沸き上がる感情
執務室の端に置かれた、応接間のそれよりも一回りか二回り小さい応接セットの、その一人掛けソファに、ハルがぴんと背を張って座っている。
私が部屋に戻ると、ハルは鋭い動きで振り向き、「ビアンカ、話したいことがある」と言った。
「う、うん……」
そのただならぬ様子に、私の方が緊張してくる。
このところハルはずっと様子がおかしかったが、今日は群を抜いている。
怒っているのだろうか。
でも今日の私には、身に覚えがない。
ひょっとしてヘレンキース伯爵が、また何か変なことを言ったのではないか。
ハルの向かいに腰かけ、恐る恐る見上げると、ハルは口を開いた。
「ビアンカ! 俺も――、俺は――。俺は本当は――」
ハルの言葉は語勢こそ強かったが、どこかにつっかえがあるかのように、なかなかその先が出てこない。
一体何なのだろう、と眺めていると、突然ハルの眉尻が、すん、と下がった。
「俺は、ビアンカが好きなんだ……」
「え!?」
想像もしていなかったその言葉に、私はひどく動揺したようだった。
「え……ええと……ありがとう?」
「…………ありがとう、っていうのは、どういう返事なんだ……?」
「どういう返事って……。ハルこそ、突然どうしたの」
「……俺が好きだって言ったら、迷惑か?」
「いえ、あの、そうじゃないけど、ええと……まず、確認したいんだけど……」
落ち着け落ち着け、と自分に言い聞かせる。
「ハルは私を、どういう風に好きなの……?」
「すごく、好きだ。つまり、デートがしたい、っていう意味の、好きだ」
「デ、デート……? ハルの思うデートって何?」
「一緒に出掛けて、愛をささやくことだ」
ハルが大真面目な顔をして答えた。
些か重すぎる解釈にも思えたが、それでも私の知ってるデートと同じ単語のように聞こえる。
「本気で言ってるの……?」
「本気だ」
「だってハル、この間は、自分が女だったら良かったとか、そんなこと言ってたじゃない。とても、異性として好きだとは思えない」
「それは、その時は女だったら傍にいられると思ったからだ。でも本当は、男として、ビアンカの傍にいたい」
「う、嘘よ、だってハル……」
いつか小望月の下で見た、ハルの曖昧な表情が脳裏に浮かび上がる。
単に騙されるだけなら、別に構わない。でも、期待した後の落胆は、鈍い痛みを伴う。
「ハル、あの時、キスしなかったじゃない」
「あの時……?」
「だから、病院の中庭で過ごした夜よ! キスしても良いって言ったけど、しなかった!」
かーっと、自分の中の温度が上がっていく気がした。
私の声は変な具合に上擦ってていて、どこからか生まれた言葉が、頭で整形されないまま口から飛び出ているようだった。
「だって、ビアンカ酔ってたから……。酔って、自分が何言ってるのか――」
「私は、酔ってないって言った!」
「そうだけど、俺は……」
ハルは口籠って、うなだれた。
それからもごもごと口を動かし、「俺は、慣れていないんだ……」と呟いた。
「俺は人間のやり方がわからない……。いくら嫌じゃないって言われたって、酔ってないと言われたって、どうして良いかわからない。触れたくても、触れて良いのかも、どう触れるべきなのかもわからない。ましてやキスだなんて――。ビアンカは慣れているんだろうけど、俺は……」
「慣れているって……」
「だってそうだろう? ビアンカは――」
「好色家だって?」
ハルが、はっと顔を上げた。
「もう、いい。出てって」
「ち、違う、俺は……」
「出てってってば!」
私はソファから立ち上がり、ハルを視界の外へと追いやった。
「私、この後も仕事があるの。早く出て行って」
「……ビアンカ、違う。俺は、ビアンカのことを好色家だなんて思ってない」
私は、答えなかった。
答えられなかった。
ぎゅっと唇を噛みしめていないと、涙が零れ落ちそうだった。
どうしてこんなに泣きそうになっているのか、自分でもよくわからない。
はいそうですか、と言って喜んでハルの手を取ったって良いはずなのに。
どうしてかそれができなかった。
※一般に、「わきあがるかんじょう」の漢字表記は「湧き上がる感情」が正とされています




