知らない過去と未来(2)
「……マルセルは、私の弟なの」
しばらく空白の時間が続いた後に発せられた言葉は、俺を大いに混乱させるものだった。
弟だというならば、それは、俺にとってはすごく都合が良い。
だが、そう考える俺とは別の俺が、弟であるはずがない、と警鐘を鳴らしている。
でも、ビアンカが嘘などつくはずがないから、尚更わけがわからなくなる。
「弟…………なのか?」
オウム返しのような実の無い質問を投げかけた俺に、ビアンカは力なく笑った。
「そう、弟。知らなかったでしょ、私に弟がいたこと」
「ああ……家族はいないって、ルドが……」
「そうね。古くから屋敷に仕えている人以外は、誰も知らない。だって、生物学上は弟だけど、戸籍上は赤の他人だから」
「そう……なのか……」
相槌を打ってみても、うまく理解が追いつかない。
弟、赤の他人、それでいて一緒に住む予定だという――。
「要するに、私の父親が、妻以外の女性との間に作った子供、ってことね。私の父親はあちこちの女性に手を出す、紛うことなき好色家だったの」
ビアンカは明るい声で言った。
だがその表情は、とてもじゃないけど、楽しそうには見えなかった。
「それで、異民族の女性との間にマルセルが生まれた。彼女は貧乏で、避妊することも中絶することもできなかったから。でも父は、マルセルが自分の子供であるとは認知しなかった。それで、私は大人になってからマルセルの存在を知って、その時からマルセルに経済的な支援をしている。マルセルは今学校に通っていて、いずれこの屋敷の後継者になってもらう予定なの。本当は実弟として迎え入れられたら良いんだけど、とてもじゃないけど同じ両親を持つようには見えない外見をしているから、それは難しくて」
「それは、しっぽが生えているとか、そういうことか……?」
「いいえ、そうじゃないけど。ただ、目が真っ赤というだけなんだけどね。人間しかいない国では、そういう些細な特徴を気にする人が多いの」
ビアンカは今、どんな気持ちで話しているのだろう。
その形の良い唇は、確かにマルセルの正体を明かしているはずなのに、俺はだんだんと、ビアンカの深い場所で長年埋め隠されていた大切なものを呈示されているような錯覚に陥っていた。
「だからね、ハル、私はね……」
ビアンカが言葉を続ける。
相変わらず朗らかな声音だというのに、その声は小さく震えていた。
「本当はね、好色家っていう言葉がすごく嫌いなのよ。好色家が、どれ程汚くて、どれ程人を不幸にするか良く知ってる。もうすっかり言われ慣れていたつもりだったけど、やっぱり、私――」
ビアンカは、何かを飲み下すかのように、一時口を閉ざした。
「ハルはそう思っていないって言ってくれたけど、それも、良くわからなった。だって私の一番近くにいた男は、平気で心にもない甘言を吐く人間だったから。そんな偏見の目でハルを見るなんて馬鹿げてるって思うけど、私はどうしても、素直に受け取れなかった」
ビアンカは、もはやすっかり俯いてしまって、その表情は窺い知れない。
でもその小さくなった姿こそが、今のビアンカの心情を表しているようだった。
「俺が、ビアンカのことを好きだって言ったことも、信じられないか……?」
「……わからないよ……。信じていないはずなのに、本当に好きだったら良いって、期待しちゃってるんだから……」
ぱたぱたと微かな音がした。
見れば、落ちる雫が、ビアンカのドレスに小さな染みを作っていた。
「ビアンカ、近くに行っても良いか……?」
堪らずそう尋ねると、ビアンカは黙って頷いた。




