が認識する前に、気づけば彼の膝の上へ乗せられてしまっていた。
シリウスの馬鹿力の前では、小柄なリィラの体重などなんの重みも感じないのかもしれない。
「娘なんて、思ってるわけないだろ」
「ひゃあっ!?」
背後から耳元で囁くような声が響いて、リィラの肩が大きく跳ね上がった。くすぐったさと恥ずかしさが混ざり合い、リィラはここから逃げ出そうと身を捩る。
だけど腰に回された腕でしっかりと抱き止められて、どうやっても抜け出せそうにはなかった。
「シリウス、離せ!」
「俺は君の母上じゃない。だけど、家族にはなれる。出会った日に伝えた言葉は覚えているか?」
「ん? 伝えた? えっと……」
それは求婚のことだろうか。
まさか今さらその話題が出るとは思わなかった。シリウスはすっかり忘れていると思っていたのに。
驚きのあまり、リィラは大きな目をぱちくりと瞬いた。
「まさか覚えていないのか?」
問う声には少しの不安が浮かんでいる。
静かな声音がやけに耳に残った。困ったことに、声までも好みなのだ。
しかも背中に密着する胸板からリィラより高い体温が伝わってくる。無性に胸が騒いで、顔も体も熱くて仕方がない。
「それは……覚えている……」
「そうか、よかった」
安堵を感じさせる声が吐息と共に耳に触れる。リィラを振り向かせたシリウスは、ゆっくりとくちびるを重ね合わせた。
突然のことに、なにが起きたのかわからなかった。
彼の顔が離れてから数秒経って、リィラはやっと状況を理解する。
はじめてのキスはあっという間に奪われてしまった。しかも、くちびるに残る熱は想像していたよりずっと熱い。
「俺と結婚しよう、リィラ。そうしたら俺たちは家族だ。怖がらせたくなかったからゆっくり進めるつもりだったけど、気が変わった」
決意したように告げるシリウスは、腕の中に閉じ込めたままのリィラの向きを変える。今度も驚くほどスムーズに持ち上げられ、向き合う形で腰を抱かれた。
リィラを抱えなおすくらい、力も背丈もあるシリウスには軽い動作のようだ。子どものようにひょいと抱えられ驚いたものだが、真剣な瞳に射抜かれたおかげで、抗議することも忘れてしまった。
そうしてシリウスは懐からおもむろに、なにか小さなものを取り出した。見ると彼の手には、子供の手のひらに収まりそうな小さな布袋がある。
きょとんと首を傾げるリィラの手を取り、袋の中にあったものをころんと乗せた。
「母の形見の指輪だ。受け取ってくれ」
「え、今どこから取り出した?」
「細かなことは気にするな。結婚相手にはこれを贈ろうと昔から決めていた」
目の前に提示されたそれは、シンプルな形をしたシルバー色のリングだった。
どうしてそんなところから出てきたのだろう。ほのかに生温かいリングがなんともいえない。
いや別に、シリウスの体温が嫌なわけではないのだが。
なんとなく眉根を寄せていると、シリウスは再びリングを掴み、リィラの左手をそっと掬い上げた。
恭しく触れる手にとくんと鼓動が跳ねたけれど、ふとリィラは我に返る。
この男、このまま指輪をはめる気だ。
そう直感したリィラは、慌てて手を引っ込めた。
「待て! 私はまだ返事をしていない」
「俺は本気だ。今でも俺を受け入れられないなら、リィラも本気で抵抗すればいい。俺はもう魔法に対する術がないからな。リィラなら俺を簡単に殺せるだろ」
「ばかっ! お前を殺すなんて、そんなこと絶対にしない!」
反射的に大きな声が出てしまった。そんなふうに思われているなんて心外だ。
リィラの好意は少しも伝わっていないのだろうか。
悲しくなったリィラは、ちくりと痛む自身の胸を庇うように手を置く。
「お前は、本当に私が……好き、なのか?」
「もちろん好きだ。むしろ愛してる。リィラだけいればいい。もはや俺にとってこの世は、リィラかリィラじゃないかによって二分されている」
「そ、そうか……」
はっきりと、しかも被せるように言い切られてしまった。圧すら感じる告白にリィラはやや後ずさる。
と言っても、がっちりと抱く腕のせいで少しも逃げられはしないのだけど。
どうせこの馬鹿力からは逃げられないのだ。腹を括ったリィラは赤い顔を隠すよう、目線を下に向ける。
「私も、お前が好き……なんだと思う。でも、いきなり結婚は早いというか……まずは付き合うところから始めて、お互いを少しずつ知ってから……」
「どうせ結婚するんだから同じだ」
「いやでも、価値観の違いとか……もしかすると合わなかったりとか……」
