知らない過去と未来(1)
気付いたら、俺は、ビアンカの執務室にいた。
本当に、そんな感じだった。
ルドが、取り計らってくれたのだろうか。それともビアンカが気を利かせてくれたのか。
屋敷に着き、車から降りたら、すぐにこの部屋へと通された。
今、俺とビアンカは、最後に言葉を交わした時と同じように、向かい合って座っている。
「ビアンカ、本当に悪かった!」
危うく机にぶつかりそうになるくらい、深く頭を垂れた。
そうしたところで何の償いにもならないとわかっていても、そうでもしなければ気が収まらなかった。
許して欲しいと思う以前に、俺がビアンカを深く傷つけてしまったという事実が、苦しくて仕方がない。
「俺は、また、自分のことばかり考えていて、ビアンカを傷つけた。でも、ビアンカのことを好色家だって思っていたわけでは、絶対にない」
ビアンカは黙っていた。
俺は、怖くて顔が上げられないまま、言葉を続けた。
「鉱山で手を繋いだことも、ビアンカが慣れてるって言ったことも、そういう理由じゃない。俺は、ただ、焦っていたんだ……。ビアンカと親密にしている男がいると知って、勝手に焦って、変な言い方をしてしまった」
「……それってまさか、ヘレンキース伯爵のことを言ってるの?」
ビアンカがようやく、静かに口を開いた。
そろそろと首を上げる。
しばらく振りに視界に映ったビアンカの、その顔の真ん中で、柳眉が薄い皺を形成しているのが見えた。
「……それも……ある」
「も?」
「ああ……ビアンカ、ごめん……見てしまったんだ、手紙を……」
「手紙……?」
眉間の皺が僅かに深くなり、ビアンカは小さく首を傾げた。
「第二鉱山で、マルセルという男からの手紙を……共に暮らせる日を楽しみにしている、と書いてあった」
「…………」
ビアンカは、ぴたりと動きを止めてしまった。
怒りや驚きを表に出すわけでもなく、先程と変わらぬ表情で、ただ、時が止まったかのように静止している。
「……ごめん」
「…………」
謝っても、ビアンカは応えてはくれなかった。
許すとも許さないとも言わず、精巧な人形のようにどこか遠くに焦点を当てたまま、動かなかった。
「……ビアンカ?」
呼びかけてようやく、ビアンカは俺の声に応えるようにゆっくりと瞬きをした。
「……そう」
眉間の皺は消え、代わりに何を考えているかわからない、のっぺりとした表情が浮かんでいた。
「それでハルは、マルセルが私の愛人か何かだと思った?」
「愛人というか……親しい恋人か何かに見えて……もしかして、違うのか?」
「違うわよ」
「そうなのか……? じゃあ、一体……」
瞼の裏に焼き付いたかのように、ありありと思い出される。
大事にしまい込まれていた手紙。紙は白く、古びた様子はない。
美しく流れるような文字は、随分と書き慣れたような風情があった。
昔の思い出だとか、子供の戯れだとか、そういうものには見えなかった。
「……それを話したら、ハルは、私に対する認識を改めてくれる?」
ふと見ると、先程まで空虚だったそこに、何か感情が浮かんでいた。
口元は引き締められ、眉は複雑に歪んでいる。
瞳は潤み、惹きつけるような光を放っていた。
「……ああ。俺は、ビアンカのことをちゃんと理解したい」




