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欲しいもの(1)

 一週間の勤労を終え、狭い車内から解放されたでかい男三人が、各々肩を回したり伸びをしたりしていると、馬車が近付いて来る音が耳に届いた。

 それで、誰の耳が動いたわけでもない。かと言って、何かを示し合わせたわけでもない。

 だが、誰一人として商館に直行することはせず、庭の一角で、取って付けたかのような柔軟体操のようなものを繰り返していた。

 ビアンカも外出していて、今まさに帰宅しようとしているところなのだろうか。と、考える俺の横で、ユーリとガロも同じようなことを考えているのだろう、と思った。


 そうしているうちに、馬車の音が近付いてきた。

 この音は、俺を、嬉しさと腹立たしさが混ざり合った複雑な気持ちにさせる。

 仕方のないことだ、とわかってはいる。

 俺とビアンカがどれだけ親しくなろうと、だからと言ってビアンカがヘレンキース伯爵との縁を断ち切ることないだろうし、できないことなのだろう、と理解している。

 だから、多少の不満はあれど、納得して受け入れていた。

 きちんと、自分の奥底に押し留めていた。

 

 しかし、馬車が止まってビアンカが下りてきた時、その薄暗い気持ちがじゅくじゅくと膨張して滲み出ていくような、そんな心地がした。

 ビアンカの方へと踏み出しかけていた足が、俄かに竦む。

 ビアンカの匂い、ヘレンキース伯爵の匂い、おしろいの匂い、それから酒の匂い――。

 俺の前に現れたビアンカは、そういう芳香を漂わせていて、その上、やたらと可愛いらしかった。

 いつもと全然違う。パーティに行く時とも違う。華やかで愛らしい姿は、今にも抱き寄せたくなるが、この姿を別の男、しかもヘレンキース伯爵の前に晒していたのかと思うと、胸がもやもやとした感情で覆われる。

 

 ぼんやりと突っ立っているうちに、馬車が走り去っていった。

 ビアンカは俺たちの姿を認めて、ふわりとした微笑みを見せる。

 俺たちを真っすぐに見つめたまま、こちらへと足を踏み出したが、その爪先は平坦な地面に引っ掛かり、つんのめった。

 弧を描いていた唇がわずかに開き、「あ」と間の抜けた声が響く。

 

「ビアンカ!」

 

 叫ぶ俺の目の前で、ビアンカの体が前傾する。

 咄嗟に一、二秒後のビアンカの位置予測して、そこに向けて両手を伸ばした。

 ――だが、ビアンカは俺の腕の中には落ちてこなかった。

 ビアンカは傾きかけた状態のまま、止まっている。

 ビアンカは、横から伸ばされた一本の棒で腹を支えられていて――それは、一足先にビアンカの元へと駆け寄っていたユーリの腕だった。

 安堵と驚きの息を吐き、行き場を失った腕を下ろしたところで、ユーリが「ビアンカ、軽いな」と言うのを聞いた。

 見れば、ユーリが目を丸くしてビアンカを見下ろしている。

 対するビアンカの顔は下を向いていて、表情は見えない。

 ただ、ユーリの腕に手をついて、自ら体勢を戻そうとしているように見えた。が、

 

「わっ」

 

 ユーリが腕ずくでビアンカを元の位置に戻し、その上その小さな体を横抱きに持ち上げた。

 

「本当に軽いんだな、ビアンカ」

 

 ユーリは、自身の腕の中で身を固くするビアンカを見下ろしながら、何故か嬉しそうな声を上げている。

 

「おい! ユーリ、何してるんだ!」

 

 焦り叫ぶ俺に対し、ユーリは「何って、お姫様だっこだけど?」と事も無げに答えた。

 

「下ろせ」

「なんでだよ。俺は、転びそうになったビアンカを助けただけだ。だろ、ビアンカ?」

「いいから、下ろせ」

 

 口を開きかけたビアンカが見えなかったわけではないが、この状態でユーリと会話させたくなかった。

 

「はあ? 下ろしたらまた転ぶぞ? だって、ビアンカ酔ってんだろ? 俺、こんなに可愛いビアンカ見たの初め――」

「下ろせって言ってんだろ」

 

 知らず知らずのうちに、喉が震える。今にも獣の唸り声を上げてしまう寸でのところで、ビアンカの不安げな表情が目に入り、それがどうにか俺を押し留めた。

 ユーリの口が、はっきりとへの字に曲がる。

 それから、はあ、と大きなため息を吐いた。

 

「これでいいんだろ」

 

 ユーリはそう言うと、ビアンカを抱えたまま俺の方へと寄ってきた。

 俺の正面に立ち、ビアンカを地面に下ろす代わりに、俺の胸にビアンカを押し付けてくる。

 その体を黙って受け止めると、ビアンカも静かに俺の体に体重を預けた。

 

「……俺は屋敷に帰る。ガロも、行くぞ」

 

 ユーリは、不機嫌そうな表情を浮かべて、さっさと踵を返した。

 ガロは「ああ」と返した後、無表情な顔で俺をちらりと一瞥したが、やがてユーリを追って商館へと消えて行った。

 ようやく、邪魔者たちがいなくなった。

 無意識のうちに、はあ、と重い溜息が出た。

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