箱入りで育ったリィラの恋愛観は固い。なんなら交換日記から始めたいくらいだ。本来ならこうやって密な距離で触れられることもありえないのだが、シリウスによる日々のスキンシップのおかげで麻痺してしまっている。
「合わないはずがない。なぜなら俺がリィラに不満を抱くはずがないし、リィラに歯向かうこともないからだ。だが、万が一にでも合わないと感じた時は即座に指摘してくれ。一日、いやその場で直してみせる」
「ええぇ……」
真っ直ぐな視線はもはや引くほどである。なにがそこまでシリウスを突き動かしているのか、リィラにはいまだわからない。
しかし不審な表情を浮かべるリィラの頬に触れ、シリウスは甘い微笑みを見せる。本当にこのゴリラ、すこぶる顔がいい。
「毎日おいしいご飯を作って、いくらでも甘やかせてやる。それに俺は腕力もあるし、なかなか使える男だ。あとはそうだな、リィラの望むことはなんでも叶えよう」
自国のものと異なる彼の料理は魅力的だし、それにシリウスの怪力は国にとっても有益なものだ。
こうやって条件を並べられると、彼に流されがちなリィラは慎重さよりも感情が優先されていく。
「なんでも?」
「ああ、眠るまで手を握ってやったりな」
「なんだそれは」
シリウスは冗談ぽく笑っている。
つい呆れた声で返してしまったが、リィラ自身その提案は悪くないと思えた。
「でもそうだな……私も賛成かもしれない。その指輪、受け取ってやってもいい」
魔王の娘として生を受けたリィラは常に気高い存在でいることを求められていた。
誰かに甘えるなんて想像もできなかったし、弱い姿を見せることにも抵抗があった。
なのにシリウスの動作一つで胸が跳ねて、誰にも見せたことのない無防備な顔や声を晒している。むしろこんな環境に心地よさを感じているのだ。
これは心がすでに答えを出している証拠なのかもしれない。
「……今日から、手を握ってくれる?」
「もちろんだ。リィラが寝たあとも離しはしない」
シリウスは慈しむようにリィラの黒い髪に指を通す。やっぱり彼の手は安心感を与えてくれる。こんなくすぐったさも悪くない。
愛おしそうに目を細めるシリウスに、リィラもまた素直な笑みを返した。
そしてその夜、手を握ると言っていた彼になぜか抱きしめられて眠ることになってしまった。
しかも宣言どおり、シリウスは一晩中リィラを離しはしなかった。おかげでなかなか寝つくことができなかったのだが、それでも胸にあふれるのは暖かな幸福感だった。
***
隣で眠る想い人を見つめるシリウスは、思わず笑みをもらす。細い肩にブランケットを引き上げれば、眠りながらもリィラはこちらへ身を寄せてくる。
なんとも無垢な表情だ。このあどけない娘が魔族の頂点に君臨しているとは、とても思えない。
穢れない雪のように白い肌も、黒檀のような黒髪もうっとりするほど美しい。彼女の纏う色彩は祖国では見られないものだ。
それにしても、とシリウスは思う。まさかこちらが陥落させられるとは予想外だった。
一目惚れしたのは事実だ。小柄な体で一生懸命に威厳を保とうとしている姿勢も好ましく映った。
しかし、勇者と担ぎ上げられたのには事情がある。
力技でも色仕掛けでもどちらでもかまわない。とにかく魔王を陥落させること。
それがシリウスに課せられた使命だった。
まだ就任して間もない魔王が若い女だということは、セフィドの中枢でも知られていることだ。
メランは資源も自然も豊かな国である。貴重な宝石や、手を加えなくとも飲める水はこちらの地では珍しいものではない。
けれども侵略などめっそうもなかった。魔法を操る魔族たちの力は強大で、争いになるとセフィドには分が悪いからだ。
そんなある日、シリウスに白羽の矢が立った。
生まれ持った怪力が噂になり、国のお偉方の耳に入ったのだとか。しかも幼い頃から身につけていた腕輪に伝説の勇者の紋様が刻まれていたのだから、それはもう大変な騒ぎになってしまったのだ。
シリウス自身は先祖代々伝わる守りの腕輪としか知らなかったし、亡くなった母からもそんな話は聞いたことがなかった。まさに寝耳に水である。
しかし、ここ数年の悩みから解放された欲深な宰相たちは歓喜に震え、意気揚々とシリウスに任務を課せた。
命じられた時は馬鹿馬鹿しいと思ったものだが、下層の民であるシリウスに拒否権などない。セフィドにおいてもっとも軽んじられる身分である。
とりあえず魔王に会って、形だけの交渉でもして日常に戻ろう。そんなやる気のない考えでメランを訪れることにした。
