48 舞台袖にて
「白花先輩、演劇頑張って下さーい」
体育館へと向かっている最中、ハルは廊下ですれ違った後輩に声を掛けられていた。
「ん、おーう」
ハルは特に気にする様子もなく手を振って生返事だけをして、そのまま通り過ぎていく。
私は初めて見る光景に違和感を抱いた。
「……知ってる子?」
「ううん、全然。今初めて喋った」
それは自然な事ではない。
今までハルに、後輩の子で、それも知り合いでもない子が話しかける事なんてなかった。
原因を考えるならば、ハルの演劇を通しての人当たりの良さが噂で回り、こうして話しかけられるようになったのかもしれない。
ハルが人との距離を縮めた結果は、こういう所にも表れているのだろうか。
胸の奥がモヤモヤと不明瞭なものに覆われていく。
その事を確かめる事が出来ない自分にも、イライラが募る。
考えないようにと蓋をしようとしても、一度それが顔を出すと引っ込める事は難しい。
「そんな事より、ほら行こうぜ」
先を歩いていくハル。
その背中を見つめていると、周囲の視線が彼女に集まっているように感じる。
皆がハルの魅力に気づき始めているのかもしれない。
私はそんな彼女の隣にいていいのだろうか?
今までは彼女の素行不良を正すために、私が側にいる理由があった。
でもそれがなくなれば、私はハルとは釣り合わないつまらない人間でしかない。
そうなれば、不要なのは私なのではないだろうか。
彼女の隣にいる事自体が場違いになっているような、そんな感覚を覚えた。
◇◇◇
衣装に着替え、舞台袖に回る。
「き、緊張してきましたね……」
声を出したのは学級委員長で総指揮の吉田さんだ。
「なんで出ないそっちが緊張すんだよ、普通あたしだろそれ」
聞きつけたハルは軽快に返事をする。
確かにハルの方が落ち着いているように見えた。
「い、いえ……見守るだけでも緊張するもんですよ。セリフ嚙まないかなとか、照明のタイミングずれないかなとか、背景交換スムーズに出来るかなとか……」
吉田さんは全体を統括しているだけあって、演劇そのものを管理している。
それだけに演じる私達よりも心配事は多いのだろう。
その気持ちは生徒会として運営に携わる私も共感できるものがある。
「ああ、分かった分かった。オッケーがんば」
……まあ、ハルはどうでもいいと言わんばかりに流していたけれど。
「でもハルは本当に落ち着いているのね」
「そういう澪は緊張でもしてんの?」
いざ本番が目の前になって全員の緊張感も増してきているのは肌で感じている。
「正直しているわね」
クラスメイトの前で演技する事は慣れたが、その他大勢の前で見せるのかと思うと手が震えてくるほどだ。
「はは、ほんとだ」
「あ、えと……」
するとハルの方から手を重ねてくる。
緊張で指先が冷たくなっている私と違って、ハルの手は暖かった。
「かわいー所あるじゃん」
「か……からかわないでっ」
ハルが微笑むのを見て、思わず手を振りほどいてしまう。
自分の弱い所を見られたようで、急に気恥ずかしくなってしまった。
それを見透かしたように、ハルはやはり笑う。
「いいんだぜ、別に普段はあたしが澪を救う王子様でも」
「お姫様って柄でもないわよ」
もし物語の住人になるのなら、私は召使いが向いている。
主人のために淡々と業務をこなすのだ。
「……そーいうとこだぜ、澪」
「何のこと」
「人生は自分が主役なんだ、姫でも王子様でもなろうって気概はないのかよ?」
「……理屈は分かるけど、それが私には出来ないのよ。今だって、本音はこの場から逃げ出したいんだもの」
どれだけ自分を理論武装しても根っこという本質は変わらない。
私は表舞台に上がりたい人間ではないのだ。
でもだからこそ、憧れた。
青崎先輩のような自然とステージに上がっていく存在を。
そして私の目の前には、同じように何食わぬ顔でステージの主役に躍り出る少女がいる。
私はその星のような輝きに触れてみたかったのだ。
そこに手を伸ばしてみたかった。
でも、光には必ず影が生まれる。
私はその影を濃くしているだけの事に気付いてしまったのだ。
「困りますよっ、王子様がいなくなったらカバーのしようがありませんっ」
そこに吉田さんが慌てたようにカットインしてくる。
多分、私が逃げ出したいという部分を聞きつけたのだと思う。
「何言ってんだよ、そん時は吉田が王子をやれば済む話だろ」
それに対しハルが吉田さんに無理難題を突き付けていた。
それもあんまりだろう。
「え、白花さんにキスしてもいいんですか?」
「は?」
いや、うん、吉田さんツッコむポイントがおかしいと思う。
もっと素直に嫌だと言わないと。
ハルもハルで、仮に王子様を代役してもらったらその流れになるんだから“は?”とか威圧的な態度をとるのはやめよう。
「と、とにかく! 満員なんですから、練習通りにお願いしますねっ!」
……満員なんだ。
吉田さんにもたらされた新情報によって私の緊張感に拍車が掛かる。
『それでは、これより演劇・白雪姫を開演致します』
アナウンスが入った。
「よっしゃ、頑張ろうぜ澪」
「……ええ、ハル」
私はその二人の光景を未だ複雑な感情で眺めていた。
演劇に集中できない私は、誰よりも不真面目だ。
開演のブザーが鳴り、舞台の幕は上がる。