だがリィラを見た瞬間、この任務を与えた老人たちに感謝をしてしまった。
自分は彼女に出会うために生きてきた。そう思えて仕方がなかったのだ。
出会った日を懐かしく思い、すぐそばにある艶やかな黒髪に指を通す。ぴくりとまぶたが震え、ゆっくりと開かれる鮮やかな紅い瞳。
リィラの目にはしっかりとシリウスが映っている。なのに反応はない。目覚めたばかりの頭は状況を認識していないのだろう。
「おはよう、リィラ」
「おは……?」
甘く微笑んでみせると、白い頬がみるみるうちに赤く染まっていく。
「えっと、おはよう……」
どうやら状況を思い出したようだが、心がついていかないらしい。顔を隠すよう、ブランケットに潜り込もうとするリィラの肩へ手を伸ばし、シリウスは細い体を抱き寄せる。
「もう一度言おう。大切にする、どうか俺の妻になってくれ」
確認の意味を込めた再度のプロポーズ。すると一瞬肩を強張らせたリィラは視線を彷徨わせ、ちらりと上目づかいで目線を合わせる。
彼女はいつも気丈で、不安そうに揺れる赤い瞳はあまり見ないものだ。
「私を妻にするということは、もう国へは帰れないのだぞ。その、一生……。それでもいいのか?」
「願ってもない話だ。俺に身内はいないし、セフィドに残してきたものはなにもない」
あまりにも予想外の心配だった。シリウスは思わず目を瞬く。しかも一生の保証付きとはありがたい。
自然とにやける顔をなんとか制し、リィラの額にかかる前髪をそっと払う。
「セフィドでは毎日無気力に生きていた。なんとしても手に入れたいと思ったのは、君だけだ。リィラが望むのなら、俺はなんでもする」
「……もし、セフィドが欲しいと言ったならどうする?」
「喜んで献上するさ。離れるのは惜しいけど、今すぐ王の首を取ってこようか?」
面倒だが、国から承ったあの重い剣を振るえばやれないことはないだろう。しかし言い出したリィラはギョッと目を見開いた。
「物騒! 本気にするでない! 言ってみただけだ、そんなことをすれば戦がおきてしまう。それに……危険なことはしてほしくない」
慌てるリィラは、赤い顔を伏せて目を逸らす。しかも最後の声は小さく、その姿は玉座にいる時の威厳など皆無である。素の表情を無防備に見せる彼女がたまらず、シリウスは無意識のうちに抱きしめていた。
(勇者なんて馬鹿らしいと思ってたけど……ご先祖様にも、老人たちにも感謝だな)
なぜならそのきっかけがなければ、リィラの存在すら知らずに生を終えていたのだから。
シリウスに課せられたのは、魔王を手にすること。ただそれだけである。
セフィドに連れて帰れとも、命を奪えとも命じられたわけではない。
おそらく、というより老人たちは十中八九リィラを意のままに操れるシリウスをご所望なのだろう。
しかし言外のことまでわざわざ汲み取ってやる必要はない。もし命じられたとしても、今さら従うつもりはなかった。身分の高い者にしか恩恵のない国に、愛着などあるわけがないのに。
もしこちらへ使者を派遣しても、魔王の前で真相は話せないだろう。
それに、そこまで必死にシリウスを取り戻しに来るとも思えなかった。なぜなら勇者を失ったからといって、セフィドが滅ぶわけでもない。戦乱の世なら違ってくるが、今は平時である。変わりのない暮らしを続けていくことは可能だ。しかもシリウスは下層の民。不快な話だが、セフィドにおいてはいくらでも替えが利く存在なのだ。
もしかするとそう遠くないうちに第二の勇者が送り込まれてくるかもしれない。
そんなシリウスの思考に気づかないリィラは、甘えるように体をすり寄せてきた。
無自覚なのかどうかはわからないが、彼女は甘え上手である。
「それにしても……私の代に侵入した勇者がお前でよかった。他国の者とはいえ、手に掛けるのは遠慮したいからな」
「そうか、リィラは優しいからな。もしそんなことがあれば俺が代わりに始末しよう」
「また物騒なことを……」
引かれてしまった。けれども、ドン引く表情すら可愛らしい。
「俺は本気だ。どうせ剣を振るうのなら、どうでもいい王のためなんかより、可愛いリィラを守りたい」
照れたリィラはまたもや視線を逸らす。そんな彼女の頬を愛おしく撫でたシリウスは、白い額に恭しく口づけた。
オカン系ヒーローが書きたい!から始まったお話です。
ここまで脳筋なヒーローは初めて書きましたが、めっちゃ楽しかったです。
感想ブクマ評価もらえると大変喜びます(❁ᴗ͈ˬᴗ͈)